公共財管理と地域の人びと

 

 

 公共財を土地の人々が支える……それに必要な技術となると、「伝統技術」ということになるであろう。公共財を守る主役が地域だとすれば、それを補佐する脇役「伝統技術」を大事にしていかなければならない。それには日本の歴史に培われた「タマ」を信じ、「陰に埋もれている技術」に目を向けることである。

 私の新技術論は、「立たせない力」、「陰の技術」、「伝統技術」、あるいは「心を鼓舞する祭り」を見直すことに尽きるのだが、かといって商業主義や功利主義と結びついた技術開発を否定しているわけではない。河川の技術においても、機械化が進み、コンクリートのプレキャスト化が進んで、工事のスピードアップとコストダウンが図られている。ダムや橋梁なども建設業者の施工技術のめざましい進歩があったからこそ大規模建設も可能になった。水門や堰などの構造物もそうだ。現在の建設技術は建設業者の技術の賜物といっても過言ではない。

 しかし、一方で伝統技術はほとんど消え去ってしまった。昔は堤防を作るときに「人柱(ひとばしら)」を立てたり、祭りをしたり、民衆の魂が堤防にこもっていた。ところが現代の建設業者の建設技術はたしかに立派だが、いったん出来あがれば作りっぱなしで、堤防に対する愛情なんてまったく感じられない。やや言い過ぎの感もあるが、実態はそれほど違ってはいないだろう。そこで私が提起したいのは、公共財の管理をPFIでやればそのような問題が解決できるのではないかということだ。

 公共財管理の責任はいうまでもなく行政にある。

 しかし、陰の立て役者というか「後戸(うしろど)の神」は、水防団をはじめ、地域のNPOでないのか。私は、「公共財というのは土地の人々が支えていく回路である」という「大畑原則」の理念を大前提とすべきであると思う。だとすれば、水防団なりNPOをどうやって作っていくか? それがいちばんの悩みなのだが、ここで地元の建設業者の出番となる。 

 

  先に述べた「9805台風に伴う青森県大畑川の洪水記録」は、多くの示唆を私たち河川技術者に与えてくれるが、私がもうひとつ注目すべきと考えている点は、あの災害の主たる原因が山の荒廃にあるということだ。これは近代治山技術の敗北であり、ひいては近代科学文明の敗北を物語るものではないか。

 林業技術が商業主義ないし功利主義を背景に、皆伐方式ないし準皆伐方式を前提に成立していることがまず大問題である。よしんばそれを横においても、木材の搬出方法に問題がある。外材と競争するには、できるだけ人手のかからない搬出方法をとらざるを得ないため、林道が作られるのが通例である。林道が必要だとしても、これに起因する災害発生は絶対に避けなればならない。

 ところが、前記の「大畑川の洪水記録」によれば、林道建設に起因する土砂崩れが多く、それが大災害発生の引き金になっている。機械化が進み、技術が進んで便利になればなるほど、それに伴う悪影響も大きくなる。しかし、商業主義というものがそこに介在する限り、その悪影響に目をつぶることになりかねない。こと林道については、欲得が災いし、充分な対策が講じられない・・・そういうことが実に多いのである。山の管理もきめ細かく心の隠った管理をしなければならない。心の荒廃は山の荒廃に繋がり国の荒廃に繋がる。

 

 今日の社会は、物があふれ、物の増殖がいよいよ勢いを増しているために、「礼」や「祈り」、「心」や「魂」といったものがわが国ではもはや陰が薄くなっている。  今こそ魂のこもった技術を礼賛するときではなかろうか。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」ではないけれど、そういう陰翳の技術、タマシイの技術、鎮魂の技術にあらためて光を当て、目を凝らさなければならない。それをなし得るのは、商業主義を超えたところにあるNPOであろう。地域における公共サービスの部門、地域における公共インフラの部門にNPOが介在することによって、「モノとの同盟」が可能となる。 「劇場国家にっぽん」において、今後シビル・エンジニアリング(土木)は、その原点に立ち返らなければならないし、その意味でも地域における建設業の大いなる変身に期待するところ大である。

