河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

明恵が学んだ華厳と真言の二宗


 明恵は、9歳のときに、叔父の上覚の導きによって、京都の神護寺に入山する。入山後、真言や華厳を熱心に学ぶ。16歳のとき上覚について出家し、 東大寺戒壇院で具足戒を受けた。23歳のときに神護寺を出て、紀州栖原の白上の峰に草庵を構え、隠とん生活に入る。そして、これより後、34歳のときに後 鳥羽院より高山寺を賜い、京都に出てくるのであるが、それまでは、明恵の集中的な内向の時代であると思われる。 

 天竺行きを思いとどまったときから、明恵は、仏のところにゆくのも日本の衆生のために尽くすのも同じであるという認識をもつようになったのではな かろうか。丁度その頃に後鳥羽院より高山寺を賜うことになったが、それを受けて京都に住み、俗界との接触も増えてくるのである。このとき、明恵は三十四歳 であるが、以後晩年に至るまで、彼はそれまでに得た内的経験を基礎とし、更にそれを深めつつ、他の人々にその成果をわかち与えてゆくのである。 

 35歳には院宣によって東大寺尊勝院学頭となり、華厳宗の興隆につくすことになる。この年に、法然と親鴬が流罪となっている。彼らの説く新しい仏 教の勢いがだんだんと強くなり、いわゆる旧仏教との間の確執が急激に強くなってきたのである。明恵は40歳のときには『擢邪輪』を著わし、法然を激しく批 判する。 

  その翌年、承久三年には承久の乱が起こり、京都は騒然となる。明恵は朝廷方の多くの落人や家族をかくまったので、北条方の武士に六波羅に引き立て られてゆく。明恵はむろん平然としていたが、ここで北条泰時に会ったことは、むしろ、泰時にとって大きい意味をもつことになった。泰時はたちまち明恵に心 服し、両者はその後も親交を重ねることになる。前年の深い宗教体験を基にして、明恵としては、政変が起ころうと、己の生死が問われようと、まったく泰然た るものであったと思われる。  


 明恵の史的意義 

 手もとにある高等学校の「日本史」の教科書を見ると、明恵については、鎌倉時代の新仏教の台頭に対して、貞慶などと共に、奈良仏教の復興に力をそ そいだ、と一行だけ記されている。これが明恵に対する一般の歴史的に見た評価ではなかろうか。つぎつぎと日本人的な新しい仏教が興り、それらは後の世にま で引き継がれ、現在でも強い勢力をもつ宗派として存在しているのだが、それらの新しい勢力に対して、旧派を代表するものとして明恵が把えられているのであ る。 

 歴史的意義という場合、われわれはどうしても、そこにどのような新しい変化がもたらされたかを問題とする。 しかに、歴史において革新性は必要である。しかし、歴史をおろそかにした革新は、いずれ歴史から厳しい糾弾を受けるのであって、保守の上に立ってあるべき 革新のあり方を考えることこそ永い目で見て正しいのではないか。もちろん、保守でありさえすればいいということではない。保守の上に立って革新のあり方を 考えることが大事なのであって、保守というものはすべて発展過程(プロセス)における保守でなければならない。保守と革新の葛藤のなかで生き残った保守は やがてその革新もを飲み込んでしまうだろう。それが歴史的必然性である。大事なことは、保守と革新の厳しい葛藤のなかで保守が生き残ることである。私は、 徳一と最澄の宗教論争或いは明恵と法然の宗教論争において、徳一と明恵に軍配を挙げたのだが、百歩譲ってそれぞれ両者が相打ちだとしても、徳一や明恵が守 ろうとした唯識や華厳の哲学が、仏教の本流として歴史を生き続け、次々と新しい革新を生み出していくであろうことはまちがいないので、徳一や明恵の果たし た歴史的意義は最澄や法然よりはるかに大きい。 

 明恵が日本の宗教史のなかで何か新しいことをもたらしたか、という観点ではなく、明恵が何を守ったのかということが大事なのである。私たちは唯識や華厳哲学の未来性に目を向けるべきである。明恵の未来性に目を向けるべきである。明恵が日本の宗教史のなかで何か新しいことをもたらしたか、という観点からではなく、彼の宗教性そのものに注目すべきではなかろうか。 

 明恵にとっては、何も新しいことなど必要でなかった。彼にとっては仏陀の存在がすべてであった。仏陀には及びもつかぬという自覚はあっても、何か新しいことを見出そうなどとは考えても見なかったであろう。 

 何故、私が徳一や明恵を重視するのか。

 以上のような明恵の宗教性の在り方を、思想史との関連において言う と、次のような言い方ができるであろう。鎌倉時代につぎつぎと現われた祖師たちは、仏教におけるある一面を切りとって、尖鋭なイデオロギー的教義を打ち出 して独自の宗派を形成していったと言うことができる。「これが正しい」ということは、「これ以外は誤り」ということになり勝ちであり、そこに極めて明白な 主張が可能となり、多くの人をひきつけることになる。イデオロギーは善悪、正邪を判断する明確な規準を与える。イデオロギーが変わればその規準も変化する わけであるが、それがどのように変化したか、なぜ変化したかなども論じやすいので、思想史というとどうしてもイデオロギーの変遷を追うことになる。 

