註:「贈与の霊」の呼び声に耳を傾けようとすることが「自然の叡智」に学ぶことではなかろうか。

註:宮沢賢治の再発見に勤めることが「自然の叡智」に学ぶことではなかろうか。

 

贈与する人

 

                                  中沢新一

 

 魂は商品として、売り買いすることができません。情報として、蓄積したり、伝達したりすることもできません。魂は贈与されるものです。自然から人へ、人から人へ、魂は見返りを求めることなく、贈り与えられ、それを受け取った人は、自分が受け取ったものにもまさるすばらしい贈り物を、他の人々に贈り与えようとするのです。

 人はいったい何の力にうながされて、このような贈与をおこなうのでしょうか。自分や自分に親しい者たちだけが、幸福になったり、利益を得たりすることを望んでいるあいだは、人は贈与者になることができません。そういう人は、贈与ではなく、商売をするのです。商人は贈与者になることができません。商売は人と人との間に、距離をつくりだす力を持っています。人の所持品が、もはや魂にかかわる物ではなく、その人から切り離すこともできるようになったとき、はじめてその物は、商品となることができます。おたがいに分離された人と人との間を、魂の問題などには無関心な商品が、受け渡されていきます。そこで働いているのは、人と物、人と人とを分離する「ロゴス」の力です。商品の売り買いによって、人と人と結び付けられることは、ありません。そこで実現される幸福は、エゴや共同体や民族のつくる、閉じられた世界の外に、広がっていくことがありません。

 ところが贈与は、そのような拡大を実現しようとするのです。贈与は人々を結びつける力によって、働きをおこないます。つまり、それは「エロス」の力によって働くのです。何の見返りを求めることもなくおこなわれる贈与は、相手の気持ちに、お返しをしなくては、という負担をつくりだすことがありません。贈り与えられる物は、魂と魂のあいだに、エロティックなひとつの通路をつくりだします。そのとき、贈られる物といっしょになって、それを贈る人の魂が、贈られた人の魂のなかに、侵入をはたすからです。ここには、偽善はありません。「エロス」には、小さな慈愛の鎧を、打ち砕く力があって、純粋な贈与への欲望にうながされてあるとき、人は他者に対する免疫抗体のメカニズムを、解除しています。そして、そのような無防備な状態にある魂が、贈与物をつうじて、自分とエロティックな結合をつくりだそうとしているのを知るとき、それを受け取る人の魂も、ほがらかな喜びを体験することになるのです。

 これが、贈与です。そして、宮沢賢治という人は、そのような贈与者、しかも稀に見る純粋さで、このような贈与の精神を生きた人であったのだろう、と私は考えるのです。

 

 宮沢賢治はずいぶん若い頃から、自分をとりまいている自然や、素朴な人々の心の働きや、あるいはそれらすべてを包み込んでいる宇宙に、「贈与の霊〈れい〉」がみちみちている、という直感をいだいていたようです。何の見返りを求めることもなく、ただ存在している物たちをいつくしむがゆえに、みちあふれる力を、私たちの世界に普段に贈与しつづけているものに対する直感です。それは、物と物、人と物、人と人とを分離している境界をのりこえ、打ち砕いて、たがいを結びあわそうとする「エロス」的な力です。春になると、このエロス的な「贈与の霊」は、自然の内奥〈ないおう〉に、あふれんばかりの力を贈り込んできます。そうすると、自然は自分の内奥から萌えあがってくる、むせかえるような力にうながされて、さまざまな発芽をおこすのです。

 雪解けの野山に、植物が芽生え、木々の蕾を押し開くようにして、花々が咲き乱れるとき、密度の高くなった春の空気に包まれながら、自然の中を歩く宮沢賢治の魂は、はげしい「修羅〈しゅら〉」につきうごかされるのです。このとき、賢治は自然をとおして、自分の中に何かを注ぎ込んでいる、このエロティックな「贈与の霊」の力に、圧倒されてしまっているのです。「贈与の霊」は、いっさいの物惜しみをすることなく、ふんだんに、あふれるほどの力を、贈り与えようとしています。その力は、全身を惜しげもなく賢治の前に開いて、さあ、欲しいものすべてをもらっていきなさい、と告げています。

 

 ところが、人の魂も肉体も、そのような宇宙的な「贈与の霊」の気前のよさに向かい合えるほど、自由で、大きなものとしては、つくられていません。暴風のような「エロス」の力に吹き晒〈さら〉されて、宮沢賢治はその力の前で、一人の修羅と化していくのです。このとき彼は、芽吹き、開花する自然をとおして、自分のほうに呼びかけをおこなっているものの存在を、直感によって、はっきりとつかみとっています。すべての存在のうちには、それを動かし、生かしている、慈愛〈じあい〉を本質とする自由な霊が働いていて、それはこの世界に、春も、夏も、秋も、冬も、それぞれの形をした豊穣〈ほうじょう〉を、贈与しつづけようとしている力だということを、宮沢賢治は誰よりも鋭く、また深く、認識していた人であるように、私には思われるのです。

