河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

明恵とその時代

 

 

 明恵の生きた時代は、わが国の精神史上、注目すべきときであり、外国から伝えられた仏教が日本人の魂との触れ合いのなかで変貌してゆくときである。鎌倉時代は、そういう時代だからこそ、法然、親鸞、道元、日蓮などの名僧が次々と現われ、お互いに影響し合ったり、批判、攻撃し合ったりして、それぞれの説を築きあげてゆく。  

 たしかに、明恵が生きた時代は、わが国の歴史において重要な転回点となった時代であった。それまで続いてきた天皇を中心とし、それを取りまく公卿たちによって行なわれてきた政治が、武士の行なう幕府へと移ったときである。政権が天皇から武士へと移ってゆく流れに沿うように、それまでは天皇をとりまく上流社会のものであったと考えられる仏教が、はっきりと民衆の心のレベルにまで根をおろしたのである。

 

 まさに河合隼雄のいうとおりである。武家社会とは何か? これを理解するには、中臣神道を精神的支柱とする律令制度の変質、その変質の仕方というものが問題である。どう理解するか? それが歴史観というものだが、私は、通態史観と言ってもいいと思うのだが、「おもむき」というものに注目して宗教の変貌を眺めるのが良いのではないかと思う。世の中というものは、もちろん為政者の力というか「おもむき」で動くが、同時に、庶民の力というか「おもむき」で動く。鎌倉時代でいえば、板東武士の「おもむき」と宗教との関係がどうであったかということと、庶民の「おもむき」と宗教との関係がどうであったかということがここでは問題なのである。庶民の「おもむき」・・、それは、「地獄のおもむき」であり、空也の「踊念仏」から100年近くが経って、庶民の間では・・・いよいよ念仏が勢いを増してきた。そこに法然の出現する歴史的必然性が感ぜられるのである。

 

 明恵の母方は、湯浅氏であり、藤原一族である。父・平重国は平家に属する武士であったので、明恵が生まれたときは、家庭内は安心感に満ちていたのではなかろうか。ところが、おそらく絶対とさえ感じられていたであろう安定も、明恵が8歳になったときに破られてしまい、その後、驚天動地の変化が続くのである。つまり、治承四年(1180)、明恵8歳のとき、源頼朝が伊豆で挙兵し、その動乱のなかで父親が戦死する。その少し以前に母が病死していたので、明恵は家庭内の安定をまず失うのである。

 治承四年には、西日本は大凶作になって、餓死する人が相ついだという。鴨長明が『方丈記』に述べているところによると、京都の道端には飢え死んだ人々が数知れず放置されており、河原は死骸の山で馬や車さえ通れない。仁和寺のある坊さんが、道端の死者を成仏させるため、額に「阿」の字を書いてまわったところ、四、五の二か月の間に、京都の左京の町だけで四万二千三百あまりになったという。仏教のいう「無常」ということが、すべての人に実感をもって迫ってきたことであろうと思われる。

 

 興味深いのは、建久六年、頼朝が東大寺再建供養のため上洛した年、明恵は二十三歳になっていたが、神護寺を出て、紀州栖原の白上の峰にこもることになる。なお、河合隼雄は、「 平家の破壊した東大寺の再建に力をつくすことによって、頼朝は自分の文化的な理解度を示そうとしたのであろう」と述べているが、私は、文化的側面よりも政治的側面を重視したい。鎌倉はいうに及ばず、板東、いや東北は、歴史的に藤原一族の勢力というものが結構根強いものがあったようである。東大寺は、もともと藤原鎌足の孫ともうわさされる良弁の力の負うところが大きい。また、思想的にも、東大寺と藤原一族の菩提寺である興福寺とは密接不可分な関係にある。かたや「華厳哲学」であり、かたや「唯識の哲学」である。私は、頼朝の東大寺再建供養と明恵の紀州栖原での修行の間に摩訶不思議な縁というものを感じる。

 

 河合隼雄は、「承安三年、明恵誕生の年に親鸞も生まれている事実に心を惹かれる。」と言っているが、私も、明恵誕生と親鸞誕生の間に摩訶不思議な縁というものを感じる。

 この二人は仏教に対する考えは正反対と言ってもいいほどの立場を取りながら、日本人にとっての大きい課題、仏教における女性、あるいは、日本文化における女性の問題に、それぞれがその個性をもって直面してゆくことになるのである。この両者が同年に誕生していることに意義深いものを感じさせられる。

 元久二年に、明恵も親しくつき合っていた貞慶が「興福寺奏状」を提出、念仏停止の訴えをする。

 

 承久三年(一二二一)の承久の乱は、明恵にとっても大きい関係をもつこととなった。後鳥羽院以下三上皇が配流され、北条政権の朝廷に対する優位が明白にされる。このことも当時の人々、特に京都の住人にとっては極めてショッキングなことであったろう。何のかのと言っても天下の中心と思われていた朝廷が、明白に北条氏の支配によって動かされることを実感させられたのである。このとき、明恵は朝廷方の多くの落人や、子女をかくまい、そのために北条泰時と会うことになる。戦乱のなかで、宗教人としてなすべきことを毅然として行なった明恵の態度は、真に立派なものである。

 貞永元年(一二三ニ)には、北条泰時が「貞永式目」を制定、さすがに長びいた戦乱も収まり、日本の国が武家政治のもとに安定にはいり、形が明確になってくる。その年、明恵は示寂する。享年六十歳であった。

 鎌倉仏教の掉尾を飾る一遍が踊り念仏をはじめたのは弘安二年(一二七九)、明恵の死後四十七年である。このようにして、法然以来、外来の宗教である仏教をわが国においてどのように受容し、わがものとしてゆくかという課題に正面から取り組もうとした、数々の祖師たちの活動が続いたのだが、一遍をもってその終わりとするのが妥当であろう。

 

 次はここをクリックして下さい!(工事中)