川のキーパーソン

 

TALK&INTERVIEW
 第2回 「関東の川のキーパーソン:大野重男氏に聞く」


大野さんは日本の川べりを、前代未聞の三次元空間に変えつつある。モンゴルとの草の根交流の功労者でもある彼がやることなすことを、私は何か得体のしれない新しい試みとして注目している ― 岩井國臣 ―
大野さん

【大野重男(おおの しげお)氏/プロフィール】
ニックネームはリジチョウ(ジジチョウと聞こえることもある)。1934年北海道十勝池田町生まれ。8年間の警視庁少年課勤務を経て、昭和40年青年少年教育団体「ハーモニィセンター」を創設。昭和51年財団法人ハーモニィセンター理事長に就任。小貝川三次元プロジェクトの推進者。川に学ぶ体験活動協議会(RAC)代表理事。日本語学校やモンゴル文化教育大学の創設などの功績によりモンゴル大統領から「国際平和功労勲章」を受賞。

番外編へ!「モンゴルとの交流裏話」にせまる 

 

それは川遊びから始まった

──はじめに、大野さんが川と関わるようになったきっかけを伺いたいのですが。

■大野: 川と関わることになったのは、子どものときからです。僕は生まれ育ったのが北海道の十勝平野の真ん中で、ちょうど北見の方から流れてくる利別 川と十勝川の合流地点に池田町というのがあって、子どものときは本当に毎日のようにそこで遊んだのが川との関わりの始まりです。今、元気でいられるのも、そういう子ども時代が自分にあったからだったなと思います。

 それから、僕の仕事が青少年教育ということで、学校外活動で子どもたちを自然の中に連れ出して、自分が思う存分子ども時代にやったような、そんな子ども時代を首都圏に住む子どもたちにも、という思いがありましたから、海に山に子どもたちを連れ出して行ったときに、川があれば思い切り一緒になって遊んでいたというのが、二つ目の関わりです。三つ目というのは、川は危ないから来ちゃダメだとか、汚いから、危ないからということで、なかなか窮屈だったんだけど、NPO法人地域交流センターの田中栄治さんが僕に教えてくれたんです。「大野さん、これからは川に子どもたちの賑わいをもう一度取り戻そうというふうに変わったよ。知ってるの? 知らないの?」と。「なんで、そういうふうに変わったの?」と聞いたら、「河川法が変わって今、そういうふうになったんだよ」と。それが、最近の川とのふれあいのきっかけでした。子ども時代は川で遊んでいたわけですから、そういうことが思う存分できる、いい時代になったんだと思いました。
NPO法人 地域交流センター


川からの招待状


 (財)ハーモニィセンターの場合は、川べりでの拠点というのは持っていなかったのですが、どうせだったら「川はいい」と言っているだけではなくて、その傍に自分たち自身の活動拠点があって、そこで思う存分できればいいなと思ったところ、元国土交通 省国土技術政策総合研究所の吉川勝秀さん(慶応義塾大学院特別 研究教授・(財)リバーフロント整備センター部長・工学博士)が「昔、仕事をしていた茨城県の藤代町(現・取手市)にはいい人がたくさんいるし、川も素晴らしいし、大野さん、行ってみない?」と、話しかけてくれました。翌日、案内してくれたんです。真岡の前市長の菊池さんとか、ここ藤代町役場(現取手市役所)の塚本さんとか飯泉さんに会わせていただいて、この人たちと一緒だったらきっと何か新しいことができるという確信を持ったのが最近の、ここ7年くらいの一番新しい川との関わりです。

「川からの都市再生」吉川勝秀(pdfファイル)


ハーモニィーセンターと小貝川プロジェクト21


──今、お話の出たハーモニィセンターですが、大野さんが警視庁勤務後、昭和40年に創設されたと伺っています。このきっかけは何ですか?

■大野: 僕は学生時代から子ども会をやっていたんです。それで大学に入ってからも、それがずっと続いていて、自分のライフワークというのは、こういう世界で自分の持ち味を活かすことなのかなぁと、ずっと思っていました。子ども会をやっている中で、いろんな子どもたちがいるということがわかっていましたから、自分の力で手助けをさせてもらえるような、子どもたちの世界で活躍したいという思いが、自然に僕の心の中に芽生えていました。僕が大学を卒業したときは、ものすごい就職難の時代だったんです。普通 の会社とかには就職口がなかったし、自分でやる力もなかった。それで、東京都の地方公務員試験を受けて、警視庁の少年課に配属して欲しいということを希望したんです。もし、そこで配属が決まらなかったら、僕はやる気持ちはなかったんだけれども、いい塩梅に願いが叶ったんです。で、一生懸命仕事をしてました。

 そのうちに、これは役所の力だけでは様々な問題の解決にはならないということがだんだんわかってきました。一生懸命やるうちに、自分はここでずっとやっているのがいいのか、もうちょっと別 のやり方があるんじゃないかということもわかってきて、勤めの傍らの土日、ここぞというところに友達とか先輩とか後輩たちを連れて行って、子どもたちと遊びまくるグループをこしらえたわけです。はじめのうちは警視庁の仕事の傍ら、そうした活動をやっていたんだけれど、気がついてみたら、そういう活動の傍ら警視庁に勤めているというふうに変わってきたので「傍ら」を辞めたんです。僕は警察官じゃなくて一般 職員として企画とか統計とか、そういう仕事をしていたんですが、8年間勤めて、仕事の傍らやっていたのが、本命になっちゃって今日に至っているということです。

財団法人ハーモニィセンター
ハーモニィセンターの歴史


──その後、藤代町で取り組まれた「小貝川プロジェクト21」のことをもう少し詳しく教えていただけますか。

■大野: 河川法が改正になって、「治水・利水」から「環境」というのが入って、流域の人たちが365日川と付き合って、本当に良かったと思うような河川管理をしましょうというようになったわけです。僕は、大勢の人たちがもっともっと川に親しむことで、川の管理や整備等が滞ることなく進むだろうし、川にまつわる歴史とか、そこに息づいた人たちのいろんな話を聞いたりして、子どもたちの世界も変わってくるのは間違いないと思っていました。僕は子ども会なんかをやっていましたから、川が素晴らしい空間だということは良くわかっていたんです。

小貝川
▲小貝川
 「水辺の賑わいを取り戻す」といっても、ただ「おいで」と言っても来てくれないのは、わかっていますから、水辺、河川敷、その上に広がる空、それぞれの空間に、そこに行きたいなと思われるような賑わいの「核」を厳選して備えながら、それを上手に活かす人を配置してやっていこうという作戦でした。ですから、今まで例のなかったような活動を、川をフィールドにして僕たちはやっていたんです。

 今の世の中は、自分だけで何でも自己完結できるという時代ではないですから、自己完結型でやるということは、最初から自分に足かせをして進んでいくようなものです。だから、自分たちでできることは精一杯やり、できないところはそれぞれの人たちの力を借りて、そういう力をうまくつなぎ合わせてやることで、僕は成功すると思っていました。吉川さんのおかげで、飯泉さんや塚本さんと知り合いになれましたから、この人たちとだったらできるという、本当にうれしい出会いでした。その上、川があったでしょう?我々は民間なんだけれども、藤代町という自治体も町長はじめ、実行委員会に加わってくださっていたし、国の出先機関、県の出先機関の人たちも、一緒に実行委員会の中に加わって、最初の社会実験の二年間が進んでいったわけです。

 ここのすごさは、社会実験の連続をやるというのではなくて、最初から「常設をするための社会実験をしよう」としていたことで、非常に良かったですね。それが藤代での小貝川べりでの一番の成功の要ではなかったかなと思っています。

NPO法人 小貝川三次元プロジェクト
(2004年3月「ふじしろ・三次元プロジェクト」から改称)


川という財産を生かせる人たち

──「この人たちとだったらできる」と思われた、大野さんの見極めというか、どういうポイントがあったのですか?

