「八重群島の古代文化(金関丈夫、1955年2月)」(民俗学研究第19巻第2号)

註:柳田国男が『海上の道』を書いたのは1961年である。その6年前に、金関丈夫は「八重島群島の古代文化」を書いて、『海上の道』に先鞭をつけた。以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。 

 

八重山群島の古代文化

 

 

 波照間島北岸の下田原の貝塚

 

 『 下田原貝塚を遺した住民の文化は,日本縄紋式,弥生式,或いは古墳時代の文化とは,全然無関係である。中国製の陶磁器の破片もこの貝塚からは出土しない。』

 

 『 石器の最も代表的なものは,円礫利用の,大部分を打成した,長万短冊形の石斧であって,最少限度の磨研を一端に加えて,片刃とハマグリ刃の中間をなす,両面不均等の曲面を作っている。曲率のより強い面は,原石の表面そのものに近い。厚さの小さい,重量の軽いものである。明らかに耨耕用の農具であり,その形と,推定される用法とから見て,現代同島に使用の,鉄製のビラ(マビラ)即ちビラの祖形をなすものと思われる。「石ビラ」とでもいうべきものである。

 いま一つの,特徴的石器は,少数の,完全に磨成或は啄成されたいわゆる乳棒状の石斧である。硬質の閃緑岩或いは片麻岩を用い,中央より上端にかけての横断面は楕円形,刃端に近い部分のそれは,一面が平坦になり,やや半月形に近い。厚く,重い石斧で,平坦な面は,使用と再磨によってずり耗らされた痕がある。刃緑は凸曲している。明らかに工具であり,手斧式に用いられた木工具であったと思われる。魚骨や,沈石,土錘、貝錘の、存在から,この貝塚人が一面において漁撈者であったことは明らかであり,また西表島との交通の存在は,後にもいう通り歴然としているから,この住民が船を造る必要のあったものであることは明らかである。』

 

註:波照間島は、石垣島から西南に向って高速船で1時間ほどのところにある、周囲14.8km、島民は600人のちっぽけな島。波照間島は人が住む地としては日本最南端の島であり、南十字星が見える島でる。ここをクリックして下さい!

註:下田原貝塚は、波照間島にある。旅行ガイドブックに載っている波照間の地図のいくつかに、島の北岸近く、「ぶりぶち公園」の位置を記しているものがあるが、たいていみつからない。それはここがあまりに公園らしからぬ場所だからである。 下田原貝塚については、ここをクリックして下さい!

註:西表島(いりおもてじま)は、沖縄県八重山列島最大の島。すぐ東側に石垣島がある。現在は、石垣島が八重山列島の中心になっているが、古くは、水が比較的容易に得られたので、西表島(いりおもてじま)が中心であった。西表島(いりおもてじま)の面積は約289平方kmで、沖縄本島に次いで広い。島の人口は約2000人。行政区画は沖縄県八重山郡竹富町。島の面積の90%は亜熱帯の原生林で覆われ、山の斜面・森林ともに海の間近にまで迫っており、人の居住地は海岸線沿いのわずかな土地に限られる。また、島の面積の8割は国有林、同34.3%は西表国立公園(特別地域)、同8%は国設特別鳥獣保護区に指定されている。西表島(いりおもてじま)については、ここをクリックして下さい! 

 

 

 『 この貝塚の住民は耨耕と漁撈とを生産手段とし,船を造ることを知っていた。農耕作物は不明である。恐らく西表島の住民の支派であって,その文化は現代の波照間島の文化に続いている。この文化の連続は,さきに述べた土器や農具の類似の点以外にも証拠がある。波照間島には,この貝塚の他に,同系の土器,石器と共に,明代の中国陶器片を伴う遺跡が多く,これが現在の部落地内に最も多く分布している。土地の人々は,これを侍屋敷の跡といっている。波照間の先史文化は,明らかに現代文化に続いているのである。』 

 『 その石器時代を脱却したのは,明初の大陸文化の輸入によるものと推定せられる。』 

 『 波照間では,地下水の自然の露頭は,海水の水準以上では,下田原の泉以外にはなく,地下水の頭部に近いところを掘りひろげて,汲み井戸を作った頃には,もう中国陶器の時代になっていた。島の中央に近ずいた現在の部落では,岩床を垂直に穿って,掘り井戸を作っているが,これは中国の技術とともに,鉄棒の如き器具の輸入された以後のことであり,これが可能になって始めて部落は島の中央に進出することが出来た。こうした推移がこの島では歴然としている。竹富島の伝説では,島の草創の英雄はやはり、島人のためにはじめて掘り井戸を作った男であった。

 今すむ人はその島に「何万年」もむかしから住み来ったと思っているかも知れない。人はあり島はあっても,住む条件が欠けている場合には,人はその島に住めなかったのである。』

 

 『 ここで断っておかなければならないのは,私たちのこんどの調査は,西表島には及んでいない。波照間や竹富や石垣の歴史が,そんなに新しいであろうからといって,八重山全体がそうであった,と私は言っているのではない。西表島の居住史は古いであろう。いな,古くあらねばならない,と私は考えている。これは単なる想像ではなくて,推論である。

