境川と遺跡

 

 

 境川に人が遊動してきたのはいつ頃だろうか? その頃の境川はどのような状態であったのか? 「大 和市つる舞の里歴史資料館」のホームページでは次のように説明している。すなわち、

 『 この頃、すなわち2万年前頃は、最後の氷河期ビュルム氷期の中で最も寒い時期であった。 シベリア・北ヨーロッパなどには厚さが数千mにも及ぶ大陸氷河が 作られていた。その結果、海水面は現在の海岸線より120m以上 も下にあり、日本列島は大陸と陸つづきで、多くの動物や人たちが 日本列島に渡ってきました。市域は気温が年平均で約8度も低く、 現在の北海道十勝平野に近い気候で、ナウマンゾウやオオツノジカ などが住んでいました。』・・・と。

 

 

 

 

 この写真で薄茶色で塗りつぶしてあるのは、当時、陸地であったところであり、これを見ると、黄海(こうかい)は陸地であって朝鮮半島は半島になっ ていない。北海道もサハリンと繋がっており、日本海は湖になっていた。海面は今より120m以上も低かった。もちろん江ノ島は島ではなく陸地であって、境 川はそのずっと先が河口になっていたのである。東京湾も陸地であった。現在の鎌倉は海面より100mも高い丘になっていた。鎌倉には大きな川がないので、 遊動してきた人びとは自ずと境川に集まってきたのではないか。有史時代になって鎌倉は「海人」の拠点になったが、2万年前頃はその気配すらなかったのでは ないか。あくまでも中心地は境川沿川地域なのである。引地川は境川ほど大きくなく、八王子には繋がっていない。相模川は大きすぎて丸木舟で八王子まで行き 来するには厄介である。やはり境川が舟運には最適なのである。

 時代も下って、縄文海進が進むと、渡 部瞭さん(鵠沼を語る会・藤沢メダカの学校をつくる会会員) のホームページが示すように、境川も相当奥まで海になってしまう。藤沢の駅は海の中である。下の図は、6000年前頃の地図である。

 

 

 海面が最も上昇したのは、今から6000〜5500年ほど前、すなわち縄文時代の初期においては、藤沢付近では現在の海面よりも10m程度高かっ たと思われる。そのため、海の面積が拡がり、境川や引地川の谷は細長い入江となった。この細長い入り江を取り巻く台地の表面には、入り江に下りて魚介類を 捕ったり、台地に群れていたイノシシやシカを狩ったりして暮らしていたであろう縄文人の集落跡がいくつも見つかっている。それでは目黒川沿川の月見野あた りの状況はどうであったのであろうか。「大 和市つる舞の里歴史資料館」のホームページでは次のように説明している。すなわち、

 『 縄文時代人の暮らしは、それまでの移動生活から定住生活を始めるようになり、 大きく変わりました。人類史上画期的なことです。気候もほぼ現在と同じで、森には 照葉樹林や落葉樹林が覆い茂っていました。人々は見晴らしのよい台地上の 竪穴の住居に住み、煮炊きするための土器を携えるようになりました。 そして多くの生活道具を携え、物を貯蔵・蓄積するようになりました。 やがて、食糧を安定して確保するために、必然的に個々の領域が生まれ、 村が形成されていきます。』・・・と。そう、月見野の地域も村の形成が見られるようになり、縄文文化が花開いていくのである。その間、海岸線は少しづつ後 退して現在の境川が形成されていく。昭和30年代のの激しい都市化が始まるまでは境川も目黒川も本当に川らしい川であった。現在はその「らしさ」がほとん ど無くなってしまったが、川らしい川を取り戻す余地も決してなくはないので、一応、「月見野ジオパーク」を意識しながら境川のほとりっを歩いてみよう。

 

 境川で「月見野ジオパーク」と関係しそうなところは三地区に分けられるのではないかと思われる。私はそれを城山遺跡公園、深見城址公園、深見神社 公園と仮に呼ぶこととする。

