清水博が唱える「場の文化」

 

 

 東大名誉教授に清水博という生命学の大先生がおられ、『場の思想』(2003年・東京大学出版会)という本を出された。清水先生は1932年生れで、私より6つ歳上である。 東京大学の薬学部を出られた薬学博士であるから、薬の先生かと思っていたらとんでもない。大学院時代は化学物理学を学ばれ、ハーバード大学やスタンフォード大学でも研究生活をされた生命学の大家である。

 生命に関する学問をバイオホロニスというが、先生の研究は、生命というものを分子のレベルから解明しようとするもので、世界最先端の研究である。

 先生は、九州大学理学部教授をされた後、東京大学薬学部の教授を務められ、定年後は金沢工業大学で「場の研究所」なるものを始められた。この生命学の権威である清水先生が、哲学を学ぶものの必読の書といえるような前記の本を出されたのである。

 近代文明は行きづまり、今という時代は新しい文明を創りだすべき、まさに大転換期にある。人と人、そして人と自然の共存のために、今こそ「救済者」の出現が待望されているのである。では、具体的にどうすれば「共生の論理」にもとづく新しい文明が創造できるか? これは「劇場国家にっぽん」の最大の課題であるが、具体的には、私たち一人一人がコミュニティー的生命世界に生きるということである。それを可能にするのが、「共生の論理」である。

 私はこの先、西田幾多郎の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」と、田邊元の「種の論理」や中沢新一の「モノとの同盟論」を統合する哲学として、清水博の説く「共生の論理」を採用していきたいと思う。

 清水博は「共生の論理」にもとづく文化、それは「違いを認める文化」でもあるが、そういう文化を「場の文化」と呼んでいる。そして、日本は歴史的に仏教を基礎に普遍的な「場の文化」を生み出した経験をもつ、世界でも特異な国であると言っている。

 私もそう思う。日本の歴史をひもとけば、容易にそういう「場の文化」や仏教を基礎とした普遍的な「違いを認める思想」に行き当たる。したがって、わが国の歴史と伝統・文化を大切にするということは「共生の論理」にもとづく新しい文明を創造することにつながると確信している。

 憲法改正にあたっては、前述したように「歴史と伝統・文化の継承」という文言を条文に入れるべきだと思っているが、当面は、仏教を基礎とした普遍的な「違いを認める思想」を考えてみたい。その際、「唯識」(法相宗に代表される奈良仏教の中心思想)が出てくるし、徳一(とくいち)の思想にその典型を見てとることができる。修験道はわが国の古代信仰(スピリットの世界)と結びついた道教の流れとみることができるし、また密教は古代信仰をそれなりに取り入れた山岳仏教である。

 そして、徳一の仏教は、古代信仰と仏教の本格的な習合を図ったものとみることができる。つまり「違いを認める思想」は徳一にもっとも強くあらわれている。「劇場国家にっぽん」の基本的思想は「共生の論理」であり、「違いを認める思想」である。これをこの先、草の根の国際交流を介して、各地域に拡大していかなければならないと思っている。

 清水の著『生命を捉えなおす』(中公新書)の初版は1978年だが、その後研究が進み、増補版が出たのが1990年である。とくに注目すべきは「関係子」という考え方であろう。中村雄二郎は「メディオン」と呼んだらどうかとアドバイスしたようだが、中村のリズム論とも関係が深く、関係子が発生するリズムの「相互引き込み現象」は清水博の画期的な発見である。関係子に関する研究はこれからどんどん進み、生命の神秘がもっと明らかにされるであろう。関係子の着想は実に素晴らしいのだが、近著『場の思想』に、その話が出てこないのは誠に残念である。

 清水博のイメージする「関係子」の概念について、要点を説明しておきたい。

 私は今まで、生命学という言葉を使ってきたが、清水博は、生命学とは言わないで、「生命関係学」と呼んでいる。関係性というものの重要性を充分認識したうえでのことである。生命システムには、多様な複雑性とそこに自己組織される秩序があるというのが清水博の考え方であるが、この秩序は一義的なものではなく多義性に富んだものである。

 では、秩序の多義性というものはどこからくるのか? 清水は、生命の働きを生成的、関係的にとらえない限り、この問題は解けないと考えている。関係性の重視である。その粒子がたくさん集まったとき、その状態によってグループとしてのさまざまな機能が出現してくるのだそうだ。もちろん粒子ごとに特定の機能というものはあるのだが、グループとしての機能はそれら個々の機能の合計ではなくて、全く別の新たな機能が出現してくる。それはなぜか? 多くの粒子がどのような状態になっているか、それら粒子と粒子の間の関係性により、いろいろな機能が出現する。よって関係性というものが重要となり、それに着目して研究を進める必要がある……というのが清水の考えである。

 劇場で役者が即興劇を演じる。観客がそれを見ている。そこには照明装置や音響装置など劇場としてのシステムがある。即興劇を演じる役者は、あらかじめ劇場主、シナリオ作家、演出家から必要な情報を与えられているが、いったん幕が上がると、あとはもう観客と一体になってその場の雰囲気で臨機応変に演じる。それが即興劇であるが、清水は『生命を捉えなおす』のなかでこう言っている。 「役者の演技は、大まかな筋という拘束条件のもとで、大ざっぱに決められますが、具体的には役者同士の演技の相互関係によって、選択されたり、つくられたりしながら劇を進行させていくのです。その演技は、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら展開していく必要があり、場違いな演技をすることはできません。……」

 そこには環境とシステムは出てくるが、活動主体が記述されていない。そこでは操作情報という言葉が使われており、情報を自己組織する活動主体というものを念頭に置いて、清水はそれを関係子と呼んでいる。すなわち関係子とは、システムや環境から発せられるさまざまな情報を受け取って、臨機応変に自らの活動に役立つ操作情報を自己生産するものである。つまり自己組織するとは、自己生産しながら自分の組織に組み込んでいくということである。要するに、関係子というのは、意味のある操作情報を自己組織するのである。

 即興劇モデルでいえば、環境は観客、システムは劇場の照明装置や音響装置といった劇場システム、関係子は役者ということになる。すなわち劇場全体の情報は、それぞれの環境からの情報、システムからの情報、関係子で自己組織される情報のトータルである。「劇場国家にっぽん」では、地域の人びとが関係子となって、風土というシステムやビジターという環境から発せられるさまざまな情報を受け取り、臨機応変に即興劇を進めていくのである。それが地域の人びとの自己生産活動である。そして、これからの日本は、そういう活動によって地域の活性化……私流にいえば、地域の活充化を図っていかなければならない。

 私は、中沢新一の説くスピリットに注目しており、「劇場国家にっぽん」で大いに使わせてもらおうと考えている。この世にスピリットが出現する場合、私たちの意識野にどのような関係子が出現するのか? スピリットと関係子・・・なかなか面白いテーマだと思っている。

 

註:以上は、最近上梓(じょうし)した拙著「劇場国家にっぽん」の中の一節ですが、私は、この一冊に、私の地域づくりのビジョンを掲げ、日本再生のヒントを挙げてみました。歴史のなかで光明を発する日本民族の魂と知恵。その魅力を紹介することが、日本の未来を切り拓くヒントになる、という衝動に駆られて筆をとりました。今こそ日本民族の魂と知恵の源泉をさぐり、この国のありようを検索すべきとき・・・・その思いに衝き動かされて筆をとった次第であります。この先、日本はどうなるのか? 日本人は何をなすべきか? 見えない未来に光を投げかけるのは、実は、歴史に埋もれた日本民族の魂と知恵ではないだろうか?

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