川のキーパーソン

 

TALK&INTERVIEW

 第4回 座談会
 「
河川行政の立場から長良川河口堰建設当時を語る」

私は建設省に入り、中部地方建設局で多くのことを学んだ。今日あるのも当時の先輩、同僚、そして後輩のお蔭である。しかし、もっとも縁が深かったのは長良川河口堰にたずさわった人たちである。― 岩井國臣 ―

プロフィール プロフィール プロフィール プロフィール

座談会出席者
(H18.1.13 名鉄ニューグランドホテルにて / 写真左より

【薮田 正美(やぶた まさみ)】 
旧建設省中部地方建設局木曽川下流工事事務所で伊勢湾台風災害復旧事業に携わり、その後長良川河口堰生態系調査の担当出張所長。昭和47年〜52年、 旧水資源開発公団(水公団/現・水資源機構)長良川河口堰建設所工務課長。河川構造物の大家と岩井が尊敬する大先輩。

【中村 稔(なかむら みのる)】
昭和47年〜昭和50年河川部建設専門官。昭和53年〜62年、旧建設省中部地方建設局河川情報管理官として実施計画認可に関する各県との文書交換や調整に携わる。昭和63年〜平成6年、水公団長良川河口堰建設所長。岩井の建設省時代の同僚。

【高曽根 良博(たかそね よしひろ)】
昭和35年木曽川下流工事事務所に配属。平成7年度、水公団長良川河口堰初代管理所長。勤務38年間の大半を河口堰にかかわる。建設省時代の岩井の後輩にあたる。

【岩井 國臣(いわい くにおみ)】 
参議院議員
旧建設省における岩井國臣の足跡
川のおじさん川を語る その1「先駆・中枢性を持つ関東の川」


総括がむずかしい長良川河口堰

長良川河口堰全景
▲長良川河口堰全景
■岩井: 先に今日の趣旨なのですが、『河川レビュー』という雑誌がありまして、私の川のエッセイ・シリーズが始まったんです。まず関東をやりまして、次は中部の川を取り上げることになりましてね。これは、「新風土記」的なイメージで、それぞれの地域の河川の特徴みたいなものを焙り出そうという企画で、実は私が火をつけまして、言ってしまった手前、「それでは何か書いて下さい」ということで、あまり字数はないのですが、書くことになったわけです。まあ、 『河川レビュー』での私の分はごく簡単ですから、元原稿みたいなものや資料は、私の「川のおじさん/rivering.com」というホームページに載せて、更に詳しく知りたい人はそこからリンクでいろいろと見てもらおうと思っています。

 そこで、長良川の河口堰なのですが、これは考えてみれば、やはり建設省として、今は国土交通省ですけれど、建設省として大変画期的なことで、エポックメイキングなことなのです。しかし、その総括ができてない。私は一度やろうと思って、国会その他で総括的な質問をしようと思ったのですが、いろいろ、まだその頃は反対運動もありましたし、「ちょっとやめておいてくれ!」ということがありまして、そのままずっときているんです・・・。 特に生態系調査、「KST」(木曽三川河口資源調査団)の関係については、関係者が大変多いのですが、ずっとそのままになっていますし、少しPRしたほうが良いのではないかという考えを私は持っています。

 中部の河川にもいろんなテーマがあり、、天竜川は天竜川でテーマがあるのですが、私自身が長良川の河口堰との付き合いが非常に長かったし、私の個人的な話だけではなくて、中部地方建設局(以下、中部地建/現・中部地方整備局)としても、ほんとうに長良川の河口堰、あるいは河川局全体からいってもそうかもしれませんが、相当、なんて言いましょうか、苦労もしてきましたし、私としては大変な取り組みであったと思っています。

 その関係者でいえば河口堰の計画構想に深く関わられた小寺隆夫さんはじめ、いろいろとおられますけれど、とりあえず私の近いところで三人に話をしてもらおうということなのです。そのようなわけで、今日はざっくばらんにお話をいただきたいと思います。
 