■大野: 小貝川というのは昔から有名な洪水の町でした。何かというと洪水で、また小貝川が水浸しになっているというようなことでした。もう一つは、堤防の下が粗大ゴミから生ゴミまで、ゴミ捨て場みたいになっていたんです。そういうところを歩いても、臭いがあったり、危なかったりして、川辺で優雅に散歩するなんていう話どころではなかったんです。それで、このままで藤代はいいのか、町のイメージをもう少し明るいものにしていきたい。川という非常に優れたいい財産があるんだからそれを活かして新しい藤代の川を作っていきたいとと考えた人たちが、、ゴミを自分たちで撤去したんです。もうすごかったみたいです。ガラスの破片から、粗大ゴミから、生ゴミから何から、たくさん。それをみんなで、といっても、せいぜい7、8人だったと思いますが、誰かから言われたわけでもなくて、一念発起してやり始めた人たちがいた。そして、そのゴミを撤去した後は、川べりにもう一つの川を作ろう「花の運河」と言って、花を植えようということになり、自分たちでお金を出しあって、耕したり、種をまいたり、草むしりをしたりしながら、何年も何年も育てていって、フラワーカナルというのをやり遂げたのです。

フラワーカナル
▲フラワーカナル
 役所の予算があったからやったわけではないし、むしろ余計なことをしないでくれと言われたのを跳ね返しながら、やらせてくださいと言って、身銭を切って時間をかけながら、汗を出しながらやっている。僕が知ったときは既に14、5年経っていましたから、こういう人がいるんだったら大丈夫だと。フラワーカナルをずっとやっていたまちづくり協議会の人たちの努力に触れたことです。それも、核になっている人たちというのは、ほんの数人。その核に触れたというのが良かった。核の周りには、「あの人がいるんだから草むしりを一緒に手伝いたい」とか「声をかけられたら手助けをしたい」という人たちがいるわけだけれども、そもそも核になった人たちというのが、手伝ってくださいとか何とかではなくて、自分でも仕事を放り投げてでもやるという、そういう気持ちですから、そうした心根が新しいもの育てていく。この方々だったらできるという気持ちでした。
Kanto River Scope「小貝川」(国土交通省 関東地方整備局河川部WEBサイト内)
取手市 フラワーカナル(国土交通省 下館河川事務所WEBサイト内)


イベントと常設のちがい

──川のおじさんも色々な所を見てきましたが、「非常に心に残っている」ところの一つに「小貝川プロジェクト21」を上げています。また、「やはりこういうの場を全国にもっと増やしたほうがいい、こういう場が必要なんじゃないか」とも言っています。そこで、大野さんから見た現状と今後の展望をお聞かせください。


■大野: それはうれしいです。ここ藤代の活動の特色というのはあるんですが、日本中、北海道から九州まで非常に優れた活動をしている先輩たちの動きがたくさんあるんです。僕もそれを学ばせていただいて、必死になってやっている人たちを心から尊敬しています。しかし残念なことに、ほとんどがイベントなんです。夏だけとか冬だけとか、春休みだけとか、休みの日だけとか、土日だけというんだけれども、川べりでの教育機能というのは、これはやっぱりイベントの連続だけでは、もったいないんです。

 イベントというのは、デパートで言えば、食品の試食販売みたいなものです。こんなにおいしいものが、こんなに身体のためになるものができましたとか、新しく開発されましたとかいって試食してもらって、お客さんもいいなと思う。でもそれだけで終わってしまうんです。そうではなくて、本当にいいものだったら、やっぱりメインディッシュにしないといけないんですね。活動のメインディッシュというのは、イベントではなくて常設です。「イベントから常設へ」が決め手になるんです。


日本中の川べりの常識を変える


 藤代の場合は、最初から常設を目指す社会実験から始まりました。そして、川べりでの活動というのはどちらかというと、子どもだけとか、大人だけが夢中になっているとか、そういう傾向があるんです。しかし、フィールドというのは、子どもから高齢者まで受け入れられるでっかい容れ物だし、健常者も障害者も一緒になってやれるフィールドでもあるんです。年齢も関係ない、男女も関係ない。子どもから高齢者まで、車椅子の人も健常者の人も、みんな一緒になって、いつ来ても、誰か待っててくれる人がいて、いろんなワクワクする道具立てがそろっている。しかも、これがものすごい考えられないくらいの経費で行われているというところがミソなんです。だから、これは先ほど申し上げたように、役場だけの力でもできないし、民間の実行委員会からNPOになった、そういうことだけでもできないと思います。これは、財団法人のハーモニィセンターだけでもできないんです。

 ハーモニィセンターやNPOもその中に入っているわけですが、それ以外の役場や自治体の力や、国のいろんな出先機関の力とか、そうした力を寄せ合い気持ちよくやれる、ということならば、藤代のようなことができるわけです。だから、僕は「社会実験から常設へ」といったんです。「藤代は三次元」というのは、水辺と陸地と空の空間を子どもから高齢者まで、健常者も障害者も、それから何時に来てもかまわないということなんです。この藤代での様子を日本中の川べりの常識にしたい、と僕は思っています。それからさらに、ここはまだ常設といっても、まだ僕は足りないと思っているんです。その次はどういうことになるかというと、川べりをもっている我々の教育力を、しっかりした教育としてカウントされるシステムにしたいと思っているわけです。
大野さん自身が語る三次元プロジェクト「小貝川からのおたより」


川べりの人たちの教育力

 北海道から九州まで、リバースクールや川の達人の会とか、いろんなことをやりながら指導者養成などをやっているわけです。それに、最近の総合学習で一番利用されているフィールドというのは川なんです。そこに講師に来てくださいと言われて、出先の事務所の人たちが行ったりするなんていうのはしょっちゅうです。そこで行われている教育プログラムというのは、小学校や中学校でやる理科とか社会の勉強よりもはるかにレベルが高いわけです、本当に。しかし、それはしっかりした教育にはカウントされていないんです。総合学習の一部分、先生方をちょっと手助けしたみたいな話なわけです。もし我々が学校教育が持っているような力(システム)を持つとしたら、塾、学校外活動、学校の勉強と、三つ合わせたことが、ここでできてしまうんです。

小貝川でEボート
▲小貝川でEボート!

 今、文部科学省だけが教育の専門機関だなんていわれてますが、実は各省庁みんな教育機関をもっているわけです。防衛庁は防衛大学校というのを持っているし、国土交通 省や農林水産省にも大学校がある。だから、僕らの活動が付属小学校や高校を持ってはいけないという理由はありません。僕は、今一番活き活きとした教育活動をしているのは、川べりでやっている人たちの教育力だと思っているんです。子どもたちを元気づける教育だと。だから、僕たちが考えているのは、正規の学校に遠慮するのではなく、小貝川ポニー牧場付属小学校とか、そういうのを作ってもいいんじゃないかということです。こういうフィールドで思う存分遊べるし、しっかりした勉強も教えてもらえる、となれば、学校外活動で塾に通 うこともありません。ここで思い切りやりながら、ちゃんと学校を卒業したことにもなる、といった新しい教育システムを考えるようになってくると、このレベルまで川べりでの活動を進化させていくのが、僕らの次のステップというか、夢なんです。

