海を渡った黒曜石

 

 

 私は先に、小田静夫の著書「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」(日本人はるかな旅、第2巻、2001年9月、日本放送出版協会)によって、「石斧のひろがり」の肝心な部分を紹介したが、その際、やはり小田静夫の著書「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)をもとに、次のような趣旨のことを述べた。すなわち、

 黒潮を利用して日本列島に渡ってきた大きな人の流れは二つある。旧石器時代の流れ(黒潮航海第1波)と縄文時代の流れ(黒潮航海第2波)の二つである。もちろん、第1波から第2波の間ひっきりなしに、ごく少数のグループごとに、黒潮を利用して日本列島にやってきた人びともあった筈である。そういう人たちももちろん「海の民」である。しかし、日本列島にやってきた本格的な「海の民」は、縄文時代の黒潮航海第2波の人びとであろう。

 黒潮を利用して日本列島に渡ってきた旧石器人のなかにも、海辺に住み「海の民」として生きていったグループも当然あったであろうが、内陸部に分散していって「山の民」となったグループもあったにちがいない。日本列島が大陸と陸続きであった頃に徒歩で日本列島にやってきたグループは「山の民」である。

 すなわち、私が想像する「海の民」とは、旧石器時代に日本列島に渡ってきた人びとの一部と縄文時代に日本列島に渡ってきた「海の民」からなっている。

 黒潮航海第1波として日本列島にやってきた旧石器人であるが、小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)によれば、おおむね4万〜3万5000年前の旧石器人、つまり旧石器時代中期の人びとは、チャート、粒紋岩、砂岩などの日本列島内に多産する地元石材を使用していたのであり、黒曜石が本格的に利用され始めるのは、2万8000年〜2万5000年前からである。小田静夫も同著のなかで言っているが、多分、鹿児島県姶良カルデラの巨大噴火によって、日本列島の自然環境が激変し、それに対応するかたちで黒曜石による「ナイフ型石器」が誕生したのであろう。それぞれの地域特性に応じていろいろな「ナイフ型石器」が誕生したようだ。これらの人びとは、日本列島の先住民であり、私は、その多くが「山の民」となったのではないかと考えている。

 「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏」に海人集団のことも書かれているが、その当時、すでに相当の航海技術があったようだ。そして、小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)によれば、近年、人類学の分野で、5万年前頃に東南アジアのスンダランドからサフールランドへ渡ったホモ・サピエンス集団が確認されているのだそうだ。

 小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)によれば、おおむね4万〜3万5000年前の旧石器人、つまり旧石器時代中期の人びとは、チャート、粒紋岩、砂岩などの日本列島内に多産する地元石材を使用していたのであり、黒曜石が本格的に利用され始めるのは、上述したように、2万8000年〜2万5000年前からである。しかし、これも小田静夫の「遥かなる海上の道」によるのだが、現在、もっとも古い黒曜石の石器は、3万5000年前の東京・武蔵野台地から出土したものである。これが最大のなぞである。神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか・・・・?量的には他の石材に比べ少量であるが、長野県和田峠産、神奈川県箱根産を主体に神津島産が少数含まれているという。ごく少数であるとはいえ、神津島産のものが含まれているということは驚くべきことである。3万5000年前に、黒潮の激流を乗り越えて、旧石器人が神津島へ行ったり来たりしていたことは間違いない。

 

 堤隆の「黒曜石3万年の旅」(2004年10月、日本放送出版会)という本がある。これは、先に少し触れておいた稲田孝司の「遊動する旧石器人」(2001年12月、岩波書店)とともに、黒曜石に関する手引きとしては格好の本である。以下堤隆の「黒曜石3万年の旅」にしたがって、核心部分を紹介しておきたい。

 