 今日も、現地を見させていただきましたけれども、まず、最初に中村さんは最後の仕上げ、工事の最盛期のところをおやりになっていますね。いやいや、最後だけではありませんね。中村さんがほとんど仕上げたような感じでしょう?そして、初代の管理所長さんが高曽根さん。どういう状況であったのかということと、どういう点に苦労されたかとか、その他のこと、何でも結構です。河口堰に対する思いであっても結構ですが、最後の大変な時期に担当していただいたということで、まず皮切りに中村さんからお話いただきましょうか。


長良川河口堰
 三重県桑名市長島町。着工1968年(S43)、竣工1994年(H7)。水資源開発公団法第23条に基づき、建設省(現・国土交通省)直轄の河川管理特定施設として、水資源開発公団(水公団/現・水資源機構)が建設、管理している治水・利水を目的とした可動堰
KST
 旧建設省が生態学者ら八十数人に委託して、1963〜67年(S38〜42)に実施した木曽川三川河口域の資源調査
小寺隆夫氏
 元中部地方建設局企画室室長補佐。元水資源開発公団長良河口堰建設所長。企画室室長補佐時代に、河口堰の前身となる計画構想「小寺構想」を発表。

【長良川河口堰の関連情報が得られるサイト】
長良川河口堰インフォメーション(国土交通省中部地方整備局)
国土交通省中部地方整備局(旧中部地方建設局)
国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所(旧木曽川下流工事事務所)
長良川河口堰ホームページ(独立行政法人 「水資源機構」 )
長良川河口堰(岐阜県)
長良川関連年表(長良川長良川水系・水を守る会WEBサイト内)
事業着手以前の調査「KST」(水資源機構WEBサイト内 )



厳しかった工程管理

■中村: はい、私が河口堰に行きましたのは、昭和63年の9月1日付だったと思います。起工式が7月の22日で、それが終わってからでした。私の後任が、宮本博司さん。平成6年6月1日に引継いで、その後任で初代管理所長が高曽根さんで平成7年4月1日付ですね。

 私が着任した時は、建設工事の一期工事は発注されていまして、請負業者は乗り込んでいましたけれど、まだ仮設の段階で、本工事はほとんど手つかずのような状態でした。退任するときは、最終締切りが終わって、河口堰本体はほとんどできていました。管理所の建物は完成していてすでに使用していましたから、岩井先生がおっしゃったように、あらかた仕上げたようなものです。

 在任期間はだいたい6年くらいですが、在任中に一番気を遣いましたのは当然のことですが工程管理です。途中には、工期また予算にしましても色々な問題がありました。着任した頃は、予算は国全体が硬直状態でしたから工期を伸ばしてもよいのではという感じだったのですが、結果 的には「工期は変更しない」ということになりました。締切り工の期間は治水上から期間制約があります。工程が一日延びるということは、結局、再度締切りのため一年延びるということになりますので、一日の工程は絶対に守ってやろう、ということで、一日一日の工程を必ずその日中に仕上げて行くことで厳しく管理してきました。

 工程で一番大変でしたのは、大阪で花博(花と緑の博覧会/1990年開催)がありましたね。あの時に、労働者が少なくなってしまいました。熟練労働者をみんな花博の方に引き抜かれてしまい、現場は未熟な労働者ばかりになりました。従って、作業効率が悪くて、請負業者のほうも、「これはできない」と言いますので、「全社をあげて取り組め。天下の大成・鹿島ができないことはないだろう」と叱りつけました。そうしてしばらくすると、夜間に現場が閑散とするようになりました。花博が終わって、熟練した労働者が帰ってきたのですね。熟練者が手際よく仕事を進めるため、一日の工程が早く終わるようになったのです。それまでは、深夜遅くまで現場の照明がついていましたが、様相が一変しました。その頃、私達が帰るのは12時過ぎでしたが、その時には電気が消えて保安灯のみになっていました。あの時は、本当に助かりました。工程上で一番大変な時期でしたね。 あとは、締切方法も何回か変更しましたし、また課題もいろいろありましたが、概ね計画工程内にできるようになり、おかげさまで工期内に仕上がりました。


一番の思いは、環境の問題


堰本体の堰柱工事
▲堰本体の堰柱工事 (写真提供:中村稔氏)

