ダライ・ラマ「ネイチャー・メッセージ」

京都精華大学 環境社会学科


講演「人間と自然性」

ここではっきりさせておきましょう。私たちは同じ人間です。私はただの人間です。他の人々──ブッダの教えに従っている──人にすぎません。普通の人間のひとりです。特別でも、稀でもありません。そして私が思うに、人間は誰でも同じ可能性を持っています。みんなよき人間、成功する人間、幸な人間になる同じ可能性を持っています。われわれはみんなこの同じ可能性を持っているのです。

今日は「人間の自然性」という主題だと聞いています。

そしてわれわれ人間──人類というものは、社会性をそなえている生き物のひとつだと思います。社会性を持っていることが何を意味するかというとお互いに頼りあっているということです。そういう社会性を持っているのがわれわれ人間、人類だと考えます。

たとえばハチミツをつくっている蜂。彼らはみな一所懸命働いています。だけれどその蜂たちには法律もなければ、教育というようなこともありません。そういう社会的な規則は別にないけれども蜂たちはみんな一所懸命集まって働いているわけです。みんな集団性を持てば生きていけるということを自然に知っているので、そうしているのです。

歴史を遡れば、ずっーと昔の人間もひとつの集団になって社会生活することを非常に意義があると考えていたし、それを重視していたことが分かります。そして歴史の過程において、歴史が流れれば流れるほどわれわれ人間は集団生活ということを重んずることなく、それぞれが自分勝手に私はこういうことをやりたい、こういうことをしたいという考えを持ちはじめました。そして集団性という考えがだんだんだんだん薄れてきたような気がします。

そのように歴史をみてみますと、例えばいろんな新しいシステム──経済的なシステムなどがだんだん出てきます。するとわれわれは経済的に独立しようと思いはじめました。そして自分ひとりの考えで生き方を求めるようになり、祖先が持っていた集団性への敬いやわれわれが生きていくにはお互いが必要であるという価値観がだんだん薄れてきて、自分ひとりで孤立するというような現象がおきてきます。

そういう──私はこれがほしい、私はこういうことがしたいとひとりひとりが孤立していくようなシステムや社会になってくるという──現象のなかでは、自分が幸福になりたいとか自分ばかりを強調して、相手の必要なものを考えることや自分に必要なこととおなじことが相手にも必要だという考えが薄れ、私さえよければいいという考えになりがちにみえます。そうなってくるとだんだん自分自身の身体に直接痛みを感じない限り相手の問題などには目を向けない、自分さえよければ他はどうでもいい、ということにもなってきます。

そのような価値観なり考えになると、慈悲とか愛とかとは全然関係がなくなってしまうような感じがします。自分がなにかしてほしいということがあれば一所懸命にごまを擦ってでもそれを手に入れようとしたり、自分に利益がないと相手には見向きもしないという考え方、人間性になってきたりします。そうなれば、自分ひとりだけではなくて家庭の中や社会の中にもそのような環境が見出されるようになってきます。あるいは親と子の間にもそのような問題がでてきます。

そしてそのような考え方や態度によって利己主義になってくると、慈悲とか愛情とかは大したことがないと思うようになります。どんな方法でも今自分に得るものがあればそれでいい、愛情とか慈悲とかはきれいごとなんだと思うようになる。そのような考え方になってしまうということです。

そう考えると、たとえば農業をやっている方が昔の農業の仕方──自分たちが直接その畑と土と関係を持ち、自分たち自身の力で一所懸命働く──つまり自然と接するということを止め、工業化・機械化によって機械を利用してそれに任せていろんなことをおこなうようなことになると本当の自然とかけ離れてきます。そうすると人間の自然との接し方も機械的になってきて、密接な関係ではなく、機械に接する時のように人間としての気持ちも機械的になってきます。

これは水に対する考え方でも説明することができます。自分でこつこつと一所懸命畑を耕している人間がいれば、その人は水は非常に大切なものだという強い意識、認識を持っていると思います。それに対して常に大きなホテルのなかに泊まっているような人間は蛇口をひねれば水がでてきますから、水に対しての意識は先に話したお百姓さんとは違ってくると思います。その人はきっと水の大切さというものをそんなに感じないでしょう。

もちろん機械科学は人間に非常に裕福な生活や楽な環境を与えてくれたのですが、それと同時に今言ったような人間の本性が変わってくる。人間性のところから狂ってきます。テクノロジーと科学というものがあれば、人間はなんでもできると思うようになる。われわれが働きかければ自然をどうにでもできるという間違った方向に進んでしまう恐れがあります。