 これからの建設産業は、地域のサービス産業に変身して、シビル・エンジアリングとして大いなる発展をすべきだというのが私の一応の結論である。建設産業は今後、大いに町づくり型PFIに参画して、NPOとの連繋を図らなければならない。公共財は、河川や森林だけではない。

 21世紀の世界交流を考えるとき、公共財事業の目玉は「モノづくり博物館」であろう。シビル・エンジニアリングとしての建設産業は、この博物館で最先端の技術と伝統技術のハーモニー(調和)を世界の人々に判りやすく見せなければならない。

 地域全体が「モノづくり博物館」として、さまざまな道具立てで、いろんな仕掛けを構じなければならない。公共財管理の現場もそれはそれで「モノづくり博物館」だが、ともかく地域全体が「モノづくり博物館」であるという考え方が重要だ。さて、舞台装置をどうするのか。演し物はどうするのか。そこが「劇場国家にっぽん」の見せどころとなろう。野菜づくりに森づくり。尺八づくりに川づくり。むろん祭りも技術のうち、大胆な技術開発が必要である。新しい多種多様な祭りを、新しい技術のもとでいろいろと考案しなければならない。祭りのためにいろんな仕掛けとモノを作らなければならない。

 そして、全国いたるところに「響きあいの場所」があり、全国いたるところに豊かな博物館があるようにしなければならない。これが「劇場国家にっぽん」の姿(かたち)であり、21世紀におけるリーディング産業のあるべき姿であろう。そしてその担い手は、現在の建設産業をおいてほかにない。それは地域のサービス産業であると同時に、ビジター産業でもあるのだ。したがって私は、なんとしても建設産業をわが国のリーディング産業に育てなければならないと思っている。

 

 「立たせる力」と「立たせない力」。「光の技術」と「陰の技術」。公共財を土地の人々が支える……その技術とはいうまでもなく「伝統技術」である。公共財を守る主役が地域だとすれば、とりわけ伝統技術を大事にしなければならない。これを大事にするということは、「立たせる力」や「光り輝く先端技術」に目を奪われることなく、「立たせない力」というものを信じ、「タマ」を信じ、「陰に埋もれている技術」にも目を向けることである。 

 この先あるべき新技術というのは、科学万能に頼る「立たせる力」によって貪欲に開発される技術に対峙した、環境面からの充分なチェックと対策が講じられたものでなければならない。「立たせる力」と「立たせない力」とのバランスが大事なのである。商業主義に対しては、安全面や環境面からの充分なチェックと対策が講ぜられるよう、地域の厳しい規制が不可欠となる。

 すなわち「立たせない力」とは、「立たせる力」の行きすぎを是正する力である。 科学技術の進歩にひたすら邁進するものに、ブレーキをかけるものである。

 それは、「回帰する力」と言ってもいい。われわれ人類の進化のプロセスを顧みて、真に棲みやすい場に回帰しようとする力である。

 伝統文化を懐かしみ、豊かな自然に回帰しようとする力である。形状記憶合金のように、宇宙の「タマ」がそうなさしめるのではないか。水が循環するように、この宇宙には循環する力、回帰する力がある。

 私は、科学文明の行きすぎを是正する「立たせない力」が必ず働くことを信じて、伝統技術を大切にし、「大畑原則」に見られるような地域における知恵を大切にしていきたいと思っている。

 

註:以上は、最近上梓(じょうし)した拙著「劇場国家にっぽん」の中の一節ですが、私は、この一冊に、私の地域づくりのビジョンを掲げ、日本再生のヒントを挙げてみました。歴史のなかで光明を発する日本民族の魂と知恵。その魅力を紹介することが、日本の未来を切り拓くヒントになる、という衝動に駆られて筆をとりました。今こそ日本民族の魂と知恵の源泉をさぐり、この国のありようを検索すべきとき・・・・その思いに衝き動かされて筆をとった次第であります。この先、日本はどうなるのか? 日本人は何をなすべきか? 見えない未来に光を投げかけるのは、実は、歴史に埋もれた日本民族の魂と知恵ではないだろうか?

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