 しかし考えてみると、人間存在、あるいは世界という存在は、もともと矛盾に満ちたものではなかろうか。もっとも、矛盾などと言っているのは人間の 浅はかな判断によるものであり、存在そのものは善悪とか正邪とかを超えているのではなかろうか。そして、仏教こそは、もともとそのような存在そのものを踏 まえて出現してきた宗教ではなかろうか。従って、仏教は本来イデオロギー的ではなくコスモロジー的な性質を強くもっている。 

 コスモロジーは、そのなかにできるかぎりすべてのものを包含しようとする。イデオロギーは、むしろ切り棄てることに力をもっている。イデオロギー によって判断された悪や邪を排除することによって、そこに完全な世界をつくろうとする。この際、イデオロギーの担い手としての自分自身は、あくまでも正し い存在となってくる。しかし、自分という存在を深く知ろうとする限り、そこには生に対する死、善に対する悪、のような受け容れ難い半面が存在していること を認めざるを得ない。そのような自分自身も入れ込んで世界をどうみるのか、世界のなかに自分自身を、多くの矛盾と共にどう位置づけるのか、これがコスモロ ジーの形成である。 

 コスモロジーは論理的整合性をもってつくりあげることができない。コスモロジーはイメージによってのみ形成される。その人の生きている全生活が、 コスモロジーとの関連において、あるイメージを提供するものでなくてはならない。明恵にとっては、何を考えたか、どのような知識をもっているか、などとい うことよりも、生きることそのものが、深い意味における彼の「思想」なのであった。その点については、本書全体を通じて論じることになるが、このような視 点において明恵をみるとき、彼がわが国の仏教思想史においてというよりも、思想史において占める位置は俄然重きをなしてくるように思われる。イデオロギー よりコスモロジーへの変換が現代において生じつつあると思われるので、明恵に対する評価は急激に変化するのではないかと推察される。 

 このように見てくると、明恵がわが国の仏教思想史においても、相当に重要な人物であることが明らかになってくるのだが、明恵の歴史的意義につい て、山本七平が見事な論を展開している。これは明恵その人をこえて、日本の歴史、文化を考える上において極めて興味深い論義なので、詳しくは是非原著を読 んで頂きたい 

 山本七平によれば、北条泰時が制定した「貞永式目」は、画期的などというより一種の「革命」とも言うべきものであるが、その思想的支柱として明恵が存在したというのである。 

 明恵は保守的でもあり、革新的でもあるのだ。

  明恵はコスモロジー的にラディカルであったと言えるだろう。確かに明恵の華厳思想は、「貞永式目」制定のなかに生かされている。 

 「貞永式目」はそれまでの律令体制を根本的に変革するものであったが、山本はこの制定を「世界史上の奇妙な事件」とまで呼んでいる。というのは、 これほどの変革を行ないつつ、泰時が「貞永式目」は何ら法理上の典拠に基づいたものでないことを明言しているからである。「このように明言した立法者はお そらく、人類史上、彼だけであろう」と山本は指摘している。典拠がないとすると一体何によっているのか。これに対して泰時は「ただ道理のおすところを被記 (しるされ)候者也」と述べて泰然としているのである。 

 この「道理のおすところ」の背後に、明恵の主張する「あるべきやうわ」(あるべきようは)が存在していると、山本は推論するのである。この「ある べきやうわ」は、明恵思想の根本であり、この点については詳しく後に論じるであろう。ただ、ここではそのような生き方を体現していた明恵という人格に触 れ、泰時がそれを支えとして変革を行なったという事実を重要視したい。明恵の「あるべきやうわ」は、もちろん華厳思想と無縁ではない。しかし、それが宗派 的教義ないしはイデオロギーとなり、泰時の政治体制に「統治神学」的に役立ったのではない。明恵の思想は全人的な生き方として示されており、それだからこ そ、泰時は明恵に支えを得つつ、宗教的には自由な立場でその変革を行なったのである。 

 山本七平は泰時の「貞永式目」が、発布されてから明治時代に至るまで、六百年以上の長きにわたって日本人に受けいれられてきた事実を重要視してい る。「貞永式目」のように「長く庶民にまで読まれた法律書・日常生活規範の書は他になく、これを手習いの教本として子どものときから読みかつ筆写したこと は、日本人の秩序意識に大きな影響を与えていると見なければならない」と彼は指摘し、それと共に、その基礎となった明恵の思想と生涯を記した『明恵上人伝 記』が、ひろく長い間日本人に読まれ続けてきた事実に注目している。 

 このような観点からすれば、明恵の日本思想史における重要性は極めて明らかなことである。しかし、明恵の思想を明確なイデオロギーとして提出することが困難であったために、思想史においても長らく無視され続けてきたと思われる。 

 


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