河合隼雄の「明恵 夢を生きる」(1987年)

 

目次

 

 自由と不自由、平等と不平等、善と悪、権利と義務、父性本能と母性本能、陽と陰・・・・、世の中というものはひとつの価値観だけでやっていけない。禅の言葉に「両頭截断して、一剣天に依って凄まじ」という言葉があるが、これはそのことを言っているのであり、白とか黒とか・・・、そういう相対的な認識の仕方というものを戒めている。白でもあり黒でもあると同時に白でもないし黒でもない・・・・そういう絶対的な認識に立つべきとの教えである。こういう絶対的な認識の仕方から行くと、白か黒かという区別ができないのであるが、近代科学は、もちろん、それが白か黒かを区別しないとまあいうなればやっていけないのではないか。そういう思考の延長線上にキリスト教などの一神教があるが、本来、存在というものはそういうものではないだろう。存在というものは、そういう白とか黒とかという相対的な認識を超越したものであり、白との関係黒との関係が問題なのである。 

 

 京都大学100周年記念の記念講演会が一昨年の秋に東京であり、河合隼雄さんが「日本人の心のゆくえ」と題して講演を行なわれた。近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいせいき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいせいき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。最後は、西洋文化と日本文化の共生の必要性を訴えられ、今後我々日本人は矛盾システムを生きていかなければならないと言われたのであるが、その思想的背景として、まあ、そういう日本文化の存在論、つまり挙体性起(きょたいせいき)ということをいわれたと思う。しかし、私は長い間、挙体性起(きょたいせいき)ということがよく判らなかった。どんな辞書を引いても出てこないのである。

 

 ところが、武家社会源流の旅の行き着く先に明恵(みょうえ)がいるのではないかとの考えから、私は、河合隼雄さんの著書「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)を勉強して・・・・・やっと挙体性起(きょたいせいき)ということが判った。以下に河合隼雄さんの説明を紹介しておきたい。

 華厳思想の究極は、法界縁起にあると言われたりする。この法界という語は簡単には説明し切れないことのようだが、一応「望月仏教大辞典」を見ると、いろいろな意味が書かれている。そのなかで「・華厳教学では」という項を示すと、「<現実のありのままの世界>と<それをそのようにあらしめているもの>との二つの相即的に表現する言葉として用いられる。云々・・・・」となっている。(註;相即的という言葉もあまり使わない言葉であるので分りにくいと思うが、相は二つ以上のものの関係をいい、即はぴったりくっついている様を言うので、相即的とは、相対的な関係にあるいくつかのものを本来はひとつであると理解する・・・・そのような理解の仕方をいう。)

 法界はまず出発点として、<現実のありのままの世界>であるが、<それをそのようにあらしめているもの>は何かを考え出すことによって、その意味合いが変わってくるのである。それを華厳思想では、事法界、理法界など四種の法界の体系に組織化している。 

 

 事法界はわれわれが普通に体験している<現実のありのままの世界>で、そこでは、それぞれの事物は明確に他と区別されて自立的に存在している。これは「華厳的な言い方をすれば、事物は互いに礙(さまた)げ合うということ。AにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許さない」という状態である。

 ところが、このように事物を区別している境界線を取りはずして、この世界を見るとどうなるだろうか。『限りなく細分化されていた存在の差別相が、一挙に無差別性の茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」と呼ぶのであるが、華厳の述語によると、このように見られた世界が「理法界」ということになる。・・・・・中略・・・・・。理法界の「空」は、「無」と「有」の微妙な両義性をはらんでいる。したがって、無限の存在可能性である「理」は、一種の力動的、形而上的想像力として、永遠に、不断に、至るところ、無数の現象的形態に自己分節していく。・・・・「空」(「理」)の、このような現れ方を、華厳哲学の述語で「性起」と』呼ぶのである。

 華厳哲学において、「性起」の意味を理解することは重要であるが、井筒俊彦によれば、一番大切な点は、それが挙体「性起」であるという。つまり、井筒によれば、「理」は、如何なる場合でも、常に必ず、その全体を挙げて「事」的に顕現する。だから、我々の経験世界にあるといわれる一切の事物、そのひとつ一つが、「理」をそっくりそのまま体現している・・・・井筒はこのように言っている。 

 

 河合隼雄の説明はさらに続くが、ここではこの程度の紹介にとどめておきたい。再度申しておきたい。近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいせいき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいせいき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。

註:上記は、かって私が書いた「挙体性起(きょたいせいき)」についての文章である。 

 

1、明恵と夢

2、明恵とその時代

3、明恵が学んだ華厳と真言の二宗

4、母なるもの

5、身体とは何か

6、耳を切る

7、仏陀への思慕

8、阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)

9、仏教と女性

10、貞永式目の思想