これが、大野式教育システム

 今は、学校には校舎やグランドがないといけないんです。何も校舎だけで教育するわけではないんです。空き教室はたくさんありますから貸してもらえばいい。そして、川べりに住んでいる子どもたちだからといって、一生小貝川の周りから一歩も出なかったなんてことはないんで、日本は北海道から沖縄まですごい自然や四季の変化に富んだところがあるわけですから、入学式は北海道でやったけれど卒業は鹿児島だったよ、っていうようなことで構わないと思うんです。移動教室みたいなもので。

 たとえば、子どもたちが政治の勉強をするなら、東京に行ってオリンピックセンターなどに泊まって一流の政治家に教えてもらう。呼ぶと時間や費用が大変だから、教わりたい人のところに子どもたちが行って教えてもらうわけです。雪の勉強をしたいときには、こんな暑い所で雪のパネルを見たりなんかしてやることはありません。一定の期間雪国で過ごしてくればいいんです。単なる社会科見学ではなくて、そこに腰を据えてやる。日本にはどんなに寒く、気温が下がるところがあるか。北海道の陸別 か旭川のほうに連れて行って、それこそもう、「しばれる」というのはこんな感じだというのを体験させればいいんじゃないでしょうか。

 今、東京の大田区とか品川区とかは、学区を地区で決めるんじゃなくて親に選ばせています。あの校長先生のところに通 わせたいとかで選べるようになっているわけですが、我々の考えは違っていて、学校は日本全国オープンにしてしまう。たとえば東京都の中学生には都が百何十万か出していて、それを区が学校に配分しているんですが、そうではなくて、百何十万かを中学生の親と子に渡しちゃう。バウチャー制度ってクーポン制度なんですけど、それを自分の好きなところに持って行く。ダメな学校が潰れるわけです。

 今は、教育基本法で規定した特定の法人などでないと学校は設立できないことになっています。けれど、新しい教育基本法について様々な案が出ている中では、本当にやる気のある人に学校を作らせようとしているんです。例えば、今まで東京都が中学生に出していた百万円を親に出し、行くのは公立でも私立でもミニスクールでも構わない。自分の好きなところに持って行きなさいと。百万円持っている子どもたちが親と相談して、私はあそこに行きたいとか、小貝川のポニー牧場付属小学校に行きたいといって、二百人もそこに集まれば、二億円の予算が、そこにできます。校舎なんかは空いているところや、閉鎖になってしまった学校はたくさんあるわけですから、それを一時的に使う。そして、どこかに行く、ここに行くというようにしていけば、あとは移動の経費だけだからそう難しいことではありません。それにいろんなことができる。大きなバス会社と連携して、迎えに行く空バスを使わせてもらいながら、いろいろローテーションを組みながら考えていくと、それは目の覚めるような、おもしろいシステムができるんじゃないかと思うんです。

 全国には、リバーマスタースクールの初級・中級をやっていたところだとか、北海道ではかわ塾とかがあるわけです。そういう人たちが自分たちできちんと卒業証書を出せるような、学校設立の自由ということが教育基本法に書かれて、バウチャー制度と結びつけば可能なんです。それは、来年からすぐというわけにはいきませんけれど、藤代での活動が日本中の川べりの常識になり、イベントから常設へと行った次には、もっと本格的なそういうシステムになって、日本全部のそういう活動がネットワークになって、一つのものすごいネット状の学校になるかもしれません。参議院みたいな、全国区になるわけです。

学校の全国チェーン!

──確かに今後の学校のあり方や世の中のあり方もどんどん変革していかないといけない時だと思うのですが、これを具体的にどのように実践していくかが、これからの課題ではないのでしょうか?

■大野: これはやり方があるんです。たとえば、図書館や理科実験室はどうするの?とか、体育館は無くていいのかとか、そんなのは借りればいいんです。今までの学校は、学校であっていいんです。しかし、全国の川べりでやっている人たちそれぞれがミニスクールみたいなものを持ったとしたら、それをネットにして優れた人たちや先生を確保しながら、お互いにやっていく。学区も今まで通 りあるんだから、藤代小学校とかがあって、毎日そこに通う子どもたちがいてもいいわけです。

 僕たちがそういう学校とどういう関係を結ぶかというと、町医者と大病院みたいな格好です。空き教室もあるわけですから、そこを貸していただいたりして、学校に通 っている子どもたちが使わないような時間に図書室を利用させてもらう。それは、県立図書館だって、町の図書館だって構わないんです。理科実験で学校の理科室が空いているときはこちらが貸してもらう、あるいは、一緒になって合同でやったりしてもいいですし。そういう容れ物さえできたら、僕たちはモンゴルからもインドネシアからでも、いろんなところから小中学生の留学生だって受け入れられるんです。

 僕がもう一つイメージをしているのは、子どもが動いているところへ大人もくっついていきますから、都市のど真ん中では学校は不向きだから大抵中都市とか田舎のほうに行くでしょう?それで、それぞれの土地の人に可愛がってもらいながらやるわけですから、地域と親とのつながりだってできてきますから。それこそ、川のおじさんが言うところの「顔の見える交流」が子どもをダシにしてできる。たとえば子どもが学校に入ったらPTAに入るでしょう?そのPTAで仲良くなったとかいうのがあります。それをもっと広い範囲で日本中全体をフィールドにして、新しい動きが出てくるんじゃないかと思っているんです。

 だから僕は、北海道の荒関岩雄さん(NPO法人水環境北海道)のところでも一緒にやりましょう、僕はここでもやるし、と言っています。たくさんあるんです。そういうところが何箇所も。同時に旗揚げしながらやると可能性はあります。それをまず常設化し、三次元でやりながら、なんでチェーン店みたいなのをやるかというとね。そこを学校に切り替えるためには、ある程度の共通 の基準が必要になってくるでしょう? だから僕たち自身で、日本政府が考えたりOECDみたいな人たちが考えている学力のレベルよりももうちょっと高いところにレベルを設定して、しっかりやれる教師を雇って、マニフェストじゃないけれど、これは必ず達成しますと約束して、これをやらなければ授業料を返しちゃう。それに我々の学校というのは何も8時半から始まらなくてもいいし、朝のうちからやるかもしれないです。全寮制というところもあるし、子どもにとって家と近いところだったら家から通 えばいいわけですから。そうしたいろんなパターンでやっていくとおもしろいことになると思うんです。子どもたちの単位 制みたいな学校です。だから、入学式/桜咲く/ランドセル背負って/入学式をやって/そこで六年間やって/卒業式をやりましたという昔のパターンの学校とはちょっと違う。それができるのは、やっぱり川べりだと僕は思っているんです。僕がその確信を持ったのは藤代に来て、今四年半になるんですが、ますますその思いを深めているんです。


馬を語る


──川のおじさんもここを訪れて、まず「馬の素晴らしさ」に共感していました。馬=ポニーの素晴らしさ、可能性や魅力を教えていただけないでしょうか?