 城山遺跡公園地区は、平成8年に発掘調査が行なわれ、旧石器時代、縄文時代、中世時代の遺物や遺構が出土したところで、今は大和市立北大和小学校 になっているがもともとはお城の跡でもある。北條の家臣・山中修理助か定信か定住かはっきりしないが、ともかく北條の家臣のお城であったという。この付近 は緑も多く残されており、境川もまあ感じがいい。

 

 

 

 これは上流を見た写真で、田園都市線が向こうに見える。そのすぐ左側が「つきみの駅」である。河原がないのであまり良い水辺環境とは言えないが、 まあまあの景色ではなかろうか。

 

  下流の方景色はここをクリック! これの左側が遊歩道になっており、少し歩いていくと 大山街道に出くわすが、その角に鶴間山観音寺がある。上 流の景色はまあまあだが下流はさっぱりだ。よくもこんな不細工な景色にしてくれたものだ。河川環境の専門家としてまことに腹立たしく思う。しかし、もし 「月見野ジオパーク」が国立ジオパークになれば、この境川と目黒川の合流点付近を大改造して、画期的な博物館を作ることができるであろう。

 

 次に、深見城址公園地区を紹介したい。国道246号線が境川を渡る橋が大和橋である。大和橋の沼津方面の三叉路が山王原東の交差点である。沼津方 面に向って右に行けば小田急線鶴間の駅である。その交差点と橋の間に西松建設の研究所がある。その 研究所の建設工事に際して昭和62年に発掘調査が行なわれ、旧石器、縄文時代草創期の遺跡が発見された。長 掘北遺跡である。縄文時代草創期(16,000年から10,500年前)の石器群は貴重なもので、砕 石刃石核は「湧別技法」が用いられている。これは説明版のある場所から246の渋谷方面を見た写真。こ の先に境川が流れている。

 山王原東の交差点を南側に渡ったところ、246沿いに下鶴間長掘遺跡がある。昭和54年に国道246号線の改良工事に際して発掘調査が行なわれて、旧石器時 代の遺跡と縄文時代の遺構が出土した。旧石器時代の石核は、湧別川技法ではなくて、西南日本に多く分布する形態と似た技法だと言われている。

 大和橋から下流右岸が整備された自転車歩行者占用道路になっていて、まあ快適に歩ける。少 し歩いていくと右側に深見城址公園が見えてくる。中に入っていく。 天竺坂というのだそうだ。城址公園の中を歩いていく。良 い雰囲気だ。

 

 柳田国男が四万坂付近を歩いたというので、私もその辺を歩いてみた。柳田国男の著書『水曜手帖(てちょう)』にはこう書かれている。『 深見とい う村は、現在は相州高座郡大和村の一大字であるが、『和名鈔』(わみょうしょう)にも見えている古い郷(ごう)で、境川の岸に沿うて長さが一里近くもあ る。私は昔の郷の中心はどの辺かということと、以前の鎌倉道は川のどちら側を通っていたろうかということを知りたいために、今度は小田急線の鶴間の停留所 から下りて、東端の一之関という部落に入ってみた。川のへりに四五町歩の稲田があって、小さな支流が民家との境を流れ、その岸を南北に路(みち)が通じ、 石橋が架かり、その角の屋敷の端に男女双体を刻した道祖神が二つ並んで立っている。一つは寛延二年のものでまん中に割れ目があり、今一つは最近昭和十五年 三月のもので、男神の袴(はかま)を青に、女神の裳(もすそ)を黄色に塗っている。その後に古い五輪が四つ、これは古風だから立って熟視していると、そこ へ五十ばかりの男が自転車で通りかかった。何をしているのかという顔をするから、私は鎌倉時代の道路が、川のどちら側を通っていたかを考えているのだと告 白したところ、それはわかっている、この道がそうだといと無造作に教えてくれた。』・・・と。この文章で「鎌倉時代の道路」というのは滝山街道のことであ る。私は、滝山街道というよりもむしろ境川に焦点を当てて滝山街道と境川の間を行ったり来たりしたのであった。

