河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

耳を切る 

 

 

 明恵は建久六年、二十三歳のときに神護寺を出て、紀州の白上の峰に移った。その後、二十六歳のとき高雄に帰るまで、この草庵に住むことになる。この三年の間に彼は大いに成長するのであるが、仏眼との一体感を体験し、いわば母子一体の感じを味わった後に、この世に再生し成人となるためには、相当の試練を必要としたと思われるし、それに値する行為を成し遂げたのが、この紀州白上の峰での隠遁生活なのである。

 

 白上の峰については、『行状』に次のように記されている。

「其ノ峯ノ躰(てい)タラク、大盤石ソビケタテリ、東西ハ長シ、二丁バカリ、南北ハセバシ、ワヅカニ一段余、彼ノ高巌ノ上ニ二間ノ草庵ヲカマヘタリ、前ハ西海ニ向ヘリ、遥ニ海上ニ向ヒテ阿波ノ嶋ヲ望メバ、雲ハレ浪シヅカナリト雖(いへども)、眼ナヲキハマリガタシ、南ハ谷ヲ隔テ横峯ツラナレリ、東ハ白上ノ峯ノ尾ヤウヤク下りテ、谷フカシ、北又谷アリ、鼓谷ト号ス、渓嵐響ラナシテ巌洞ニ声ヲオクル……」

 

 筆者も白上の峰を訪ねてみたが、『行状』の名文はやや誇張気味とは言え、確かにその状況をうまく伝えていると思われた。何よりもここに記述されている景色は、高雄の山深く、いかにも「包まれた」という感じとは対照的であり、後者が母性的な感じを与えるのに対して、白上の峰は父性的な厳しさを感じさせるところが印象的である。このような場こそ、明恵が成人となるイニシェーションを行なうのにふさわしい所だったのである。

 神経症の心理療法においても、その人の人格変化を伴うときは、死と再生の体験が必要である。明恵の白上の峰の行は、彼にとってやはり特別の意義があったのである。

 

 明恵はこれまで、母なるものの世界にひたり切るような生き方をしていたのだが、ここでその世界を出て、父なるものの世界とも接触する必要が生じてきた。彼が極めて内向的な性格であることは明らかであるが、いつまでも自分だけの世界に留まらず、社会と接触し、他人のためにも大きい仕事をする運命をもっていた。そのためには、母性性のみならず父性性をも合わせ持つ人格となることが必要であり、そのような強さを獲得するために、白上の峰での荒行が必要だったのである。そして、その完結のためには、今まで一体であった母なるものに対して捧げるべきいけにえが必要であったし、父性的な強さを立証するための試練に耐えることも必要であった。これらの意味をかねそなえた自己去勢の行為として、明恵の耳を切る行為を解釈することが妥当のように思われる。

 明恵がそれまでに「包まれて」いた高雄を出て、白上の峰に住む決意をしたことは、現代的に言えば青年の家出に相応するもので、母なるものに対する決別の表明と見ることができる。しかし、もっと明確な「母殺し」の象徴的成就ではなく、自己去勢の道を選んだことは、明恵が母なるものとのつながりをある程度維持していることを示している。 これは、明恵が他の日本人とは異なる道を歩みながらも、それは直ちに西洋的な父性的自我の確立への道につながるものではなかったことを示していると思われる。

 

さあ、それでは次は「仏陀への思慕」です。

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