究極的にはわれわれ人間も自然のなかの一部です。自然に依存して生きていく知恵を学ばなければなりません。個人的な自由ということは非常に大事です。個人的な自由がなければ新しい発想も出てこないし、人間の本当の可能性というのは見出すことができません。しかし自分の──個人の自由だけを大事にして、他の自由を忘れるのはいけないことです。

科学とテクノロジーは非常に大切なものです。しかしそれだけというのはいけないことなのです。われわれ人間はただ身体があるのではなくて、身体があるゆえにわれわれは感じる。感受性があり、体験することができる。そして知ることができるのです。われわれのなかの一部分は機械でつくることができるかもしれません。しかしわれわれの脳を機械でつくることができるかどうかは非常に疑問です。特に人間の意識というものを機械でつくることはたぶんできないでしょう。

われわれ人間には幸福を得たい、不幸は得たくないという身体があり、それと同時にそういう心があります。身体を満足させることは機械で十分できます。たとえば、食事をしたり、楽な椅子に座ったり、着易い着物を着たり。物質的には機械や科学的な力でなんでもつくることができます。そういうふうにわれわれの身体だけを快楽で満たし、幸福にするだけでいいかというとそれだけでは足りません。心の平安──心の快楽を機械でつくることはできません。例えばスーパーへ行って心の平安を買うというようなことはできません。しかしながらわれわれは心の平安が欲しい。心のやすらぎを求めています。そしてわれわれは日々そのことについて話していますね。

非常に心地よくすばらしい椅子に座ったりベッドの上にずっと寝て休んでいても、われわれは自分の心に安らぎがないと心の平安を感じません。またいくらおいしいものがまわりにあっても自分の気持ちが乱れて非常に興奮している時にはいやな感じをうけたりもします。しかしそれと逆に自分の身体の具合がある程度悪くても心の安らぎがあれば安らぎをかんじます。われわれは心の安らぎを求めるためにある程度身体の痛みをともなっても前進することができます。ですからわれわれの身体の快楽・幸福というものは大変大事ですが、それ以上に心の平安が大事です。

心の平安というものはただぼーっとしている状態をいうのではありません。その状態を幸福とはいえません。快楽や幸福はぼーっとしているときにかんじるものではなくて、意識がはっきりとあり、自分である目的にむかってよく考え観察することで目的を達成するまたはそのことについて達成感を持つときにかんじるものです。そういう結果を認識している時にかんじる満足感は幸福とかんじられます。

心というものは自分の身体の健康にも非常に影響力があります。最近は科学的に解明された医学においても身体と心の関係について非常にたくさんのことがいわれています。心に安らぎがなく、心が重苦しくなれば、疑いが生じたり、心のなかに恐れや怒り、不安を生じたりします。

われわれ人間がお互いに親近感を持つということは非常に大事です。子どもが生まれた時からお母さんに抱きついてくるということはその子どもに教えたりしたわけではありません。自然にそういうふうにでてくるのです。

科学的な研究でも胎内にいるときから子どもに多くのことが伝わっていると言っています。お母さんと子どものあいだを愛情で結ぶそういうかたちがお母さんのお腹にいるときから自然にあるということは、人間が互いに親近感をもつ要素があり、その可能性を持っているという証拠です。こういう時には宗教は無関係です。信仰心をもっているかは全く関係ありません。これは自然にできているものです。信仰心とか宗教とかいうものはそのずっと後にでてくるのです。

そういう意味で生まれたての赤ん坊とお母さんが持つような関係性は非常に大事です。われわれ人間が生活して死ぬまでの間、本当に一番大切なことです。信仰心をもつかどうかということは自分の自由です。宗教心はなくてもお互いの人間を思いやることがあれば完璧に幸せな生活を送ることはできます。お互いの人間を思いやるということがなかったら、人生は幸福ではないのです。しかし日本のような近代化された社会のなかでは、もともとわれわれに備えられている人間性というものが機械文明によってだんだん薄れてきています。

結論的としては人間性の根本はおもいやり、やさしさであると信じます。人に対する思いやり、やさしさ、いたわりの心というものを持ってこの人生を過ごしたなら、私たちはみな幸せな人生を送るでしょう。それによって自分の心の中も平穏なままこの人生を過ごしていくことができるはずです。


原本作成日:2000.05.09; 最終更新:2003.05.20;
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