河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

母なるもの

 

 

 母性原理は「包む」機能を主とするのに対して、父性原理は「切る」機能を主としている。すべてを包みこんでひとつの全体にするということと、ものをあくまでも切って分割してゆくということは、まったく対立した機能である。もっとも、このような対立した機能など考えるということ自体が、父性原理に基づく発想であり、本来的に母性原理に従えば、すべてはひとつであらゆる対立は超えられてしまうわけだが、そこまで徹底してゆくと人間は言葉を失ってしまう。いろいろと分割し、分類するから言語表現が可能となるのであり、従って、言葉に頼って説明しようとするかぎり、ある程度の父性原理の使用は避けられぬことである。このようなことを心に留めておきながら、一応、父性と母性の対立を考えるのである。

 このように考えると、欧米文化に比較すると日本文化は母性原理が優位であると判断される。何もかもが包みこまれて一体化することをよしとする傾向は、現代日本においても続いており、最近において西洋文化との接触が烈しいために、改変のきざしがある程度認められるとは言っても、その根本的な様相はなかなか変わらぬものである。

 西洋における父性原理の強さを支えるものとしてキリスト教が存在することは、明らかである。天に存在する唯一の男性神は、父性原理の体現者である。もっとも、旧約から新約へ、そしてカソリックにおけるマリアの被昇天など、父性原理を補償する母性原理のはたらきがそのなかに認められてくるのであるが、唯一の男性神を天にいただくという、その本質構造は、まことに厳しいものがある。これに比して、仏教を父性、母性のどちらに位置づけるかは、なかなか簡単にいかぬ問題である。それは、インドに生まれた仏教が、長い年月を経るうちに多様に変化し、中国を経て日本へと伝わってきたときには、大いに変容してしまい、「仏教」という場合に、どのような時代のどの派を指すかによって、まったく異なっていると言っていいほどになっているからである。

  

 「九相詩絵」を見て観想を行なうことは、人間の「情欲を除かしむる」ために行なうのであるから、もっぱら男性の僧が行なったものであろう。従って、この観想によって僧たちは、自分自身の死について観想しているのではなく、若い女性の死について観想しているのである。

 日本の男性は従って、結婚しても相手の女性を妻としてではなく、「お母ちゃん」にしてしまうことが多い。また、女性の方もそのような地位に立つ方が安泰なので、そうなってしまうことが多いのである。日本人男性の行なう「浮気」は、二人の女性に対する葛藤としてではなく、しばしば母親の目を盗んで行なう子どものいたずらのようなものとして体験されるのである。そこには「母なるもの」の無限の許しを前提とする甘さがつきまとう。

 

 ユングが、男性の夢に生じてくる若い女性を、アニマ像と呼んだことに触れておきたい。アニマはラテン語で「魂」を意味する。ユングにとって、若い女性のイメージは文字どおり魂の像と感じられたのである。だからこそ、西洋においては、男性と女性の結合ということが極めて高い象徴性をもち、それは「魂との結合」を意味するのだと彼は考えるのである。

 ユングの考えをそのまま受け入れてみると、どうなるだろう。若い女性像の死の過程について観想している仏僧たちは、「身体」のことではなく、「魂」の消滅を体験していることになるのだろうか。仏僧たちは、この世の無情、人間の体の不浄などについて知る修行を行なうなかで、実は魂の否定、あるいは拒否を行なってきたのであろうか。(中略)これは、端的に言えば、日本の文化は魂の否定を前提としているのか・・・という問題である。ユングが魂のイメージとして女性像で表現しているような側面の否定を前提として、日本の仏教あるいは日本の文化は栄えてきたのではないか・・・という問題である。

 「魂」への接近の方法は無数にあるであろう。従って、人間の描く魂のイメージも無数にあると思われる。しかし、ある文化、時代にとって優勢なイメージがあり、何かが強調されるときは、反動として他のものが否定されることもある。わが国においては、魂は母なるもののイメージを仲介として知られることがあまりにも多かった。母なるものの道を強調しすぎるあまり、一見それと矛盾したり葛藤を起こしたりする若い女性の道は否定され勝ちであったと思われる。

 

 仏僧たちが修行の過程において、若い女性像の腐乱を観相している時代のなかで、明恵は彼の記憶している最初の夢として、母性的存在の切断のイメージを見たのである。彼が背負っている課題が、いかにその時代の文化と関連し、また、それを超えるものであったかが、この短いひとつの夢に示されている。彼は同時代の他の仏僧とは異なり、母なるものの膝に抱きしめられることのみを救いと感じることに、満足できない運命を背負っていたのである。母なるもの(古い文化)を腑分け(分析)することによって、そこから生じてくる新しい女性像(新しい文化)とどう対処してゆくか。明恵の課題は極めて重く、かつ、困難なことであった。彼は、今日的課題や歴史的課題を解決する原点に立っているのである。

 

 

それでは次は「身体とは何か」です。

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