 海を渡った黒曜石

 「えっ!・・・・・・神津島ですか?」

 一九九六年一月二五日、藁科博士からの電話に、私は思わず自分の耳を疑ってしまった。蛍光X線分析による原産地同定の結果、長野県野辺山高原の矢出川遺跡の細石刃石核五点が、遥か太平洋上に浮かぶ神津島の黒曜石であることが判明したのだ。

 矢出川遺跡の産地分析試料は全部で二三点、いずれも細石刃石核で、分析の結果、地元信州の黒曜石原産地である麦草峠産が六点・霧ケ峰産が五点・和田峠産が二点みられた。また、謎の黒曜石原産地であるNK産の黒曜石四点とともに岐阜の下呂石一点も認められた。その中に神津島産黒曜石五点が含まれていたのである。

 野辺山から二〇〜四〇キロと近距離にある麦草峠・霧ケ峰・和田峠など、身近な産地の黒曜石が失出川遺跡の旧石器に用いられていることは納得できる。しかし、失出川で細石刃を用いて人々が暮らしていた過去一万年以上前、直線距離にして二〇〇キロ、しかも海を隔てた神津島の黒曜石が本州内陸部にもたらされていたとは衝撃である。

 さらに近年、長野県埋蔵文化財センターが発掘した奥信濃の野尻湖遺跡群の旧石器一点が神津島産であることが、沼津工専の望月明彦さんの分析によって判明した。神津島から野尻湖までは、じつに三〇〇キロメートルの距離をへだてている。

 神津島海域は、現在海深二〇〇メートル以上ある。氷河時代の当時は、現在より海面がかなり低下したといわれているが、それでも最高で一四〇メートルほどの海面低下までしか想定しえず、神津島と本州が陸続きになることはなかった。それにしてもどんな理由から、はるばる海を越え、信州の地まで神津島の黒曜石が運ばれることになったのだろうか。 神津島は、東京から一七八キロメートル、伊豆半島下田から五四キロメートルの距離にあり、周囲二二キロメートル、面積一九平方キロメートルのちょうど瓢箪(ひようたん)のようなかたちの島である。島の中央部には、西暦八三八年に噴火した天上山(標高五七四メートル)がそびえている。

 伊豆諸島の火山群は、黒色の安山岩・玄武岩からなる大島・三宅島・御蔵島・八丈島・青ケ島系と、白色の流紋岩から形成される新島・式根島・神津島系の二つのグループに分けられる。

 神津島では現在、二四か所の遺跡が確認されている。縄文時代早期から後期にかけての遺跡二〇か所と、残りは古墳時代や江戸時代などの遺跡である。しかし、神津島産の黒曜石が本州の旧石器遺跡でたくさん発見されているのにもかかわらず、肝心な神津島においては旧石器の遺跡はまったく発見されていない。

 それはなぜだろう。氷期の終焉とともに上昇した海面下に、一万年以上前の旧石器時代遺跡が眠っている可能性は十分ある。しかし一方で、旧石器人たちが、神津島に石材獲得のためには出向くものの、島に通年にわたる活動の拠点を置かなかったため、遺跡が残りにくいという事情も考えられる。

 黒曜石利用の観点からすれば、旧石器時代に恒常的に神津島に人々が住んでいて黒曜石を本土にもたらしたというよりは、むしろ本土から旧石器人たちが、黒曜石を採取するという使命を帯びて島に渡った、と見るのが妥当ではないだろうか。一個所に定住をせず、遊動生活によって住居を頻々と変え狩猟採集をおこなっていた旧石器人の活動領域の広さを考えると、この島は少し窮屈に思えてならない。また、生活を保証するだけの動植物相の存在も不明である。

 

神津島ブランドの利用

 日本において黒曜石の産地同定研究が開始されて間もない一九七四年、産地同定研究のフロンティアである鈴木正男博士は、神奈川県月見野遺跡のおよそ二万年前の旧石器時代文化層から発掘された黒曜石が、海上を渡って神津島からもたらされたものであるとの産地同定結果をいち早く表明した。これは当時、人類最初の海洋交易といわれた九千年前の地中海の事例を倍近く遡らせる重大な問題提起でもあった。