 これは詩人の直感と呼んでよいものだろう、と思います。私の考えでは、詩人という存在は、さまざまな形をとって世界にあらわれる、この「贈与の霊」の賛美者であり、自分にあたえられた贈与の豊かさに応えるために、自分も言葉の作品を、ひとつの贈与物として、つくりだそうとする人々なのです。詩は贈与を本質としているのです。それは、はじめから自分が商品となることを予想して、つくりだされたものではありませんから、市場経済の世界には、あまり馴染むものではありません。詩人は商人ではありません。詩人は贈与者です。そして、宮沢賢治ほど、「書く」行為そのものが、一つの贈与の行為であることを、はっきりと理解していた人も、少ないのではないでしょうか。

 

 彼の書いたたくさんの詩も、童話も、戯曲も、農民への講演も、すべてが純粋な贈与としての性格をもっています。まず第一に、それらの作品は、惜しみないエネルゲイアの放出をおこなう「贈与の霊」への直感から、生み出されたものです。この霊の力が、彼の魂を通過していくたびに、何かが発芽をおこします。宮沢賢治は、その芽吹いたばかりの種子をだいじに育てて、農民が稲を育てるように、言葉のテクネをつくして、立派な作物にまで成長させます。何のために。人々に、つまり言葉を読んで理解できる人間という生き物に向かって、贈り物をするためです。彼は、贈り物に対する返礼(カウンター・ギフト)をおこなっているのです。宇宙的な「贈与の霊」が、自分に惜しみなく与えてくれたその贈与の行為に応えようとして、彼は今度は人間に向かって、ま新しい、見たこともないような豊かさをもった、たくさんの贈り物をつくりあげようとしてのではないでしょうか。

 

 ですから、このような詩人である宮沢賢治が、仏教に対して深い共感をしめしていたことは、まったく当然であった、と言えると思います。なぜなら、仏教とは、人類がはるか太古の時代からその存在を知っていた、この「贈与の霊」の思想化にほかならないからです。仏教徒は、なぜエゴへの執着を断ち切る修行を、おこなうのでしょう。仏教は、あらゆる生命が「贈与の霊」の力(仏教は、それを仏性とか菩薩と言い換えた)によって、あらしめられ、生存し、守護されている、それ自身が一つの贈与物であることを教えています。仏教徒とは、その事実に応えて、他のあらゆる生き物たちへの贈与者となろう、という深い欲望をいだいた人々のことです。この世に人として生きていて、しかも純粋な贈与者でもある様な生き方が可能であるためには、その人は、自分のエゴへの執着を、のりこえることができなければなりません。そういう人は、自分だけが幸福になっても、少しも幸福な気持になれません。万人が、いやありとあらゆる有情〈うじょう〉(意識の働きのあるもの)が、幸福にならないかぎりは、自分も幸福にはなれない、これこそが「贈与の霊」の人類にあたえた、偉大なる教えです。

 

 しかし、決意して贈与者になろうとしたものは、現世では、けっして幸福にはなれません。現世では、贈与はつねに誤解されて、裏切られていく運命に、さらされているからです。あの「ナメトコ山」の猟師と熊のことを考えてみましょう。猟師の生存にとって、熊という動物は、森の奥にその実在が感知される、贈与をおこなう自然の霊の贈り物にほかなりません。自然は、熊の立派な肉体を、人への贈与として与えたのです。ところが、人はその贈与を受け取るためには、まず熊の生命を奪わなければなりません。いっぽう、熊のほうは、自分が森の霊によって人に与えられた贈与物である、という定めにしたがうことなどはできません。自分には、愛する世界や愛する家族がいて、むざむざと自分を猟師への贈り物に捧げてしまうことなどは、できない相談です。森の霊は、非物質的な霊の力(それは生産の力をもっているのです)を、熊と人に贈与するだけでよかったのですが、現世にある生き物は、物質である肉体を持ち、それを贈与のために、簡単に手放すことなどはできないからです。

 その猟師と熊が出会う、その瞬間に、そうしたことのすべてがあかるみにでます。贈与は、現世にあっては、深い悲しみを同伴させる、という真実です。宮沢賢治は、詩人として、作家として、農民の友として、また熱心な法華経の信者として、この悲しみをのりこえながら、なおも、現世にあって、純粋な贈与者でありつづけようとした人です。私たちは、はたして宮沢賢治を理解することなどができるのでしょうか。純粋な贈与などを、みずからのものとして、生きることなどができるのでしょうか。まして、市場経済の世界においては、純粋な贈与などは、かえって嘲笑の的です。しかし、喜ばしいことに、私たち人間の中には「贈与の霊」の呼び声に、耳を傾けようとするものがいまだに跡を絶たず、その人たちは日々、宮沢賢治を再発見しているのです。

 

(平成六年十二月、宗教人類学者)

 


 私はこのページの冒頭に、

註:「贈与の霊」の呼び声に耳を傾けようとすることが「自然の叡智」に学ぶことではなかろうか。

註:宮沢賢治の再発見に勤めることが「自然の叡智」に学ぶことではなかろうか。

と書いたが、もちろん、「自然の叡智」に学ぶ・・・その学び方は、人それぞれにいろいろのやり方があろう。

 今までの脈絡から言えば、「宇宙との響き合い」であり、「劇場国家にっぽん」ではそれを念頭においていろいろのことを書いた。 

 しかし、宮沢賢治や今西錦司のような・・・・「自然の人」の心髄に触れることも極めて大事なことのように思われる。いずれ今西錦司のページもつくりたい。乞う御期待!