ポニー牧場
▲ポニー牧場
■大野: 小さい子どもたちというのは、動物が好きでしょう? 子どもたちがいるから日本中のぬ いぐるみが売れているんです。だけど、本当はぬいぐるみよりもホンモノのほうが、本当は好きなんです。だから、小さいときの動物とのふれあいの経験というのは、非常に大事なんです。小さい動物もいいんだけど、自分よりも身体が少し大きくてパワーがある動物を、自分が主人公になってコントロールする経験をしていくというのは、子どもたちにとって、本当になんて言うんでしょう、真剣さとか、それに挑戦していく力とか勇気とかいろんなのを引き出してくれるいい道具なんです。

ポニーとのなれ初め

 僕は北海道で生まれたけれど、サラリーマンの家庭だから、馬なんて乗ったことはなかった。それが子ども会をやるようになって、子どもと付き合いながらいろんなことをやりました。若者を連れてヨーロッパに旅行に行ったことがあります。飛行機をチャーターして行ったんですが。そのときに僕が一人ぼっちで歩いているときに、自分の身体のサイズにあったポニーに乗った子どもたちを目の当たりにしたわけです。日本にも遊園地にはいました。こどもの国とか、いろんなところでよく見ていて、いいなぁなんて思ってた。だけど、それがしっかりと視野に入ったのは、ヨーロッパ・イギリス・ドイツ・フランスなんですけれど、これはすごい。子どもたちが自分の身体よりもちょっと大きいくらいの馬をコントロールして、走ったり跳んだりなんかして、その晴れ晴れしい顔に僕は見とれたんです。

 そして、そういう子どもたちがたむろしているポニークラブに訪ねていって、いろいろ話を聞くでしょう。「お誕生日のプレゼントに何をもらうの?」なんて話になって、聞くと、「お誕生日に貰って一番うれしいのはポニーだ」ってイギリスの子どもが言うわけです。「おじいちゃん、わたしにポニーを買って」というと、「わかった」と、言っておじいちゃんがその子に一番合うポニーを探して買ってくれる。「さっき乗っていた馬は、去年おじいちゃんに買ってもらったなんとかって馬なんだよ、おじさん」とか、言っているわけです。手を伸ばせば届く夢としてそういうものがあって、そういう子ども時代を過ごさせているイギリスというのは、やはりすごいなと思いました。けれどイギリスだけじゃなくて、ドイツでもアメリカでもやっているわけです。日本だけです、先進国でそういうのをやってないというのは。僕はこれは遅れをとったなと思って、日本ではじめてのポニークラブを作るといって、本当に作っちゃったんですが、やってみて本当に良かったと思うのは、やっぱりポニーは子どもを本当に夢中にさせるものをもっているんです。


「挑戦の課題」としての馬

 それから、ボーイスカウトなどではキャンプに行って、キャンプファイヤーをやって、カレーライスを作って、クラフトを作って帰えるような感じでやっています。それの繰り返しを僕たちも真似事でやってたんですが、どこかでマンネリになってしまい。だけど、馬を入れることで、そのマンネリにならない。次から次へと新しい挑戦の課題を子どもたちに植え付けてくれる。そして健常者だけではなくて、障害者にもいい。それから野球は男の子、サッカーも男の子、最近は両方やっていますけれど、男女が関係ない。こういういい道具立てというのは、馬の持っている特性だと僕は思います。

 それこそ藤代ではないけれど、子どもから高齢者まで、健常者も障害者もやれる。それに、馬を入れることによって、一ヶ月いないから鍵をかけて閉じ込めておくというわけにはいかない。朝晩、ご飯を食べさせなきゃいけないし、自転車やバイクなんかだったら出して油を入れて点検して、すぐに走らせられるけれど、馬をやるときには連れ出してきて、まず丁寧に手入れをするわけです。点検してこうやって触ってみて、今日はなんか熱っぽいなとか。足をこうやって釘がささってないかとか見てやって、一緒にやろうね、ってやるでしょ。そして、乗る。で、終わった後に、また手入れをする。そうやって乗馬といったって、乗る時間よりもそっちの時間のほうが長いんです。そういう経験をたっぷりさせられて、それが楽しみとしてやれるというのが、子どもたちの世界に生まれるんです。今、子どもたちはなんにもやらせてもらえないんだけれど、あれやれこれやれではなくて、自分から気がついてやれるような、そういう経験の宝庫でもあるんです。だから僕は、学校の体育の中に馬を入れるべきだと思っているんです。


河川パトロールは馬で

 この間、九州の地方整備局の久留米の研修所に行ったんです。係長クラスの人と話をしていて、河川パトロールの話になりました。僕は「ちょっと質問があるんだけど、あの河川パトロールというのは、どうしても車でやらなくちゃいけないとか、規則があるんですか?」と聞いてみたんです。「別 に規則はない」と言うので「じゃあ、馬でやってみたらどうですか?」と、言ったら「ええーっ!」なんて、言っていたけれど、車半分、馬半分でもいいから、全国10箇所くらいでモデル地区みたいに河川パトロールをやってもらえないかなあ。

 我々の場合も、ここで一番問題になったのは厩舎なんです。厩舎だけあればできるんです。だけど、厩舎を建てたくても川べりじゃダメだといわれちゃう。でも河川事務所はいろんなところに土地を持っているわけです。だから事務所が河川パトロールを馬でやるということになれば、厩舎を絶対に建てないとダメです。そのときに自分たちのところで10頭分建てるとしたら、あと20頭分位 足してそこで一緒にやる我々みたいな組織に貸し出す。それが北海道で、東北で、何箇所か、10箇所くらいできればいっぺんに成り立ちます。馬もまとめて輸入してくれば安い。一頭、二頭といって買うから高いんです。小貝川のポニー牧場くらいのものは、あっという間にできます。しかも、そこで投資したお金の効果 、そして川べりの雰囲気がどんなに変わったかを見たら、やってよかったとみんな思うに違いありません。


馬の効用

 厩舎というと汚いクサイというイメージを持つ人がいますが、藤代の厩舎は、いつも子供、母子で賑わっています。小動物園、ふれあいポニー動物園です。おがくずを使う厩舎にイヤなニオイはありません。キレイです。馬を取り入れることの効果 は限りありません。インストラクターの育成、用具(馬具)づくり、馬の世話のための技術など。ほかには、ヘルメットから乗馬靴まで、服装や馬のアクセサリーやカレンダーなどなど・・・教育(人材育成)から産業の立ち上げまで、実に豊かです。

 例えば、それぞれの地元の学校には、インストラクター養成科みたいなのを作って、そこを出た人に、地元の面 倒を見てもらうんです。それから障害のある人にも来て欲しいんですが、障害者乗馬の特別 な訓練というのは、外国の場合は大学を卒業した人に二年間の上乗せをさせているんです。こういうことも、理学療法士育成などと組み合わせて新しい計画が立てられるかもしれません。うちの場合は、近くの特別 養護老人ホームの人たちや職員の人がここに来て乗っているんですが、職員の人たちには先に馬の訓練をしてもらっています。そういうのをちゃんとシステム化していったら、一箇所、二箇所ではダメですが10箇所で20頭ずつだと、一つの基礎の数字ができてしまいますから、それが10カ年計画でいくといったら、もうこれは、新しい産業です。 

 川べりの雰囲気も変わってしまい、それが学校にもつながってくる。老人とか障害者のためのものは、学生たちが自分たちで支えていくということになるでしょうし、こういう馬の効用というのは、すごいです。もしハーモニィーセンターに馬を入れていなかったら、今頃潰れています。そして、潰れるどころか、馬が入ったときに馬の専門家は一人だけしかいなかったのに、今は日本全国どこの乗馬クラブに行ってもプロとしてきちっと指導できる資格を取った人が、うちの現場に二、三人ずついるわけです。そんなで、ハーモニィーで食いっぱぐれても、自分で乗馬クラブをやってもちゃんとできるわけだから、生きる自信もついたんじゃないかと思っているんです。


