崇徳天皇と保元の乱

 

註:緑の字は私の解説であるが、それ以外は「天狗と天皇」(大和岩雄おおわいわお、1997年、白水社)からの抜粋である。 

 

 保元(ほうげん)の乱は武家社会を語る上でも天皇制を語る上でも欠かすことのできない重要な歴史的事件であるが、私はとりわけ崇徳(すとく)天皇が言ったといわれる・・・天皇自身の言葉(天皇制否定の心情)に注目している。大岩の「天狗と天皇」には次のように書かれている。

天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という

崇徳の逆転宣言は、

痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。

 崇徳天皇は、なぜ自分がこのようなひどい目にあわなければならないのか、理解しようにも理解することができなかったに違いない。後鳥羽天皇や考明天皇の場合はひどい仕打ちを受けるその理由というものがある程度理解できるが、崇徳天皇の場合は、自分に落ち度がなく何が何やらさっぱり判らないということではなかったかと思われる。 

 以下において、そういう点を意識しながら・・・保元の乱における崇徳天皇の悲劇を勉強しておくこととしたい。

 

 

あらすじ 

 

 保元(ほうげん)の乱は1156 年 (保元元年) に起こった京都の争乱である。 (ほげんのらん)ともいう。 皇室・摂関家内の勢力争いに源平 2 氏の武力もふた派に分れて衝突した。皇室は崇徳天皇側と鳥羽天皇側に別れ、摂関家、つまり藤原氏も親子・兄弟の対立となったが、まあいってしまえば、権力をめぐる骨肉の争いであったのである。皇室がふた派に分れて争ったのもこの保元の乱が初めてであるし、藤原氏がまっぷたつに分れて争ったのもこれが最初である。この三年後に起こった平治(へいじ)の乱も似たような争いであり、保元の乱の延長線上にある。したがって、これらの乱の本質的なものは、保元の乱を勉強すれば足りるように思われるので、ここでは保元の乱を勉強することにする。

 院政というものは、1086年、白河天皇が権力を保持したまま鳥羽天皇に天皇の位を譲位したことに始まる。朝廷には「治天の君 (ちてんのきみ) 」と呼ばれた「院」(法皇)と天皇の二つの権力が競合併存することとなり, それにともなって権力争いが複雑かつ熾烈化していったのである。

 保元の乱に敗れた崇徳院は讃岐に流されたが、保元の乱の遠因は崇徳院の出生にあった。(ここでは崇徳院のことを単に院と呼ぶ)は鳥羽天皇と中宮待賢円院璋子(権大納言藤原公実の娘)の間に生まれた第一皇子で、「顕仁(あきひと)親王」と呼ばれたが、本当の父は鳥羽天皇の祖父の白河天皇であった。これについては角田文衛が、論考「崇徳天皇の生誕」や著書『待賢門院璋子の生涯』で詳細に論証している。 

 『古事談』(源顕兼著、建暦二年〔1212〕〜建保二年〔1215〕の間に成立)の巻二、「鳥羽院、崇徳院ヲ実子トシテ遇セザル事」には、次のように書かれている。 

 待賢門院ハ、白河院ノ御猶子ノ儀ニテ入内セシメ給フ。ソノ間ニ、法皇密通セシメ給フ。人皆コレラ知レルカ。崇徳院ハ白河院ノ御胤子ト云々。鳥羽院モソノ由ヲ知ロシメテ、「叔父子」トゾ申サシメ給ケル。 

 鳥羽院の子といわれている崇徳院は、実は鳥羽院の父の堀河天皇の弟で叔父だから、「叔父である自分の子」という意味で「叔父子」といったのである。 

 白河法皇(この人がなかなかのくせ者である)・・・・顕仁(あきひと)親王(後の崇徳天皇)が数え年の五歳(満年齢では三、四歳)になると、まだ数え年21歳にすぎない孫の鳥羽天皇を退位させ、親王を天皇にした。保安四年(1123)1月26日のことである。鳥羽天皇は上皇になった。しかし、当時、院政のまっただ中であり、実権は法皇にあった。したがって、大治四年(1129)も白河法皇が崩御するやいなや、鳥羽院の院政が始まったのである。鳥羽院は後に美福門院と呼ばれる権中納言藤原長実の娘得子に、保延五年(1139)に躰仁(なるひと)親王を生ませた。その頃は崇徳天皇に皇子がいなかったので、この親王を天皇の養子にさせ、3歳になると、23歳の崇徳天皇を退位させて親王を即位させた。これが近衛天皇である。白河法皇が自分に対しておこなったことを「叔父子」の崇徳天皇に対しておこなったが、そのやり方はより悪質であった。