■中村: 工事の状況は、以上のようなことですが、一番の思いは環境の問題といいますか、かつてKSTから色々ご意見をいただいたものを、どのように具体化していくかという課題でありました。私はKSTには関係していませんでしたが、その成果 を受け継ぎ実現させる立場として、具体化の方法に意を注ぎました。提案された意見の全部が全部、具体的な案が示されているわけではありませんでした。 アユの問題にしましても、稚アユの遡上効率を高めるための問題など、岐阜県や漁業関係者からも色々ご意見をいただいて、魚道の幅とか細部の構造、さらに流量 なども検討しました。今日、最後に見ていただいたアユ孵化水路も、堰本体工事が終りに近づいた頃ようやく計画案が定まりました。

 KSTでは流下仔アユ対策は、「餌付け放流」が一つの対策として提案されていましたが、これにも具体案は示されていませんでした。しかし、何らかの対策を講じるべきと考え、流下仔アユを増加できる施設を作ることとしました。施設としては単にアユ孵化水路に使用するのだけではなく、多目的に使用できることを考え、アユ孵化に使用するのは秋だけですから、それ以外の空いている春から夏は「子どもの水辺の遊び場」としても使える構造としました。 またアユ孵化の方法も琵琶湖の例のように、親アユをそのまま入れてそこで産卵受精させる案と、岐阜付近で採卵受精させた受精卵を持ってきて孵化させる方法と、二つありました。が、親アユを放流すると産卵後の親アユの処理など、いろいろ問題も起きるということで、後者の方法を採用しました。

  長良川河口堰の魚道
堰には呼び水式魚道、ロック式魚道、せせらぎ魚道の3種類、5ヵ所の魚道がある。呼び水式魚道の横の魚道観察室は一般 公開中。
せせらぎ魚道
  ▲せせらぎ魚道
  長良川河口堰呼び水式魚道
  ▲長良川河口堰呼び水式魚道(一部玉 石魚道)
  閘門兼用のロック式魚道
▲閘門兼用のロック式魚道

 利用技術の開発もしなくてはいけないものですから、地元の漁業協同組合の人にも参加していただき、利用技術が確立されました。あとは、漁業関係の人たちが自主的にアユ孵化事業を実施してくれることを待っていたのですが、なかなかそううまくはいきませんでした。去年は少量 でしたが孵化事業が行われたようでした。アユの母川回帰性が証明されると孵化事業も強力に進められると思うのですが、一応、技術は確立されていますので、何時でも実施ができると思います。 仔アユ対策をクリアすると、あとは、遡上の問題もアユ種苗の人工生産も大きな問題はありません。その後「サツキマス」だとか、いろんな魚類等が話題となりました。

■岩井: 堰本体工事の期間中にも、魚の先生、その他、生態系関係の先生方とのお付き合いというか、ご指導がありましたね。

■中村: 堰本体工事に着手した直後、反対運動の始まりと同じような時期になってくるのですが、魚道も、もう少し色々考えなければいけなということで、平成元年8月9日に魚道アドバイザー委員会をつくりました。

■岩井: それは、誰が入っているのですか?

■中村: 魚類の先生。土木工学の先生。生物の先生など8名ぐらいでした。

■岩井: KSTの調査のひとつの流れの延長線というか、延長線上の話として、いろんな先生方のご指導をいただいたということですね?

■中村: そうですね。魚道は基本線が示されていましたから、魚道の細部技術について指導いただきました。例えば、観察窓をつくって、魚の遡上を観察して将来の魚道づくりに反映させるとか、一般 の人に見学してもらって理解を高めていただくというようなこと。また、魚道の形状、隔壁頂部や、切欠き形状の問題、また魚道流量 の問題とか、いろいろ細かいところですね。例えば、魚道の側壁でも、光が直接水面 に反射しないような構造にするとか、好ましい色はどうであるとかという点があるのですね。それで、太陽光線が直反射しないように異型型枠を使用して、壁面 を天然石積のような感じに仕上げました。

長良川河口堰施設案内(水資源機構WEBサイト内 )
長良川河口堰魚道ライブ映像(水資源機構WEBサイト内 )
NPO法人魚道研究会



反対運動のうねり

■岩井: 反対運動はどうでしたか?