馬で地域の経済活性化

──そういえば、「岩手県の活性化は馬で」と、かつて提案されたことがおありだそうですね。

■大野: 以前、岩手県に「青年の船」というのがあって僕は講師で乗ったんです。岩手で乗って沖縄まで行ったのかな?団長はもうお亡くなりになりましたけれど、当時、県知事の中村直さん(昭和54年4月から平成4年4月在職)と、県の中原企画調整部長が事務総長として乗っていたりして、県政の発展はどうしたらいいのかとか、「予算はないけれど、大野さん、県政の発展を考える知恵があったら貸してよ」とか、話していたわけです。その頃はちょうど大分県が一村一品運動をやていた時期でした。岩手県には当時で67か68くらいの市町村がありましたが、それぞれ何か工夫しろといっても、三、五千人の村もあれば、盛岡みたいなでっかい都市もあるわけで一律にいきません。それで、漬物の品評会みたいになりそうな雲行きでした。そこで、僕は「岩手というのは、一つスケールを一単位として考えれば国みたいなものだから、でっかくやった方がいい。一村一品じゃなくて、一つの文化で67品目運動というのをやりましょう」。「岩手といったら馬だ。日本中、野球だったら甲子園、とかサッカーだったらどことかといってやっているけれど、その土地に合った、その土地の文化に根ざした小中高等学校や社会に体育があっていいわけだから、岩手は馬で行こう」と言ったんです。

 つまり、幼稚園も小学校・中学校も高等学校も体育の中心は、全部、馬ということにして、そして各学校に2、30頭くらいずつ馬を配置するようにしたら、もう馬産地は、それだけで生き返ってしまう。幼稚園なんかも入れて600かなぁあるんです。10頭ずつ入れても6千頭になるんですから。10ヶ年計画でそういうふうにやっていったとすると、もう馬産地はそれだけで大丈夫なんです。そして、それだけの馬具を誰が作るのかとか、帽子からつま先まで全てどうしたらいいのかを考えて行ったら、他所の力を借ることを考える前に、自分たちのところでそれをやればいいわけです。俺の町はこれをやる、俺の町はこれっていうふうにしていって、もうどこを割っても馬といったら岩手、岩手といったら馬というふうにしていったらどうですか、と言ったんです。

 岩手のお土産品は馬具をかたどるとか。学校では体育は馬を中心にしていく。県庁にも馬術部というのをこしらえて、知事さんが先頭に立って、週に一度は三役、部長を従えて馬で官舎から県庁まで行ったり、岩手にとって大事なお客さんが来たときには、豪華な馬車で県庁まで送迎するとか。音楽祭も馬でやる、秋の芸術祭も全部馬の絵をやるとか、そんなふうにしただけで「馬の文化・岩手」で活性化ができる。その手始めとして、各学校に20頭の馬を配置して年次計画を立てればできますよ、と僕は言ったんです。それで、ポニースクール岩手が実現したんですが、県業の乗馬クラブみたいな運営をやってしまい潰れてしまいました。


本当に心をつなげば

──川べりで馬を媒体にして事業活動するというのは、いろいろな意味で成り立つものでしょうか。

■大野: 最初に10箇所単位 で立ち上がれる段階にあるなら、五年間やるだけでもう軌道に乗ります。それを「水辺の元気づくり」みたいな活動や、農林水産省でいえば馬事思想の普及や馬事人口の拡大などにつなげたり、文部科学省は学校体育の中に新しい種目として入れたりして。各省連携のプログラムにして、やりたいと手を挙げたところには、数年間位 は実費の半分を補助するとかして。我々の本当に心をつないでいるようなところで最初10箇所くらい固められたら、これはもう本当に国家事業になります。

僕は藤代を日本の川べりの常識の基にしたい、それを学校にしたい。ここでの要というのは、今お話したような計画に結びついた方が新しい産業の発展にもなるし、それに若い人たちの雇用促進にもなるし、お金を出しっぱなしじゃなくて生み出していきますから。対象は子どもから高齢者、健常者も障害者もでしょう。こういう雰囲気が「常識」になるわけですから。スケールでかくいくんだったら、このくらいのことを僕はやりたいです。


水辺の元気づくり(川と流域の風景WEBサイト内)


河川行政、肝心なのは出先機関

──川とこれだけ関わってこられて、ご自分の思いと現実とのギャップなどはありますか?

■大野: 
僕は「川に学ぶ体験活動協議会」の代表理事などもをさせていただいているから、本省の河川環境課の人とかそういう人たちとの接触が多いんです。彼らはやっぱり優秀ですから、河川法が変わった理由とか、どんな河川行政が大事だとか、特に河川環境課の人たちの認識というのは非常に深い。しかし、現場の出先機関では、その切り替えがまだまだなんです。しかし実際には、川でのいろんな活動をするのは、国土交通 省の河川環境課ではないんです。窓口になる現場の出張所などが、地元民との接触の場所なんです。ですからそこのところをきちっと認識をした職員たちが増えれば、もっと相互理解がうまくいくと思います。地元の人にとって今までは管理者とちょっと敵対関係だったみたいなところもあるわけです。だから、自信を持って新しい河川行政の考え方に切り替えてやってくれればいいのだけど。そのパイプとして、河川パトロールに馬を利用して川べりでコーチングをやったりしたら、もう窓口はできちゃうんです。これもその時の所長次第で、部内の研修だけでこうならないでしょうが、そういうことよりも、いわゆる河川パトロールの人とか、出張所の所長とか、そういう人たちがもっと市民と溶け合った仕事をするようになれば、ぐっと変わってくると思います。

 出先機関というのは、警察でいえば交番みたいなものです。交番のお巡りさんというのは市民と一番接触するところでしょう。お巡りさんを通 して警察と触れているわけですね。だから、一番の最前線にいる出先機関に優れた人材を配置して国土交通 省をアピールするとか、あるいは難しいのかもしれないけれど、そういう人たちと市民が気持ちよく交流できるとか、一緒に何か共同作業をやる場を増やしたりなどの仕掛けを作る必要があります。そういう意味でも、僕は河川パトロールを馬でというのは、否応なしに、そういうのが出てくると思います。それをやれば、もう出先はたくさんあるわけだから、「出先が変われば日本の川が変わる」みたいな話になるかもわかりません。河川環境課の課長が一人代わったといったってたいしたことはない。出先の出張所の雰囲気が変わったというほうが大事かな。意外と出先の人たちは、どこでもそうなんだけど、地元よりも上を見がちです。所長の鼻息を伺ったり。非常に強力ないい感じの所長のときには、イベントなんかをバンバンやったりするけれど、二年で代わるともうぽしゃっているというのは、よくあります。


小貝川、原風景

──小貝川の魅力を一言で言うとどんな感じでしょうか?

■大野: 
小貝川というのは、いろんな顔を見せてくれるんです。年中、同じようじゃなくて、もう、わーっと増水して水浸しになったりするのもすごくいいし。大変なんですけど。馬を入れて、あそこで撮った写 真があるんですが、地元の人が見て「これヨーロッパで撮った写 真?」と言ったのがうれしかった。

 全国の川はみんなそうだけれども、河川公園だなんていって、その一部分だけをきれいにして、コンクリートでこうやって、子どもの遊び場とかじゃぶじゃぶ池というのをこしらえたりして。わざわざ水をあげて、せせらぎのなんとかとか無駄 な、それで一億円かけたなんてやっているでしょう。でも、僕が散歩する小貝川は、川がこう流れていて堤防があるんですが、堤防の上に立っても川が見えない。というのは、河川敷に木が生えていて、木の根っこから枝が出ていて壁になっているんです。僕たちの背丈の二倍以上あるようなのがうわぁーっとなっていて、それで見えないわけ。そこからは、堤防のところのコスモスなどは見えるんですが、散歩の連れの人が「川はどこにあるんですか?」って聞いたんです。

 その日の活動の最中に子どもたちの中で「今日は暑いからね、川に馬を連れてってあげようよ」と言ったのがいたらしくて、うちのスタッフが草刈り機で人間が1人通 れるくらいだけ伐って川に行ったんです。そうしたら、そこに砂浜があったんです。もう夢中になって遊んだんです。その一本の道のおかげで、「30年以来、藤代のこどもが川で遊んだのをはじめて見た」と、みんなが言いました。