 

 『愚管抄』は、崇徳天皇が躰仁(なるひと)親王を養子にし譲位に賛成したのは、子に譲位すれば院政がおこなえると思ったからだと書いている。ところが「宣命二皇太子トゾアランズラントラボシケルヲ、皇大弟トカカセラレケル」であったので(崇徳は養子の「皇太子」が即位したのだから上皇になった自分が当然院政をおこなえると思っていたら、宣命に「皇太弟」とあった。弟では院政は近衛天皇の父の鳥羽上皇がひきつづきおこなうことになる)、「コハイカニト、又崇徳ノ御意趣ニコモリ」と書き、この「御意趣」(養子〔皇太子〕だとだまして譲位させたこと)が保元の乱の一因になったと、『愚管抄』の著者慈円はみている。 

 譲位した崇徳院が「新院」と呼ばれたのは、鳥羽院がいたからである。鳥羽院は「一院」と呼ばれたが、3歳で即位した近衛天皇は生まれつき病弱で眼病を患い、久寿二年(1155)に17歳で崩御した。

 

 次の皇位継承について『愚管抄』は、

 『 院(鳥羽院―引用者注)ハコノ次ノ位ノコトヲヲボシメシワヅラヒケリ。四宮ニテ後白河院、待賢門院ノ御ハラニテ、新院ニ同宿シテヲハシマシケルガ、イタクサタゞシク御アソビナドアリトテ、即位ノ御器量ニアラズトヲボシメシテ、近衛院ノ姉ノ八条院姫宮ナルヲ女帝カ、新院ノ一宮カ、コノ四宮ノ御子二条院・・云々』・・・

と書く。

 

 慈円が「即位ノ御器量ニアラズ」と書く後白河院の「イタクサタゞシク御アソビ」とは、今様(遊女たちがうたうはやり歌)に夢中になっていたことをいう。「近衛院ノ姉ノ八条院姫宮」はワ子内親王、「新院ノ一宮」は崇徳の子の重仁親王で、躰仁親王を養子にした翌年(保延五年)に生まれている。母は崇徳院の配流地の讃岐に同行した兵衛佐局である。「四宮ノ御子二条院」は後白河の子の守仁親王である。早逝した近衛天皇の母美福門院は、自分の子を女帝にしたかったが、女帝は無理なので、幼いときから養子として面倒をみてきた守仁親王(当時15歳)を皇位につけたかった。しかし父がいるのに子を天皇にするのはおかしいので、結局、守仁親王の父の四宮が29歳で即位し(後白河天皇)、守仁親王は皇太子になった。

 

 崇徳はだまされて近衛に譲位したのだから(『保元物語』〔半井本〕はそのことを「誠ニ心ナラズ御位ヲサラセ給シカバ」と書く)、近衛の死で当然わが子の重仁親王に皇位がくると思った。そのことは、『保元物語』(半井本)が近衛天皇の死後の皇位継承について、

 新院、此ヲリヲエテ、「我身コソ位二不被付(つけられず)トモ、重仁親王ハ、今度ハ位ニハ遁(のがれ)ジ物ヲ」ト待(まち)ウケサセ給(たまひ)ケリ。天下ノ諸人(しよにん)モカク思(おもひ)ケル所ニ、ヲモヒノ外(ほか)ナル美福門院ノ御計(おんはからひ)デ、後白河院の四宮トテウチコメラレテ渡ラセ給ヒシヲ、位ニ付奉(つけたてまつら)セ給。・・・・・是ニヨリ、新院ノ御恨、今一入(いまひとしほ)ゾマサラセ給ゾ理(ことわり)ナル。

と書いていることからも証される。

 

