河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

仏陀への思慕

 

 

 明恵の信仰は、時空を超えてひたすら釈迦その人に向けられていた。(中略) 釈迦という人は、時空を超えて明恵の心のなかにあった。

 

 「明恵上人樹上座禅像」を見るとき、だれしも明恵が自然と渾然一体となっている姿に感銘を受けるだろう。樹上に端然と坐している明恵の周囲には鳥やリスの姿さえ描かれている。座禅像にこのような小動物が配されたは、おそらくほかに類を見ないであろう。

 日本人である限り、自然への親近感を持っているものであるが、彼の場合はその度合いが極めて深く、それが彼の信奉する華厳の教えとも結びついているところが特徴的なのである。

 苅磨の嶋に明恵は一通の手紙を書いた。彼にとっては、島も人も同等なのである。(中略)国土というものは『華厳経』に説く仏の十身中の最も大切なものであり、毘廬舎那仏の体の一部である。

 彼にとっては、人間や動物のみならず、無生物に至るまでが区別なく感じられるのである。「もの」と「こころ」の境界は、限りない相互滲透性をもっているのである。

 

 

ユングの提唱した共時性

 彼はいわゆる偶然の一致と言われる現象に、意味の深いものがあり、それらは因果的には説明できないが、非因果的に共時的に連関していると考え、事象の説明原理として因果性と共に共時性を立てるべきであると主張したのである。

 西洋においては自然科学が発達したが、これも彼らの確立した意識を論理的、合理的な思考の訓練によって磨いていったから生じたことで、すべての西洋人が科学者になったわけでもない。東洋においても、東洋の意識を禅定や瞑想などの修行によって磨いてこそ、仏陀の説いたような意識にまで深めてゆくことができるのである。ただ両者の訓練の方向は、逆方向を向いていると言っていいほどである。

 人間の意識は通常の生活においては、自と他、ものとこころ、などをある程度区別している。その区別を鮮明にし、合理性や論理的整合性の高い意識をつくりあげてゆくのが、西洋に生じた意識の確立である。

 東洋的な考えによると、訓練によってより深い意識へと到達してゆくと、むしろ、自と他、ものとこころなどの境界があいまいとなり、共時的現象を認知しやすい状態になる

 明恵があるところで「馬は意識なり」としている点が興味深い。フロイトなら馬は無意識で、それに乗っている明恵が意識である。意識の次元がいろいろと異なることを考えると、馬で表現されるような意識もあってよいはずであり、明恵はまさにその上に乗っかっているのである。 

 

 既に述べてきたところから、明恵が極めて深層の意識に達することが可能であったことは明らかであろう。

 明恵の素晴らしいところは、このような極めて深い意識体験をしつつ、一方では通常の意識も強くて、当時には稀なほどの合理性をそなえていたということである。内界と外界、合理と非合理、父性と母性などの、人間にとっての多くの二元性を、どちらにも偏らずに統合的に見ていこうとする明恵の態度は、彼の言動のあちこちに示されている。

 

 

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