ある晴れた日
▲ある晴れた日

 道をどんどん広くして、二年がかりで、最初のうちは僕1人で、その後は手伝ってくれる人がいて、こっちから見てもどこに行っても川べりが、水が見えるようになりました。徹底的に草を刈ったんです。邪魔な木も下枝も切りました。木の下枝も落としてしまって中に入って行けるようにやっているうちに、草の力に勝ちました。だから、今は刈っているだけでかなり楽に川の水辺のぎりぎりまで行けるようになりました。それで釣りをする人も増えてきたんです。あそこは何にもないから、ほんとうに子どもから高齢者まででも、水辺にじっと座っていろんなことを思いをめぐらさせることもできるし、飛び込んで遊ぶこともできるし、ちょうどいい塩梅の川だったんです。利根川やなんかだと、ちょっとでかすぎるんです。ここだと日常生活をしている人たちが、ほんとうに川に親しむという、僕が子ども時代利別 川で遊ばしてもらったというのと、似ているんです。だから僕にしてみれば、自分の原風景、子ども時代の原風景をここで見たという感じです。

川にはすべてが備わっている

──大野さんにとっての水辺、川の魅力を教えていただけますか。

■大野: これは、一言で言ってくれている人がいるんです。真岡の前市長の菊池さんが「川にはこどもたちが子ども時代に学ばないと、経験しないといけないすべてが備わっている」と言っているんです。『水辺の元気づくり』という本に出ているんですが、僕もそう思います。僕の場合は、水・陸・空のあの空間を全部活かしていくという強い気持ちがあります。あの空間というのは、非常に限りないいろんな仕掛けができる、いろんな工夫ができる、ほんとうに可能性が無尽蔵にあります。だからあんまりうるさいことを言わないで、どんどんみんなにも利用させればいいと思っているんですが。


僕がすごいと思う人たち

──色々な方々と出会ってこられたと思いますが、特に注目していらっしゃる方は?


■大野:
 いろんなジャンルにいます。もう20何年前からの付き合いなんですが、僕を川べりに引っ張ってくれたNPO法人地域交流センター代表理事の田中栄治さん。河川法が変わって、子どもたちの賑わいを川に取り戻そうというふうに世の中が変わったんだよと、言ってくれてEボートに引き合わせてくれたのが、田中さんなんです。いろんな人たちをつなぎ合わせて、出会いの場を一生懸命作り上げてきた彼の優れた点というのを、僕は非常に高く買ってます。川べりで言えば、彼です。  

 それから、もう1人。小貝川にズバリ出会わせてくださった吉川勝秀さんです。吉川さんは、もうここで仕事を終えてからのほうが長くなるのに、いつまでも戻って来てくれて、気持ちよくまた新しいことができる種というものを蒔いていった。そういう彼のすごさにも敬服します。今は大学院の先生になっていますが、益々パワーがアップしてNPOもこしらえました。

 国土交通省の在職時代、吉川さんは川と福祉で最初勉強していたと思うんです。そこに教育というのを入れてくれたんで、川と教育と福祉がつながった。言うだけでなく、きちっと文字に残して本にまとめていきましょうということもやっています。全国集会をやるたんびに一冊ずつ書いていこうと一念発起して、みんなの尻を叩いて、今四冊目ができたんですが、もっともっと多くの人に役立ててほしいと思います。めげずにやるところがやっぱりすごいなぁと思っています。敬服です。あと、地域づくりでがんばっている人はたくさんいるけど、やっぱり川べりですごいなと思う人は、北海道からずらっといます。それ以外の地域づくりをしている人もいるし、それこそ全然別 の世界でがんばっている人もいます。

僕が惚れた若者たち

──若い人で、注目している人はいらっしゃいますか?

■大野: 身近なところでは、本当に良くがんばったのは34才になる斉藤隆。川に学ぶ体験活動協議会(RAC)の事務局長かな。彼のおかげで、この二年間でRACの骨格ができてきたんです。よくやったと思います。同じようによくやっている人で、あの年代では九州にもいるなぁ。原田秀夫さん(NPO法人白川わんぱく探検隊)。これから伸びる人です。それからNPO法人多摩川センターで随分苦労して、今、岩手のほうでやっている小山田準一君(NPO法人北上川流域連携交流会)だとか、皆さん育っています。

 斉藤さんレベルにある同年代の人たちには、骨身を惜しまず夢中になってやるという人たちが結構いて、大事なのはその人たちが贅沢は言わないんです。それで食べていけるようなボランティアとかイベント屋さんでなくて、結婚したりなんかする年齢で子どもが小さいとかそういう世代なんですが、一緒になってあの人たちが最大限自信が持てるような仕事に盛り上げていってあげたいなと思います。世界的なレベルの実力を持っている人がたくさんいるんです。一人はスポーツ・カイトですけど、カイトだけじゃないんです、これだけじゃ食べていけないものだから、いろんなことをやっているんです。気球船を借りては持ってきて、この間もあげてくれましたけれど、必死でがんばっている。

 服部さんも優秀な青年で、こういう具体的な活動にあったいろんなツールを、舟でもなんでもそうなんだけど、Eボートもたぶん設計していたと思う。そういうのに燃えている青年もいる。だけど、働いた会社が次々と潰れちゃって、今、自分ひとりでやっている。すごい力があって、こうやって話をしていると、何かっていうとすぐ設計図になって、「ここはこういうふうにすると、こういうのができる」なんて言って作ろうとするんです。そういうのが我々の傍には既製品じゃなくて、人材がいるんです。いろんな世界にいますが、惚れ惚れするんです。惚れ惚れ人間である青年たちのネットワークをこしらえてもいいかもしれないです。

――今日は、本当にありがとうございました。

 


大野さんの乗馬すがた
        ▲大野さんの乗馬すがた

馬がつないだモンゴルとの縁

──今相撲界で活躍中の横綱「朝青龍関」の出身国であるモンゴルとの関わりが深いそうですね。その辺について、お話をお聞かせください。

■大野:
 きっかけはやはり馬なんです。子どもたちの活動の中に馬を導入しようとやっているうちにNHKのシルクロードという番組を見ていたら、画面 の中の中国の奥地でのお祭りで、我々のところで育てているのと同じくらいのモンゴルの子どもたちが馬に乗って、30キロも駆けていたんです。あれを見た途端に僕は、できて五年だったのですが、我々のポニー広場の子どもたちもできると思ったんです。そこで、どうしたら子どもたちをあそこに連れ出せるだろうかと考えました。

 それで、「馬と人間の文化を軸にした日中少年少女総合交流」の企画書を持って六本木にある中国大使館の教育部を訪ねて行ったんです。そうしたら日本語ぺらぺらの耿墨学一等書記官が応援してくれました。後に文化局長になった偉い人だったんですが、「大野さん、これはすごいおもしろい」って、「わたし応援するから実現しましょう」と言っくれました。これが、そもそもの発端でした。

 僕はテレビで見たあの場所に行きたいと思ったので、先に一度行かせてくださいと申し入れて、1983年、新疆ウィグル自治区のウルムチから天山山脈を越えトルファンまでの大キャラバンをやったんです。行った子どもたちの数は12、3名だったんですが、警察、軍隊から、もうすごい支援隊がたくさんついてくれました。

そんなことは中国の人だってやらないと言われたんだけど、天山山脈の東のはずれに博格達峰(ボクダ山)というのがあって、標高四千五、六百メートルの鞍部をウルムチからトルファンまでを、初めて「モンゴル、馬」という目的で抜けたのが、僕たちだったんです。