■中村: 起工式の日(S63年)に、数人が川下りをして河口堰建設反対を表明していました。また、その数日後には、新聞に河口堰反対の意見広告が掲載され、一部の人達による反対運動が始まっていましたが、反対運動の組織はまだ固まっていなかったと思います。

■岩井: まだ、大規模な組織ではなかったのですか?

■薮田:  ええ。昭和48年でしたか。かなりの船で反対運動をしたようです。私は「外務省からフィリピンへ行け」と言われて一ヶ月くらい行っていたのですが、そのスクラップを家内が送って来たのですよ。その頃も、かなりエキサイトした時期だったと思います。

■岩井: 何年ごろですか?

■中村: 昭和48年8月の水上デモ、10月には訴訟の話が固まりつつありましたから、そういう中での反対運動ですね。反対運動というのもいろいろありまして、一つは漁業協同組合中心の反対運動と、もう一つは市民運動として反対運動と二通 りありました。漁業協同組合中心の反対運動は、初めからずっとありましたね。

■岩井: 調査が始まる前から漁業協同組合が、というのは当然として・・・。

■中村: 作家の開高健さんなどの有名人を仲間に入れた住民運動に発展したのは、河口堰本体着工後(S63年以降)ですね。

■岩井: 天野礼子さんだとか、立松和平さんだとか、いわゆる全国的な反対運動が起こります。何も、現地だけではなくて、東京でも随分激しかったものです。

■中村: 住民による反対運動が組織化されたのは、私が着任した頃、昭和63年9月頃だと思います。カヌーによる大規模な反対デモは平成元年5月でした、新聞には300艇とか報道していたと思います。東京でのデモは平成3年の秋ではないでしょうか。
 
■高曽根: 反対グループによる河口堰反対派の水上デモは、平成元年11月4日にもありましたね。


平成7年、円卓会議誕生す

■岩井: 平成元年というと、僕が広島の局長をしていたころです。運動は長いこと続きましたね。そして高曽根さんが初代の管理所長でしょう?あの頃はどんな具合だったのですか? もう、おさまっていましたか?
 
■高曽根: おさまっているというか・・・。平成6年の試験運用から、一応反対派とのルールができました。調査の公開、円卓会議など、一年間話し合いをやったでしょう。それまでは、相手も我々を相手にせずに大臣のところへ直接行っていましたから。
 
■中村: 平成6年の4月8日。正確には7日の夜と言うべきですかね、反対派が船を河口堰に繋いだのは。
 
■岩井: どのあたりですか?
 
■中村: 河口堰のゲートに船をとも綱で結んで、ゲート操作を阻止する実力行使を行ったわけです。
■岩井: 私が河川局長の時(H4年当時)には、絶対に大臣に会わせませんでした。私が会うということで。当時の環境庁長官だった鯨岡兵輔さんから、「天野礼子さんが現地で座り込みをしているので、河川局長、現地に行ってくれ」と、言われたことがありました。とにかく、現地でも座り込みが始まり、東京でも座り込みがありましたけど、私は「いつでも会って説明します」と。河口堰の、要するに談判というか、「作るか、作らないか」の話し合いはしないが、説明ならいくらでもすると言っていたのです。「大臣に会わせろ」と言うのですが、大臣は何にもわからないわけですからね。それで、五十嵐さんのときに円卓会議ができたのですか?
 
■中村: 五十嵐建設大臣の時だと思います。6年4月の、船を繋いだ実力行使の決着として、建設大臣との会談が始まったと思います。それまで、デモ行進とか座り込みなどはあったのですが、実力行使というのは平成6年4月8日からですか。2月1日の大臣の指示により、平成6年4月1日に試験運用のため河口堰のゲートを下ろすという計画でいましたので、反対派は、それに反対するとしていましたからね。実力行使は、5日くらい続いて、それの決着として円卓会議などを考えるという大臣の回答をもらって、実力行使をとき、それから後は、円卓会議などのルールに沿って行っていくということになりました。第一回の円卓会議は、平成7年3月12日と記憶しています。

