河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)

 

 

 「阿留辺畿夜宇我(あるべきようわ)」は、明恵にとって、自分の生き方を律するための簡潔にしてかつ根本的な言葉であったが、ものとこころの連続性を相当に深く体得していたと思われる明恵の生き方を示す言葉として誠に味わい深い言葉である。 

 

 明恵にとって高山寺に住むことは、相当の決意を要することであったろう。弟子をとることを好まず、世間一般との交際を避け、ひたすら求道の姿勢をくずすことのなかった彼にとって、後鳥羽院から賜わる土地に住むことは、すなわち貴顕との交わりを或る程度受けいれることを意味するわけであるから、大変な態度の変化を要求されることになる。そのようなことを念頭におきながら、『夢記』に記録されている建永元年の夢を見てゆくことにしよう。この年の十一月に明恵は高山寺の土地を受けるのであるが、内外界の変化を反映してか、この年には多くの夢が記録されている。

 

 『夢記』の建永元年の夢を続けて見てゆくことにしよう。以下に示すのは六月の夢のひとつである。 

一、同六日の夜、夢に云はく、石崎入道之家の前に海有り。海中に大きなる魚有り。人云はく、「是鰐也。」 一つの角生ひたり。其の長(たけ)一丈許り也。頭を貫きて之を繋ぐ。心に思はく、此の魚、死ぬべきこと近しと云々。(「鰐の死の夢」) 

 この夢は、少しおもむきの異なるものである。石崎入道は湯浅の一族の一人かと推察されているので、この海は紀州の海であろう。そこに「鰐」と呼ばれるような大魚がいる。明恵はそれを見て「死ぬべきこと近し」と思っている。このような大魚の死は、明恵の内界における相当な変化を予示している。明恵はおそらくこの夢によって、自分にとって一つの転換期が到来しつつあることを予感したのではなかろうか。

 われわれは何か新しいものを得たとき、それによる喜びと、その背後において失われたものに対する悲しみとの、両者をともにしっかりと体験することによって、バランスを保つことができる。

 「鰐の死の夢」以来、短時日のうちに相ついで生じた一連の夢は、明恵が後鳥羽院から賜わる地所を受けるための、心のなかでの内的な準備がはじまっていることを示している、と考えられるのである。あるいは、十一月には正式に高山寺の方に居を移しているので、この夢を見たあたりで内々の交渉があったのかも知れない。

 明恵にとって高山寺の土地を後鳥羽院より受けとることは、彼の生き方を根本的に変えることになり、大変な覚悟が必要であっただろう。「法師くさい」のが嫌だと言って二十三歳のときに神護寺を出た彼が、約十年を経て、その神護寺の別所を院より賜わって住むことになる。それらすべての事象に、彼は「相応等起」の感をもったであろうし、高山寺に住みつくとしても、それはあくまで自らの求道の姿勢と矛盾するものとはならない、という自信に裏づけられて、彼は院の申し出を受けたのだろう、と思われる。これら一連の夢は、彼のそのような心の動きを反映しているものであろう。

 この年(建永2年)には、明恵に東大寺尊勝院の学頭として華厳宗を興隆するようにという院宣が下り、彼の講義の聴講者もだんだんと数を増すようになった。このような変化を、塚本善隆は次のように的確に記述している。 

 「静閑所に独処修行することを好んだ明恵も、いまや華厳宗再興の使命を自覚し、他人を数化することにつとめる化他行(けたぎよう)に進んだ。久しい彼の修学の成果が、みずからのうちに信念を確立してきたことを物語るものでもあり、孤独性の強かった彼が、社会・人類に奉仕する宗教人として練れてきたともいえる」

 

 

 ところで、明恵は、「阿留辺幾夜宇和(あるべきやうは)」について、「此の世に有るべきように有ろうとする」ことが大切であると明言している。これは、当時急激に力を得てきた法然の考えに対するアンチテーゼとして提出されたものと思われる。従って、この言に続いて、現世のことはどうであっても後生だけ助かればいいなどと説いている経典はない、と言い切っているのである。

 このような例に接すると、日本人としてはすぐに「あるがまま」という言葉に結びつけたくなるが、わざわざ「あるべき」と、「べし」という語が付されているところに、意味があると感じられる。

 このような日々の「もの」とのかかわりは、すなわち「こころ」の在り様につながるのであり、それらをおろそかにせずになし切ることに、「あるべきやうわ」の生き方があると思われる。そこには強い意志の力が必要であり、単純に「あるがままに」というのとは異なるものがあることを知るべきである。

 明恵が「あるべきやうに」とせずに「あるべきやうは」としていることは、「あるべきやうに」生きるというのではなく、時により事により、その時その場において「あるべきやうは何か」という問いかけを行ない、その答えを生きようとする、極めて実存的な生き方を提唱しているように、筆者には思われる。 

 

 明恵の法然に対する批判は、 

  一、菩提心を捨てる過失

  二、聖道門を群賊に譬える過失

                                                                                    の二点に絞られる。

 

 それでは、次は「仏教と女性」です。

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