河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

仏教と女性

 

 

 ユングは、男性的なもの、女性的なものの元型は、男女共にその無意識内に等しく存在すると考えた。ただ、それを意識的にいかに生きるかによって、生き方のスタイルに変化を生じる。たとえば、男性は一般に男性元型に基づいて自分の自我をつくりあげるので、女性元型は無意識内に留まることになる。また、どのような元型がある時期、ある集団にとって優勢であるかに従って文化の差が生じてくる。ヨーロッパにおいては男性元型が強いので、近代における自我は男性も女性もともに男性元型の作用を強く受けている。

 

ユングは男性の夢にしばしば現われる女性が特徴的な性質をもつことに気づき、それらの元型の存在を仮定してアニマと名づけた。彼がアニマという語を用いたのは、男性にとって、魂のイメージとして女性像が顕現すると考えたからである。彼は分析の過程に従って、アニマ像が段階的に発展すると考え、第一段階を生物的段階、第二段階をロマンチックな段階、第三は霊的(spiritual)な段階、第四は叡智の段階とした。確かにアニマ像には種々の姿があり、それは時に段階的に発展するかの如く見えるときもあるが、筆者はこのような段階的発達説にはむしろ懐疑的であり、これらは常に無意識内に存在し、時に応じて意識に作用を及ぼしてくる、というように考えている。

 

仏陀が最初に仏教を創始したとき、女性はその考慮の外にあったというべきであろう。彼の教えに従う人はすべて男ばかりで、出家者は生涯独身で過ごした。彼らは厳重な戒を守ったが、その第一条が婦女と交わらないということであった。そして、次第次第に、 女性こそは出家者を誘惑したり、堕落させたりする恐ろしい存在であるという考えへと変化してゆく。実のところ、堕落や誘惑を欲しているのは男性の方であるのに、それは女性へと投影され、女性こそいやしむべき存在であると考えるようになるのである。

 このような心のはたらきのためもあったと思われるが、仏教においては、女性は救い難いとか女性の成仏は難しいとかいう考えが強くなってきた。

 ところが、大乗仏教になって、出家のみならず在俗の信者をも対象として考え、それらが等しく成仏することなどを考えはじめると、女性の取り扱いが極めて難しい問題となってきた。大乗仏教的な救いは、原理的には母性原理が優位になる。従って、女性に対する拒否を一方で感じつつ、反面では母性というものを高く評価せざるを得ないというジレンマをかかえこむのである。

 ところで、このように極端な女性忌避の傾向をもつ仏教が最初に日本にもたらされたとき、本邦最初の出家が女性たちであったという事実は、まことに注目すべきことである。これは、大隅も指摘しているように、日本の土着信仰においては、神の<よりまし>となるのが女性であったという理由からであろう。このことは、日本において、仏教がはじめはその呪術的な面が重んじられて受け容れられた事実を反映していると思われる。

 大乗仏教になって、母性原理の強調がはっきりと認められるが、その大乗仏教が日本に渡来するときに、日本に古来からある地母神的な母性崇拝がその受け容れに一役買ったので、わが国の仏教においては、母性の尊重ということが強く前面に押し出されてきたのである。

 

 なお、河合隼雄は、勝浦令子の「古代における母性と仏教」(季刊日本思想史、22号、ペリカン社、1987年)を紹介し、わが国の仏教においては、母性の尊重ということが強く前面に押し出されてきた経緯を説明しているのだが、今ここで私は、「観音さまは何故女性か?」という問いのみを掲げておくことにする。また、河合隼雄は、堀一郎の「わが国(くに)民間信仰史の研究」(第2巻、東京創元社、1961年)を紹介し、次のように言っているのだが、今ここで私は、日本古来の信仰と「かがい」や「歌がき」とが深く結びついている点を指摘するにとどめておきたい。

 『このような事実の有無(古代に聖娼というものがいたかどうか)については確実なことは言えないにしろ、性がタブーではなく、農耕と結びついた儀式などに取り込まれ、比較的オープンで宗教的に高い価値を与えられていたことは事実であろう。このような背景のあるところへ、母性原理が強調される形で仏教が取り入れられたので、わが国においては、仏教の戒を守ることがなかなか困難であったと思われる。』・・・・と。

 

 さて、河合隼雄は、ノイマンの「グレート・マザー」(福島章ほか訳、ナツメ社、1982年)を紹介し、その応用として自分なりのM(マザー)軸、A(アニマ、魂、スピリット)軸を図示しながら、明恵の無意識内に存在する女性意識を説明している。明恵は左端(無意識)の女性像の限りない左への移動、つまり、戒を守り切ることによって、右端(意識)への飛躍をなしとげたのである。女性との肉体的接触を拒否することによって、はじめて女性との真の接触を可能にしたのである。これはなんとも凄いバラドックスである。

 M(マザー)軸、A(アニマ、魂、スピリット)軸ともにかかわった明恵は、人間的に魅力ある人となったが、その人間存在そのものがコスモロジカルに意義あるものとなったにしても、自分の考えを尖鋭な「教義」として伝えることはできなかった。これに対して親鸞の立場は、伝統的な日本人の心性にマッチするところがあるし、「教義」として提示しやすいということがあった。もっとも、これはM(マザー)軸上の超越であり、西洋人の考えるイデオロギーや「教義」は父性原理との結びつきで確立されるものなので、それらとは相当に異なるものであったが、ともかく、日本人にアッピールする「教義」と成り得たものと思われる。

 このような点から、既に述べたように、「宗教史」的に見るとき、親鸞の占める地位と明恵のそれとは、比べものにならぬほどの差を生じることになった。

 明治になって西洋流の学問が強くなると、教義として鮮明な・・・と言っても、それは西洋流の教義とまったく異なるところに意義があるのだが・・・親鸞が宗教史の前面に出てきて、明恵はその場を失ってしまったわけである。現在においては、西洋においても知のパラダイムの変換がさまざまに意図されているし、既に述べたように、日本人が西洋の文化との対決を迫られていることを考えると、明恵の意味について考えることは、現在における課題でもあると思われる。 

  

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