 一方、神津島産黒曜石の最古の利用例は、東京都府中病院敷地内で発掘調査された武蔵台遺跡Xa文化層にあることが、藁科博士らの蛍光X線分析によって明らかとなった。九点の分析試料は、和田峠七点・麦草峠一点・神津島一点という産地構成をみせた。立川ローム層の下部の武蔵野台地X層は、後期旧石器時代初頭にあたり、三万年前をさかのぼる年代が与えられる。

 さらに神津島から二〇〇キロメートルの距離を隔てた内陸部の山梨県横針前久保遺跡からも、後期旧石器時代初頭の局部磨製石斧に伴って、神津島産の黒曜石が確認されている。

 三万年を遡る頃から、海を越え、神津島ブランドの黒曜石が用いられていたとは驚きである。おそらく海外の考古学研究者の常識からすれば、一部オーストラリアへの移住の問題を除けば、旧石器時代に海を越えたなどというこの結果は、すぐには信じ難いものかもしれない。しかしこれは進歩した日本の考古理化学が導いた紛れもない成果なのだ。

 

 

 神奈川県相模野台地の紬石刃文化期の黒曜石利用を考えるため、私は望月さんに依頼し、発掘の終了した一〇遺跡の総数二八三〇点の黒曜石について、蛍光X線分析による産地同定を実施してみた。その結果、分析不可能な小破片を除く二一五三点の黒曜石の産地を明らかにすることができた。内訳をみると男女倉・和田峠・霧ケ峰・立科・八ケ岳など信州系の黒曜石が一〇九四点(五一%)、神津島系の黒曜石が六〇九点(二八%)、柏峠・畑宿など伊豆・箱根系の黒曜石が四五〇点(二一%)、となった。一方、栃木高原山の黒曜石利用はまったく認められなかった。 

 相模野の紬石刃文化では、現状で約信州系五割、神津島系三割、伊豆・箱根系二割という点数割合で黒曜石がみられた。しかし、そのあり方は遺跡によって大きな違いがある。たとえば、大和市上草柳第3中央遺跡では全点に和田峠(信州系)の黒曜石が用いられていた。一方、海老名市柏ケ谷長ヲサ遺跡では全点に神津島の黒曜石が用いられていた。藤沢市代官山遺跡の黒曜石は、多くは伊豆系の黒曜石であるらしい。

 神津島産の黒曜石の旧石器時代における利用は、相模野台地のみならず武蔵野台地、下総台地、あるいは箱根・愛鷹(あしたか)山麓周辺といった沿岸地域を中心に、半径一五〇キロメートルほどの地域での主体的な利用が確認される。矢出川や横針前久保・野尻湖での検出例は、現状では飛び地的存在といえる。その利用の起源は武蔵台の例にみるように、三万年以上前の後期旧石器時代初頭から確認されるが、時期によってはほとんど用いられていない場合もある。やはり本格的な利用は 一万数千年前の紬石刃文化段階であろう。

 まさか旧石器人が泳いで黒曜石を運んだというのでは笑い話にもならない。当然舟をつかったのだろうが、海図も磁石もコンパスもなく、海原に漕ぎ出した旧石器人の勇気はたたえられていい。神津島からは、伊豆半島東の沿岸部がみえることがあるという。静岡県三島や沼津方面あるいは相模野台地にみる神津島産黒曜石は東伊豆海岸に陸揚げされたものである可能性がある。現在の汽船では二時間半かかる航路である。一方、下総台地などには、式根島・新島・利島と島伝いに黒曜石が運ばれ、大島から房総半島の先端に黒曜石がもたらされたのだろうか。

 むしろ「海上の道」の黒曜石原石の運搬は、舟と海路の開発さえできれば、陸上の道を背負って持ち歩くことより、容易であったものと考えられる。