河口堰に鎮まる、手づくりの定礎

■岩井: そうか。最後に竣工式か完成式というか、それはなかったのですね。
 
■中村: そうです。竣工式はありませんでした。
 
■岩井: 管理所のオープンというのが、竣工式みたいなものか。
 
■中村: 管理所の開設セレモニーはなかったと思います。管理グループは、もう一年も前から建物に入っていろいろと管理業務を行っていましたから。
 
■高曽根: セレモニーとして中部地方建設局長(中部地建/現・中部地方整備局)が出席されたのは、アクアプラザのオープニングセレモニーのみです。
 
■岩井: ああ、そうですか、長良川河口堰そのものの竣工式、完成式というのは行ってないんですね。
 
■中村: 当時、起工式を除いて、当初から全般 的に質素にというムードでした。定礎は鎮めましたが、通常行われている定礎式は行っていません。

 「定礎をきちんとしなければいけない」と定礎式を提案したのですが、許可がでませんでした。定礎についてはご理解をいただいたので、本当に身内だけで木曽川下流の事務所長へも連絡もしないで、現場にいる職員と作業員だけで行いました。 一般的な定礎式では、現場の職員達は設営係を担当していて定礎式の実態が全然わからないのですが、自分たちで、みんなで手づくりの定礎をしましたので喜んでいました。

アクアプラザながら

KST誕生のいきさつ

■薮田: 先ほど中村さんからも話がでましたが、前半の思い出としては、もともとKSTを結成する前段の話だと思うのですが、企画部の専門官が岐阜県に行って、「こういう計画があるから、聞いてくれ」と言った時、岐阜県の行政として「金銭補償を前提として行うとしたら、行政としては賛成できませんよ」と言う話があったそうなんです。それでは、誰をKSTのメンバーにしようか、ということで相談に行ったのが、三重大学の伊藤隆先生だったのです。

 伊藤先生は、水産庁が鮎部会というのをつくっていて、その座長さんをされ研究されていたのです。伊藤先生に話を持ち込んで、伊藤先生もやろうということになったのですが、全体的なまとめの話もあるので、いろんな人の中から団長を人選しているうちに、小泉清明先生が候補にあがりました。当時は岐阜大学の部長をされていて、非常に地元で信頼されていましたので。KSTが立ち上がって後半は、信州大学の教授になっておられましたが・・・。
 
■岩井: 岐阜大学では部長をされていたのですか? 日本生態学会がありますよね、それとは小泉さんは関係なかったのですか?
 
■薮田: その当時は、会員にはなっておられたとは思うのですが。
 
■岩井: 岐阜大の生態系の関係というか、魚の関係の部長ですね?
 
■薮田: 小泉先生は水質が専門なのです。それで、あの当時は、非常に水が汚れているというので、かなり漁業協同組合に対してアドバイスしているのです。それで、小泉先生は地元にものすごく信頼されていたのです。
 
■岩井: 私が聞いていたところでは、当時、中部地建企画室建設専門官をされていた今永幸人さんが、水産庁に話を持っていったようです。伊藤さんの関係があったのかどうかはわかりませんが・・・。水産庁は、要するに「漁業協同組合が反対しているので、とてもそんなのは、建設省から言われても調査には乗れませんよ」と断わってきた。それで、伊藤さんと相談されたのか。そこのところもよくわかりませんが、結局、小泉さんも、漁業協同組合が河口堰反対ですからね。とても自分は乗れないと言うのを随分説得されたらしい。それで「俺の言うとおりに対策をやるのか」と。「それは、結論を出していただければ、ちゃんと対策はやります」ということで、小泉さんに引き受けていただいたと、まあ、そういうように、私は理解しているのですが。


フィリッピンに養殖施設をつくった建設所工務課長

■岩井: 藪田さんは、反対運動の最中にフィリピンに行っておられましたね。何のために行かれたのですか?
 