 四万坂は今はないが、有料老人ホーム・「ベルビルガーデンやま と」の・・・・前から坂の上に無理無理入っていけることはいける。私は無理無理茂みの中に 入って境川の写真をとった。

 

 

  

これが四万坂の古戦場である。

 

 

 

 

 今回の目的は、四万付近を歩いて、石祠(せきし)や道祖神を探し出したかったからである。朝早くから暮れの深見を歩き回った。最初は引地台公園の 西南の角にある道祖神を見て、そののち四万坂付近を歩いたのであった。銀行坂を歩き、深見諏訪山遺跡の前を歩き、深見学校跡付近を歩いて、やっとお目当て の道祖神を見つけた。すばらしい。

注:その後、 2009年8 月5日、弘中健一 という方から、次のようなご注意がありました。ここに、それを紹介し、私の間違いを認め、弘中健一 さんのご指摘に感謝申し上げたいと思います。弘中健一 さんのご指摘は次のとおりです。すなわち、
『 大変失礼な言い方ですが、貴 ホームページの「境川と遺跡」に掲載されている道祖神の写真は、柳田國男が水曜手帖で触れている道祖神とは違うと思います。 ご多忙のところ恐縮ですが、 私のホームページ http://park.geocities.jp/yat5aze2/indexsiseki.html   にある、「深見/坊の 窪三角地」、と「深見/谷戸坂下」と言うところを見ていただくようお願いします。
 そこで述べています が、地形的な特徴や「昭和十五年三月のもの」、「古い五輪が四つ」などから柳田國男が水曜手帖で触れている道祖神は、「深見/谷戸坂下」の道祖神で間違い ないと考えております。』・・・と。

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 この日の探 索についてはここをクリックして下さい!

スライドショウが始まります。

 

 

境川も相模鉄道までが何とか見れる景色であり、

それより下流は直線のまったく風情のない河川となっている。

まことに情けない。

 

 

 深見神社の祭神は、武甕槌神、建御名方神であり、鹿島大神である。境川に架かる橋の名が鹿島となっているのそれ故であろう。境川が流れる低地は坊 ノ窪と呼ばれる。住宅に囲まれているが神社の境内のみやっと杜(もり)の雰囲気を残す。大和市内唯一の延喜式内社であるが、創建はもっと遡 る筈である。 宮司さんの話によれば、拝殿西に位置する「おくら稲荷 (宇賀之御魂・保食)」が本来だったらしい。江戸時代は鹿島社と呼ばれていて、明治に入ってから深見神社と呼ばれるようになった。昭和の火災で古 い資料はすべて焼失、今の社殿は南向きだが本来は稲荷のある東向きだったらしい。東の鳥居階段下が旧街道の岐(わかれ)という。境内社:稲荷神社。 境外 社:八雲神社、八坂神社、諏訪社。神奈川名木100選、ハルニレ樹高30m目通4m推定樹齢400年。なお、稲荷については、前に「関東三大稲荷」の ことを書いたことがあるが、アースダイバーとしては「花園稲荷」のこともあり、さらにプラトンの 「コーラ」との関係もあり、まだまだ勉強する必要がありそうだ。否、「稲荷信仰」だけではない。先に述べた「諏訪信仰」はもちろんのこと、「石神信仰」、 「大山信仰」、「古峯信仰」、諏訪との繋がりの深い「秋 葉信仰」、稲荷との繋がりの深い「八 坂信仰」など古代信仰について勉強しないといけないようだ。

 

 

 

 下鶴間城山遺跡公園地区のスライ ドショウはここをクリックして下さい!

深見城址公園地区のスライドショウ はここをクリックして下さい!