河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

身体とは何か

 

 さあ、ここでは、西洋のキリスト教的な考えによる、霊(スピリット)と身体という明確な分離と、わが国における「身(み)」という存在のあいまいな全体性を問題にしよう。

 キリスト教においては、霊と肉という対比は極めて明確であり、霊に対するものとしての肉の拒否が、聖書のなかには繰り返し語られている。そのような考えに立つと、肉の結合としての性(セックス)が蔑視されるのも当然である。(中略)西洋に比して東洋のこととなると、常にあいまいさがつきまとい明確なことは言い難いが、(中略)わが国において「身(み)」という言葉が、どれほど包括的な意味合いを持っているか、という点のみを指摘しておきたい。「み」は大和言葉であるが、漢字の「身」があてられるとともに意味の混乱が生じ、どこまでが「み」本来の意味であるかかはよく分らないという。ともかく、現在においても「み」の意味するところはひろく、肉、身体のみならず、「生命存在」、「社会的自己」など多くのことをカバーするが、「身にしみる」、「身に覚ゆ」、「身にこたえる」などの用法が示すとおり、人間の「全体存在・こころ」を示す事実は注目に値する。つまり、わが国においては、身体と心という分離がそれほど明確ではなく、両者を包括する「み」という概念が存在するのである。

 極めて大まかなことであるが、キリスト教における「身体」と、わが国における「身体」の受けとめ方について、その対比を明らかにした。このような対比を心に留めて、明恵とユングの夢をみると、既に触れておいたが、なかなか興味深いことがわかる。霊と肉とが明確に分離され、肉が蔑視される文化のなかで、ユングは地下に「肉の神」が存在することを夢に見たし、明恵は、身体も心もひとつとして考えられる文化のなかで、すべてを包含する母なるもの(歴史と伝統・文化)を、「切断」する夢(父性へ野あこがれ、すなわち創造的破壊)を見たのである。両者ともにその文化に対して、大きい課題を背負っていたことを、幼少時の夢が明確に告げていたのである。 

 

 明恵は仏眼に「母御前」と呼びかけて母を慕う気持ちをもろに表現しているが、このように言語的に表現し、「母」として位置づけることが出来たのは、彼が紀州に移り、耳を切ることを成し遂げた後に可能となったものと思われる。十九歳のときに、仏眼の前で修行していたときは、夢に示されるように、彼が仏眼か、仏眼が彼か解らぬほどの一体感を体験したであろうし、次節に述べる『理趣経』との関連で言えば、仏眼はまた明恵の愛人としても体験されたのではないかと思われる。もちろん、ここに愛人といっても、それはあくまで母=愛人の未分化な状況であり、性心理的表現で言えば、母子相姦的関係であったと言えるであろう。

 なお、明恵のこのような仏眼の法の修行を記した後に、彼がいろいろ共時的体験をしたことを記しているのが興味深い。たとえば、行法の途中に侍者の良詮を呼んで、手水桶の水に一匹の虫が落ちて死にかかっているので、これを助けるようにと言う。良詮が驚いて手水桶を見に行くと、果たして蜂が一匹溺れて死にそうになっていた、などというエピソードが述べられている。ほかにもこのような逸話が多く記載されている。深い無意識層にまで下降すると、このようなことがよく生じると、現在の深層心理学では考えられており、明恵の修行の深さが伺い知れるのである。

 

さあ、それでは次は「耳を切る」です。

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