 新院(崇徳院)の怨恨が強くなったのは当然だ(理ナル)と『保元物語』は書いているが、皇位継承稗から崇徳父子が徹底的に排除されたのは、鳥羽院が子の崇徳を「叔父子」と言っていたことだけが原因ではない。近衛天皇の実母の美福門院と関白藤原忠通が組んで、院政の実権を握ろうとしたことにもある。忠通は、愛宕山の天狗像の目に釘を打ちこんで呪咀した左大臣藤原頬長の異母兄である。 

 『愚管抄』は、近衛天皇が眼病で早逝したのは「ヒトヘニ左府ガ呪咀ナリト人イイケリ。院モヲボシタリケリ。証拠ヲオリケルニヤ」と書く「左府」は左大臣頼長、「院」は鳥羽院、『愚管抄』の著者慈円の父は忠通、頼長は叔父である)。忠通は、父の前関白忠実が頼長を溺愛するあまり、「氏長者」も弟の頼長に譲らされたので、愛宕山の天狗像の目に釘を打ち込んだ呪咀を異母弟頼長と父の忠実によるものだと鳥羽院に讒訴している。このように鳥羽院・美福門院・関白忠通側から排除されつつあった崇徳院・左大臣頼長は、鳥羽院の崩御(保元元年7月2日)に際して「謀反」を計画する。『保元物語』は鳥羽院崩御の日「謀反ノ輩、京ニ入集ル」と書く。保元元年7月11日未明、後白河天皇側(美福門院・関白忠通側)が崇徳院の白河殿を襲い、崇徳上皇側の源為朝などはよく防戦したが、勝負はついた。頼長は受けた流れ矢がもとで3日後に死亡。崇徳院は23日に讃岐に配流された。

 つまり、保元元年 7 月 2 日に鳥羽院が死去すると,天皇方は崇徳上皇, 藤原頼長両人をしきりに挑発,上皇方はこれに乗って白河殿に源為義・為朝父子や平忠正らの武士を招集したのであるが、 これに対し・・・・天皇方は為義の嫡子源義朝, 忠正の甥平清盛など主要な武士を掌握していた。これがあっというまに天皇方の勝利に決した理由である。

 

 『保元物語』(半井本)は、崇徳院が配流地の讃岐に出発した日(7月21日)に、「不思議ノ事有ケリ」と書いている。保元の乱では武家の源・平の両氏は、崇徳上皇側と後白河天皇側に分かれて戦い、勝ったのは、源氏では義朝、平氏では清盛だった。この二人が、崇徳院が讃岐に出発した日、「合戦スベシ」といって兵を集めているという噂がひろがった。その噂で、「源氏平氏ノ郎等ドモ、東西ヨリ馳(はせ)集リ」、都の人たちは合戦の噂におびえて、家財道具を運び出すさわぎになった。都大路は武士や都人が右往左往するので、ほこりが黒煙のようにまいあがり、火事かとさわがれた。騒動は天皇の耳にも入ったので、後白河天皇の側近の信西入道は義朝と清盛を呼んで、「両人合戦を企ル由、披露(ひろう)アル間、武士衢(ちまた)ニ満々(みちみち)タル由、天聴ニ及ビ叡聞(えいぶん)ヲ驚ス。速(すみやか)ニ狼籍(らうぜき)ヲ止(と)メ候へ。子細何様(しさいいかよう)ナル事ゾヤ」と聞いた。両人は「まったく根も葉もないことです」と答えたが、この答えにつづけて『保元物語』(半井本)は、

 天狗ノ所為ナルカ。人の肝ヲツブシケルコソ不便(ふびん)ナレ。

と書く。源義朝と平清盛が合戦するという噂をひろげて、都の人たちの「肝ヲツブシ」た騒動は「天狗ノ所為」だというのだが、この日は義朝・清盛の武力に破れた崇徳院が配流先の讃岐に出発する日であったから、「天狗ノ所為」の天狗は崇徳院にかかわっている。

 

 この「天狗ノ所為」から三年後、義朝と清盛が戦った平治の乱(1159)がおきている。平治の乱に破れた義朝の遺児が鞍馬山の牛若(義経)だが、天狗は崇徳院や牛若など敗者の側についている。

 

 

 

生きながら天狗になった崇徳上皇

 