ペレストロイカで道が開く

 中国内蒙古の大草原を馬で駆けたりするようになるのはもっと後なんですが、天山超えは死に物狂いだったんです。「来年また来るか?」と言われて帰ってきても、「うーーん」というような感じでした。結局、「内蒙古には大草原があるから、そっちに行ったら平らで安全だよ」と教えてもらって見に行ったら、大草原、草の海だったんです。で、毎年。夏、子どもたちを連れて行って、本当に大草原を走り回っていました。そのうちにモンゴルのことを勉強しましたから、モンゴル文化圏というのは、中国の「内蒙古」とか「モンゴル国」とか、ロシア、ソビエトの方に「ブリアード・モンゴル」というのがあって三つに分かれている。そして文化はモンゴル国が中心だとわかってきました。

モンゴルの草原
▲モンゴルの草原

 そこに行きたいと思ったのだけれど、中国とは仲が悪いんです。ソビエトの軍隊がモンゴルの中国国境に張り付いていました。だから中国の軍隊も張り付いていた。我々が外モンゴルの国に行くというのは、バイカル湖のほうを回ってイルクーツクから行って入っていかないとだめで、これじゃあ無理だと思っていました。ある日新聞を見たらゴルバチョフさんなんだけど、ペレストロイカとかいって、もう俺たちのところで精一杯で、モンゴルは勝手に自由にやりなさいということになっちゃって、ソビエトの軍隊が中国国境から引き上げたんです。中国の軍隊も引き上げて、北京からウランバートルまで列車で行けるという記事があったんです。内蒙古から来ていたソイルトがその当時職員でしたから、「こんな記事があったけど読んだ?」と聞いたら、「何ですか?」。一緒に見て、「うん、行けそうだ」「行こう、行こう」と、すぐ行ったんです。

中国内蒙古からモンゴル国へ

 モンゴル国は70年間社会主義人民共和国でしたが、自由主義経済に切り替える、市場経済に切り替えるといって、モンゴル国になったんです。でも、それはトップの指導者がそう言っているだけで、決議はしたけれど、70年間の社会主義から変身は並大抵ではない。人間同士の不信感、チームで仕事をするのもへたくそ、契約観念だってあんまりない。随分、我々は泣かされました。俺とだけ組めば解決してやると、言うわけですが、随分無駄 なこともしました。一人一人と会うと、いずれも素晴らしいし、草原はいいし、馬はいいしというわけです。

 僕が中国のほうに嫌気がさしてきたのは、中国のモンゴル族というのは虐げられているわけです。内蒙古自治区というのがあっても、ほとんどが漢民族なんです。モンゴル族というのは5〜6パーセントなんです。その人たちは、肩寄せあって自分たちの言葉の小学校を細々と経営していたりして、主要産業は漢民族が独占している。それに反発してちょっと抵抗したりすれば、すぐ強制収用所みたいなところに送られて、出てきたときには精神に異常をきたしているみたいなことも起きています。1991年からは、モンゴル国に行くようになりました。

モンゴルに教育の種を蒔く

 そして、社会主義でやるとこんなことになるなと思ったのは、学校は荒廃、知的階級も苦労していました。学校も半分潰れていたし、先生だって何ヶ月も給料を貰っていなかったり、旅行社にちゃんとお金を払っているのに上手にやってくれなかったり。だけど、そういう牧民の人たちと話をしているうちに、我々でできることは何かと考えました。学校が潰れた理由というのは、先生の給料が足りないということだと聞きましてた。「いくら?」と、聞いたら、「月7千円」、7千円くらいだったら僕たちが送りますと、その場で決めたんです。二人分の先生の給料を送るから、100キロも離れた学校に子どもたちを入れて、そこが半分しか授業をしてくれないなんていうのはやめて、自分の近くに寺子屋をこしらえたらどうですか、日本でそういうシステムがある。ゲルの一部分を教室にするとかして、先生は二箇所くらいそこを行ったり来たりして教えてあげるというようにして、やったらどうですかと提案し、始まりました。寺子屋が、ものすごい評判になりました。

 子どもたちも勉強して、先生も本当に一生懸命教えたんです。モンゴルには県が27郡とかあって、僕たちは中央県だったのですが、他の郡がそれを見て「うちでもやりたいから応援してくれ」と言って来ました。でも、これはちょっとハーモニィーセンターの力に余る。困ったなと思っていた時、郵便局の国際ボランティア貯金を知ったんです。で、申請を出したら、どんと応援してくれたんです。500万円かな。それを全部送ってあげて、27郡での寺子屋を始めたんです。

 ものすごく喜ばれました。文部省や教育委員会と一緒になって、ソイルトがこの計画を担当しました。そういう人に車を買ってあげたり、連絡をして給料を払ったりするようにして、我々が全部やるんじゃなくて、信頼できる人に任せて自分たちでやってください、という仕組みにしたんです。これがまた良かったんです。向こうの教育力も5、6年経ってアップしてきたので歴史的使命は終わったということで今はやめて、今度は年上の青年たちの職業訓練をやっています。

日本語学校の誕生

 毎年モンゴルに行っているうちにただ草原を馬で走るだけじゃなくて、まず、今のような寺子屋ができました。それで行った時に言葉の問題があったんです。モンゴル語ができるのは、誰もいないわけですから。中国語は通 じないし、英語もダメです。ロシア語か、ドイツ語か、モンゴル語なんです。我々は最初20人か30人連れて行ったのかな、言葉はぜんぜん通 じない。団長の僕ひとりに通訳がついたって、みんな欲求不満になっちゃうでしょう?それで国立のモンゴルの大学の日本語学科の学生に「アルバイトしない?」と、ソイルトが交渉しました。一日5ドルで我々が滞在している間中、一緒にやりましょうということで。生の日本語に触れられるし、いい勉強になるんじゃないかな、彼等10人のうち7、8人来てくれました。そうやっているうちに、彼等のたどたどしい日本語を通 してモンゴルのその当時の青年が、何を望んでいるのかということが、だんだんわかってきました。日本語をしっかり教えてくれる場所が欲しいのだというのがわかったんです。

 ならば簡単だと。日本で学校を作るといったら、いろんな役所の制限などがあるけれど、学校のそもそもは、教わりたい人がいて教えてあげられる人がいて、そこそこの場所があれば学校なんてできるんだからといって、学校を作っちゃった。先生を日本から連れてきたら、経費も何も大変だから、ここにいる日本語を教えられる人を探す。それで外務省で日本を担当していてリタイアした人、おじいちゃんとか、国立大学で日本語を教えていて退職した人、そういう人にもうひとふんばり一、二年やってくださいとお願いしました。学生たちに希望者がいるというのは、わかっていましたから、まず先生です。

 それから、非常に幸いなことに学校がガラ空きだったんですよ。マルクス・レーニン主義や社会主義系統の指導者養成大学なんていうのは、全部潰れてたんです。校舎はでーんとしていて、安く貸してくれそうなところを訪ねていって、埃だらけだったんですがそこを2教室だけ貸してくださいといってお金を払って、家賃だって日本からいえばタダみたいなものですから。電気がつくのか、トイレがちゃんと機能するのか、机はこれを借りられるのかという準備は、僕らできちんとやって2教室で日本語学校をこしらえたんです。