 その推論の根拠を,これから述べる。

 東大の人類学教室に,西表島上原村及び仲間村出土の石斧が4箇ある。うち上原村の2個は,波照間の貝塚に代表的な,半磨製の,私のいわゆる"石ビラ"と変りのないものである。石質も同様である。上原村のいま1箇はこれも半磨製の,中央部の横断面が,丸味のある三角形をなす,厚い,ハマグリ刃の,木工具と思われるもの,これも波照間から同様のものが出ている。仲間村の1箇も半磨製の横断面が楕円形に近い,乳棒状石斧で,やはり木工具と思われる。いずれも波照間島の石器文化の様相を具えている。これらのことから見て,西表島にも波照間や石垣島に見られる先史文化と,同様のものを有った住民の居たことが知られる。

 次に,波照間や石垣などの遺跡が,比較的新しく,波照間の遺跡も石垣の仲間獄の遺跡も,西表島の支派と見られ,また現在の土俗や口碑の上から見て,これらの島々の生活が,みな西表島と切りはなすことの出来ない関係にあることをわれわれは知るのである。西表島は,あたかもこれらの島々の親島の如き関係にあったことが歴然としている。

 

 『 以上の三つの風俗から察せられる,八重山の過去及び現在にわたって存在する,或いはしたと思われるメラネシア的要素は,しかし,八重人が嘗てメラネシア系の民族であったということを示す事実だ,と考える必要はない。恐らくはメラネシア人に接触して,その間に少なくとも部分的の共通文化を有したものが,古く西表島にこの風俗をもたらした。恐らくそれはインドネシア系の種族であったろう,と思われる。インドネシア人とメラネシア人との交流は,種々の点から見て、疑うべからずものがある。---首狩,入墨,歯牙変工等。』

 

註: 太平洋地域から、アジア大陸と南北アメリカ大陸の属島(日本列島、フィリピン、東南アジアの島々など)を除き、オーストラリア大陸とその属島を加えた地域。オーストラリア大陸以外の島々は、地理学的・人類学的観点からポリネシア、マイクロネシア、メラネシアの3地域に分けられる。

「ポリネシア」は、ハワイイ諸島、ニュージーランド、イースター島を結ぶ、一辺約8,000kmの巨大な三角形(ポリネシアン・トライアングル)の内側に位置する島々の総称。上記3諸島のほかに、サモア、トンガ、ウォリス、ツバル、フェニックス、トケラウ、クック、ライン、ソシエテ、オーストラル、トゥアモトゥ、マルキーズ等の各諸島が含まれる。「ポリネシア」は、元来ギリシャ語で「多くの島々」を意味する。

「マイクロネシア」は、ほぼ南緯3度〜北緯20度、東経130度〜180度の範囲に散在する島々の総称。マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島、ギルバート諸島とナウル島などが含まれる。ギリシャ語で「小さな島々」。

「メラネシア」は、南半球にあって、ほぼ東経180度以西に位置する島々の総称。パプアニューギニア島、ビズマーク諸島、ソロモン諸島、ニューヘブリデス諸島、フィジー、グランドテール島、ロアイヨテ諸島等が含まれる。ギリシャ語で「黒い(皮膚の黒い人々が住む)島々」。

マイクロネシアとメラネシアは、まとめてメラネシアと呼ばれることがある。その際、パプアニューギニア島はメラネシアと分離して独立して扱われることがあるが、パプアニューギニア島はメラネシアである。ここをクリックして下さい! 金関丈夫が上記のように「インドネシア人とメラネシア人」と言っているそのメラネシアとは、多分、パプアニューギニア島や「マイクロネシア」を含んだものであろう。

 

 『 従来メラネシアにおける古代土器や木彫に見る文様と,日本縄紋式時代土器に見るその類似文様との間の蓮関に関しては,これらの両地方の中間をつなぐ連鎖を欠くことが,その文化の関連を考える上の最大の弱点であるといわれてきた。八重山地方のメラネシア文化の痕跡が,かすかながらもその中間に介在することが判明したのは,この問題にとって意味が少くはないと思う。』

 

 『 縄紋式時代の中期,早くは既に前期のころから,一の波が南方から日本に及んでいる。これにはメラネシア的色彩が含まれていたと考えられる。次は縄紋式晩期のころに,インドネシア式色彩の濃厚な文化が日本に波及している。ル−トはいずれも琉球経由であったと考えられる。もちろん,この両度の波だけを考える必要はなく,その中間にも時々小波及があったものと考えて差支ないであろう。』

 

註:「のるか、そるか」という言葉はもともとインドネシア語だと聞いたことがあります。「天国と地獄」という意味だそうです。その審議のほどは請け負いかねますが、古代からインドネシアと日本は黒潮で繋がっていたということは充分うなずけることですね。インドネシア文化については、ここをクリックして下さい!

 

 『 そして,その北上の限界は決して琉球内に止まらず日本の,恐らくは中部地方以東にまで進み,日本縄紋式時代の中期,或いはそれ以前から,後者に強い影響を与えたのではないか。』

 

 

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