 『保元物語』(金刀比羅本)は、実弟の後白河天皇によって讃岐に流された崇徳院が、次のように言ったと書いている。

 「嵯峨天皇の御時、平城の先帝世を乱給(みだしたま)ひしかども、則(すなわち)出家し給ひしかば、遠流迄(をんるまで)はなかりしぞかし。況(いわんや)、當帝(たうてい)をば吾在位のときは、いとおしみ奉り、孚(はごく)み参らせし物を、其昔の恩をも忘て、からき罪に行(おこなは)る。心憂(こころうき)」など思召(おぼしめし)ける。

 嵯峨天皇は実兄の平城天皇が出家したので遠流にまではしなかったのに、後白河天皇は実兄の私が出家したにもかかわらず配流にしたと言い、さらに弟の忘恩をなじっている。当帝(後白河)を、いとおしみ、はぐくんだことについては、後白河天皇自身が、自著の『梁塵秘抄口伝集』で次のように語っている『染塵秘抄』は後白河院編集の今様の歌集。『梁塵秘抄口伝集』は今様とのかかわりを後白河院自身が語ったことをまとめた本)。

 

 久安元年(1145)8月23日、待賢門院(崇徳と後白河の実母―引用者注)亡(う)せさせたまひしかば、火をうち消(け)ちて闇の夜に対(むか)ひたる心地して、昏(く)れ塞(ふさ)がりてありしほどに、五十日過ぎしほどに、崇徳院の、新院と申しし時、一つ所にわが許(もと)にあるべきやうに仰(おほ)せられしかば、あまりま近く、つつましかりしかども、好みたちたりしかば、そののちも同じやうに夜毎(ごと)に好みうたひき。

 母の待賢門院の三条高倉殿に「部屋住み」で居たとき、夜ごと明け方まで今様をうたっていたが、母が亡くなって闇夜にいる思いがしていたところ、実兄の新院が御所で一緒に暮らそうといわれた。今様をうたうのに、兄と一緒では気がひけたが、好みだからやめることができず、兄の御所へ移っても、母の御所にいたときと同じように、夜ごと好きな今様をうたっていた、というのである。このように兄の崇徳院に世話になったことを自ら承知していながら、後白河天皇は兄を前例のない遠国配流にしたのである。

 こうした実弟の冷たい仕打ちを恨んでみても、配流先の崇徳院は、もはやどうにもならないことがわかっていたから、

 今生はしそんじつ。後生菩提の為にとて、御指のさきより血をあやし、三年が間に五部大乗経を御自筆にあそばされたり。(金刀比羅本)

という行動をとった。

 

 「五部大乗経」は、天台大師智によって撰ばれた釈尊説法の究竟である大乗経典、すなわち華厳経・大集経・大品般若経・法華経・浬槃経の五部をいう。この五部大乗経の書写供養は、一切経に次ぐ莫大な功徳作善として、院政期から盛んにおこなわれた。崇徳院も「今生はしそんじ」たが、「後生菩提の為に」配流先で今生になすべき功徳作善として、五部大乗経を指から血を流しながら書写したのである。

 書き上げると実弟の仁和寺御室の覚性法親王に、

 後生菩提ノ為ニ、五部大乗経を墨ニテ如形書集(かたちのごとくかきあつめ)テ候ガ、貝鐘(かひがね)ノ音モセヌ遠国ニ捨置カン事ノ不便(ふびん)ニテ候。御免(おんゆるし)候ハバ、八幡ノ辺(あたり)ニテモ候へ、鳥羽力、サナクテハ長谷ノ辺ニテモ候へ、都ノ頭(ほとり)二送置(おくりおき)候ハバヤ。(半井本)

という手紙を書いている。

 

 八幡は石清水、鳥羽は故院(鳥羽院)の陸墓のある伏見の鳥羽、長谷は奈良県桜井市の長谷寺だが、流布本では長谷が高野山になっている。「貝鐘ノ音」の貝は法螺貝であり、寺院で用いる貝や鐘(鉦)の音もしない遠国、つまり功徳作善の仏事供養もできない配流地に、五部大乗経を「捨置カン事」は「不便(ふびん)」だから、という思いからの手紙である。