 だけど、本気で勉強するから、すごいことになったんです。20人ずつ2クラスで40人募集したら、300名近い応募があった。それで一次試験、二次試験、三次試験で40人に絞った。入学式のときに僕は行ったんです。暗いところで泣いている学生がいるんです。何で泣いているのかと聞くと、「不合格だったけれどちゃんと授業料を払うから、座る場所がなかったら立ってでもいいから中に入れてくれ」と言う。そういうのは、日本の学校ではいません。僕は「みんな可哀想なんだから入れてあげたら」って言ったら、「何を言うんですか、そういうことをやったら収拾がつかなくなるから、今年は40名といったら40名でぴしっとやる。今年だけじゃなくて、来年もチャンスはあるんだから、来年おいでということも大事なことだ」と言われたんです。だけど、40名では可哀想です。まあ、最初のうちはそれこそ大変でした。僕も時々行ったりして、そのうちに任意の日本語学校が注目を浴びて、これは短大にしたほうがいいということになりました。

 たとえば、日本に留学したいという希望があっても、モンゴルの日本語の一各種学校の生徒が日本の大学に入りたいといっても格が違うとダメだから、名前だけでも「大学」となっているほうがいい。短大にしたほうがいいという話になって、申請書を出したら短大になっちゃったんです。四年目には、今度は文部省から四年制の申請書を出したらどうかと言われました。当時の文部大臣が、純粋で穏やかで人望があるトムロウチルさんで、国会議長や大統領の顧問をやっていたような人なんですが、申請を出せば大丈夫だっていうから、出したら四年制の大学になりました。1996年のことです。

モンゴル文化教育大学
▲モンゴル文化教育大学

 それがモンゴル国ウランバートル市の「モンゴル文化教育大学」(現地名ソヨルエルディム大学)なんです。僕が創設者ということのようですが、創設者といってもそんな大げさなことではありません。最初のうちは、僕が書類を提出する時の責任者になっていたらしいんですが、僕はそんなことで行ったり来たりするのはできっこないし、実質的な地元の一番信望のある人が大学をやればいい。「ソイルトさん、もう一人でできるよ、ハーモニィーから離れて、いつも僕の指示を受けてやるんではなくて、独立したほうがいい」と、言って彼に全部渡したんです。彼は学長になりました。彼は非常に優秀なんです。内蒙古の師範大学をトップで卒業しています。

ソイルトさんとの絆

──そのソイルトさんですが、彼がハーモニィーセンターの職員になる前、大野さんとどういう出会いがあったのでしょうか?

■大野:
 いい出会いがあったんです。内蒙古に子どもたちを連れて行った時、僕は旅行社のスタッフに、通 訳一人だけではダメ。子ども30人連れてきているんだから、人柄がよくて日本語がバッチリで、一緒に遊んでくれて、きちんと向こうでの文化とかそういうことも伝えてくれるそういう通 訳を子ども3、4人にひとり、お金を払うからつけてくださいとお願いしました。で、行ってみたら、来てくれたのがほとんどが大学の教授だったんです。その中で、一番骨身を惜しまずに働いてくれて、子どもに人気があって、がんばったのがソイルトさんです。それで、また翌年も一緒にやってと、付き合いが長くなった。そのうち彼が日本に留学したいと言い出して、自力でやりたいとはいうものの、彼にはお金がないわけだし、それは無理。働きながらやるなんてそんな甘くはない、日本語ができるといったって、日本の生活になじむには何年もかかるんだというようなことを言っていたら、いつの間にか、内蒙古に行く毎に日本語を教えに行っていた先生のお嬢さんと結婚したんです。で、日本に来ましたというわけです。

 はじめ、彼は長野の日本語学校で、中国の人たちに日本語を教えたりしていたみたいです。だけど、僕たちがモンゴルにどんどん送り込んだりするような計画を立て始めた時だったので、うちのスタッフになって、東京で仕事をしたほうが動きがいいんじゃないのといって、給料は安くなるかもしれないけれど、思う存分力が発揮するには東京を基盤にしたほうがいい。で、やってもらうことは、中国とかモンゴルとの交流の仕事で国際部というのをこしらえて、そっちの担当にということで彼をハーモニィーの職員に迎えました。そして10年間やってもらいました。

 中堅で入った人並みの給料を払っていましたから、その投資がハーモニィーにとっては一番大きな投資でした。国内のハーモニィーセンターの仕事はさせませんでしたから、全部、国際部の仕事をしてました。そのおかげで、学校もできちゃったし、モンゴルの騎馬トレッキングの仕事も彼が担当しました。しかもスタッフの中でソイルトが一番馬力があった。で、なんだかんだというときには、僕と二人で行くわけです。ハンコを押したりサインをしたりするのは僕がやって、あとはほとんど彼が全部やった。よくやってくれました。随分、古い付き合いになりました。

 ソイルトのすごいと思ったことは、通訳の中には、僕が言ったことで向こうに具合の悪いようなことがあると、それを変えて通 訳したり。向こうの人が言ったありのままを伝えてくれればこっちは判断する能力があるのにも関わらず、わかったような力不足の判断力で向こうの人の言っていることを曲げて通 訳するような人もいたんです。彼の場合は、プロに徹しているから、自分の考えがどうあろうと、そんなのは関係ない。この人が言ったことはちゃんとそのまま通 訳すると最初から言うわけです。そうすると、向こうの人もこんなことを言ったら大野さんを傷つけるかもしれないみたいなことだって、全部言うんです。却っていいんです、そのほうが。向こうの人も、直接こっちの気持ちがわかる。通 訳で変に料理しなかったのは、彼だけでした。彼にとってどんなに不都合なことがあったとしても、彼は全部そうやったんです。

 仕事の上での指示を出したことは100パーセント、100パーセント以上、工夫したりなんかしてやるという力は信頼していたし、仕事だけじゃなくてプライベートでもほとんど一緒ですから。よくやったと思います。それから、言葉の上でも誤魔化しはしなかったです。だから、彼への僕の信頼は絶大なんです。彼も僕を信頼しているんじゃないかな。

 モンゴルの人との付き合いはそういうようなことでしたけれど、別 な言葉でいえば、中国の人たちに言わせれば、モンゴルに行けば「あれは俺たちの国だ」。ソビエトの人は、「あんなのは、ひとひねりだ」と思っていたはずなんです。だけど、あのうるさい大国に囲まれて、そういう意味では一ひねりかもしれないけれど、地勢学上からいうとモンゴルがいいクッションの役目を果 たしたんです。中国とソビエトはいずれ喧嘩するかもしれない。そういうアジアの火薬庫の真ん中にある非常に大事な緩衡地帯だと僕は思っています。モンゴルの人は、我々日本人に対しては、中国人やロシア人に対するのとはまったく違った親近感を持って接触してきます。実際に、今、一番彼らを助けているのは日本なんです。そういうのも、わかってきていると思うんです。

 日本の国がモンゴル国と仲良くする、何かいい関係を持っているということは、東アジアの安定にも寄与すると僕は思っているんです。人口は少ないんです。300万人に欠けるくらいだと思います。だから中国のどこかの省を応援するなんていったら、もう人口も多いし大変な話ですが、モンゴルの場合だったら、本当に一人一人としっかり、それこそ顔の見える付き合いが可能なんです。寺子屋、そして日本語学校、大学と発展してきました。これも馬が縁だったわけです。

【参考サイト】
(財)ハーモニィセンターのモンゴルとの交流経緯
  ((財)ハーモニィセンターWEBサイト内)
「疾走〜娘の遺志を乗せて〜」日本乗馬療法協会 長友久美子さん
  (財)ハーモニィセンターのモンゴルでの活動を通 して・・・
  (niyoniyo/Network for Interaction by Your Originalities WEBサイト内)

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  (個人サイト)
モンゴル政府観光局の公式日本語サイト
中国・モンゴル/内蒙古自治区(KKユーラシア旅行社WEBサイト内)

 

 

   
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