 この手紙には、

 浜千鳥あとは都へかよへども身は松山にねをのみぞなく

 という歌が添えられていた。

 

 御室(おむろ)の法親王是(これ)をみ参らせ給て、御涙を流させ給ふ。関白殿様々に執(とり)申させ給しかども、少納言入道信西、「御身は配所に留らせ給ひ、御手跡ばかり都へ返し入させ給はんこと、いま●しく覚(おぼえ)候。其上いかなる御願にてか候らん。無覚束(おぼつかなし)」と申ければ、主上、げにもとや思召(おぼしめさ)れけむ。御免(おゆるし)なかりける。(金刀比羅本)

 この記述のように、入道信西の進言で大乗経を都へ送ることを実弟から拒否されたことを知った崇徳院は、日本だけでなく外国でも、「位を争ひ国を競て、兄弟合戦」をしても、罪を謝せば「科(とが)を宥(なだめ)らるる」のに、

 「況(いわんや)出家入道して菩提の為に仏教を修読するをも皆ゆるされてありしが、後世(ごせ)の為にとて書たてまつる大乗経の敷地をだにも惜(おしま)れんには、後世迄の敵(かたき)ござんなれ。さらにをひては、我生(いき)ても無益也(むやくなり)」とて、其後は御ぐしをもめされず、御爪をもはやさせ給はず、生ながら天狗の姿にならせ給ぞ浅ましき。

であったという。

 

 「配流されたとはいえ、出家して経文を修読することはすべて許されべきである。それなのに、後世のために書いた経文の置き場所さえ惜しんで許可しないのなら、後世まで敵とみなす。そういうことなら(「さらにをひては」)、後世の菩提のために今生(こんじよう)を生きようと思ったが、そのような生き方は無益だからしない」といって、その後は髪も剃らず、爪も切らず、生きながら天狗の姿になったのは浅ましい、と金刀比羅本は書くのである。半井本も、

 「……今者(は)後世迄ノ敵ゴサンナレ。我願(ねがはく)ハ五部大乗経ノ大善根(だいぜんこん)ヲ三悪道ニ抛(なげうつ)テ、日本国ノ大悪魔ト成ラム」ト誓ハセ給テ、御舌ノ崎(さき)ヲ食切(くひきら)セ座(ましまし)テ、其血ヲ以テ御経ノ奥ニ此御誓状(このごせいじやう)ヲゾアソバシタル。其後ハ御グシモ剃ズ、御爪モ切セ給ハデ、生ナガラ天狗ノ御姿ニ成セ給(たまふ)……

と書く。

 このように生きながら天狗の姿になった崇徳院だから、『太平記』の愛宕山の大天狗太郎坊の席でも、崇徳院は特別扱いなのである。

 

 

 

 配所の崇徳上皇

 崇徳院が生きながら天狗の姿になったことは、「都へ聞(きこえ)しかば、御有様(おんありさま)み奉(たてまつり)て参(まゐ)れ」と後白河天皇は平康頼に命じたと、金刀比羅本は書く。康頼は後白河院の寵臣で保元二年(1159)9月の後白河天皇主催の法住寺今様会に列席しているが、後白河院の著者『梁塵秘抄ロ伝集』は、康頼が今様の名手であることを記している。彼は平治の乱(平治元年〔1159〕12月)のとき、後白河院が仁和寺に難を避けて秘かに脱出するさい、反乱軍の目をあざむくため院の身代りになっている『平治物語』)。このような寵臣を後白河院は配流先の兄の所へ派遣したのである。金刀比羅本は康頼が見た崇徳院について、

 御ぐし御爪なが●として、すゝけかへりたる柿の御衣に、御色黄に、御目くぼませ給ひ、痩(やせ)衰(をとろへ)させ給て、

という姿であったと書く。「柿の御衣」は天狗山伏の服装だが、このような姿で崇徳院は康頼に向かって、「あらけなき御声にて、『……敢(あへて)御許容なき間、志忍(こころざししのび)がたきあまり、不慮の行業(ぎやうごう)を企(くわだて)る也』」と言った。

 

 「不慮の行業を企る」とは、何が起こるかわからない意外な行動を考えているという意であり、反逆の意志である。そのような意志があることを弟の天皇に伝えよと、崇徳院は康頼に言ったのである。その「御気色(きしよく)、身の毛のよだち物(もの)すさまじかりければ、康頼一言をも申さず、急(いそぎ)退出して●げり」と、『保元物語』の金刀比羅本は書くが、鎌倉本は、院の呪阻の言葉を聞いて、「只今にも天狗にも成出させ給ぬと見へたり。身の毛挙立覚(よだつおぼ)えける間」とあり、生きながら天狗になった姿は、康頼と会ったときのことにしている。崇徳院は、弟と康頼が今様によって結ばれた親しい仲であることを知っていたから、康頼に後白河院を重ねて、「不慮の行業を企る也」と「あらけなき御声」にて言ったのである。そして金刀比羅本はこの記述の後に、半井本が書く「日本国ノ大悪魔ト成ラム」の誓状のことを記している。

 

 「……彼科(かのとが)を救はんと思ふ莫太(ばくたい)の行業を、併(しかしながら)三悪道に投(なげ)こみ、其力(そのちから)を以(もつて)、日本国の大魔縁(だいまえん)となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」とて、御舌のさきをくい切(きつ)て、流る血を以、大乗経の奥に、御誓状を書付(かきつけ)らる。

 天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という逆転宣言は、痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。このような宣言をかつて天皇であった崇徳院に言わせていることに、私は注目したい。だが具体的に反逆行動がおこせる状態ではなかった。「外より鎖をさし、供御(くご)参らする外は、人の出入有べからず。仰出(おおせいで)さるゝ事あらば、守護の兵士承(ひやうじうけたまは)って、目代に披露(ひろう)せよ」との厳命がなされていた。食事を運ぶ者以外、人の出入りはさしとめられており、崇徳院が言うことがあれば、その発言を兵士が聞いて目代(国司の代理人。仕国に下向しない国司の代わりに在国して執務する代官)に報告せよというのであり、これは座敷牢に閉じこめられているようなもので、「守護ノ兵士」は守護でなく牢番人であった。

 

 このような幽閉生活の配所へ、崇徳院が都にいるとき仕えていた楽人の是成が、僧侶蓮如になって訪れた。彼は御所のまわりを横笛を吹いて一夜めぐり歩き、たまたま門が開いていたので、荒れ果てた御所に入った。

  「我ハ都ニサブラヒテ、常ニ召被仕(めしつかはれ)シ伶人是成ト申者ガ、今ハ法師ニ成テ、蓮如ト申也(もうすなり)。爰(ここ)ニ侯(そうらふ)物ヲ進(まゐら)セバヤ」ト申セバ、取テ進(すすま)セタリ。歌ヲゾ読テ進セタル。

 アサクラヤ木ノマロ殿(どの)ニ入ナガラ君ニ知(しら)レデ帰ルカナシサ

 御返事ヲ給テ、月ノアカキニ拝見スレバ、

 アサクラヲ只(ただ)イタヅラニ帰(かへす)ニモツリスル海士(あま)ノネコソ泣(なか)ルレ

 蓮如、是(これ)ヲ顔二当(あ)テテ泣々(なきなき)京ニ上リケリ。

 と、半井本は書いている(金刀比羅本は蓮如を「蓮誉」と書く)。このように、かつて仕えた楽人も会うことは許されなかった。蓮如の歌の「アサクラヤ木ノマロ殿」の「アサクラヤ」は歌枕で、斉明天皇の朝倉宮の「アサクラ」だが、朝倉宮が粗末な丸木造りの御殿だったので、粗末な御殿(木の丸殿)の枕詞になったのである。蓮如の歌は、「院のおられます丸木造りの御所に入りながら、君にお目にかかることもできず帰るのは悲しい」という意である。崇徳院の返歌は、「朝倉にもたとうべき家におとづれてくれたのに、会うことも出来ず空(むな)しく帰してしまう心は、海土(あま)のうきのように揺れ動いており、海士の地でただ泣くばかりである」の意である。崇徳院の仮御所は阿野郡松山の海土庄にあったとみられるから、「海士」には地名もかけられている。

 

 このような幽閉状態の崇徳院にとって、王権への反逆は、自らを生きながら天狗・大悪魔にすることしかなかったのである。