■薮田: KSTのメンバーに星野暹さんがおられましたでしょう?岡山県水産試験場場長をなさっていたのですが、田中角栄さんの「2億円の無償援助をします」「一切の技術協力をします」という申し出で、数人の学者グループと一緒になってフィリッピンに、「東南アジア水産研修センター」という研究所を作ったのです。それの基を星野先生が、「薮田さん、絵を描いてくれないか、こういう構想なのだ」というので、二週間くらいかかり、いろいろ十数枚図面 を作ったのが採用になったのです。

 これも、私たちが堰建設の試行錯誤の中で設計したアユ養殖施設が、美濃で成功したのがきかっけでした。 昭和48年の暮れに、現地から派遣してもらいたいと要請がありました。図面 のみでは、なかなか分からないこともあるのですね。私も現地に行ったことがないし、図面 を一枚見ただけですからね。

■岩井: それは、どんな図面 だったのですか? 中身は?
 
■薮田: 伊勢エビ飼育水槽です。
 
■岩井: 要するに養殖施設ですね。
 
■薮田: 養殖施設と、東南アジアの青少年研修センターを兼ねた施設です。調査団が種苗生産の「可能性がある」ということで、このようになったのです。
 
■岩井: 調査団というのは、どこの調査団ですか?
 
■薮田: 政府が作った調査団です。
 
■岩井: それに星野さんが?
 
■薮田: はい。「向こうの政府に、こういう人間がいて、施設の設計ができるから、要請してくれ」と星野さんがおっしゃったんですね。それで1年と言われたのですが、その時水公団の長良川河口堰建設所長をなさっていた小寺隆夫さんに、「薮田さん、建設省から水公団に来て、海外のそんなところに行かなくてもいいじゃないか」と、散々怒られまして。でも、外務省からもしょっちゅう「工事が始まったから、来てくれ」と電話がかかってくるのです。それを小寺さんは頑として言うことを聞きませんでした。結局、僕らが所内会議をしている時にも、また外務省から電話がかかってきて、小寺さんが「10日だ、10日間だけ行かせる」と。「そんなこと言わないで、1ヶ月くらい行かせてくださいよ」ということで、行ったんです。
 
■岩井: それで、星野さんは、ずっとフィリッピンに行ってらしたんですか?

■薮田: その当時は、行っておられました。土木の仕事については、あの方達は全然わかりませんから、私が行って、海水を導入して、汲み上げて、貯水槽に入れて、どういう分配をするかとかを指導しました。それから、2億円を供与するわけですが、ビニールパイプなどは、現地で調達できないのです。これらの仕分けですね。
 
■岩井: そうして行っている時に、「エライことです」と奥さんからの国内の新聞の切り抜きが送られてきたのですね。
 
■薮田: ええ。「これは大変だ」と。反対運動ばかりではないのですが、私も少し早く切り上げて帰ってきたんです。

アユ養殖。成功への道のり

■岩井: それで薮田さん。フィリピンの話に関係があるのですが、岡山水産試験場のある牛窓町へ、一緒に行ったことがありましたね。あの時、三重大学の伊藤隆先生のところの養殖試験がうまくいかなかったとか、病気になる率が高く、ちょっとこれでは採算が取れないのではないかということで、はて困ったなという状況の時に、星野さんがクルマエビの養殖に成功された。アユは淡水魚ですが、秋に川の中流部で孵化して、それが仔アユで流れていって、海で冬越しして春先に遡上するんですね。つまり、その一番肝心かなめの時に、海で過ごすのです。ですから、養殖は海水でやったらどうかというようなことを小泉清明さんがハットひらめいて、星野さんのところに頼んだらどうかということだったように思うのですが。それで、薮田さんが水産試験場で最初に養殖のための設備を作られましたね。あれは、一発で成功しましたね。

■薮田: 今、言われたように、伊藤隆先生のところも、僕らの建設省も施設をつくりました。
 
■高曽根: あれは、昭和40年ごろじゃないですか? KSTが始まってすぐの頃。岡山水試は、もっと後でしたね。
 
■薮田: KSTは43年には、もう解散していますから、その前です。私が直轄にいる時でしたから。伊藤隆先生は、どちらかというと淡水で、星野さんは海水。最終的には前段を海水、後段を淡水というかたちで行ったと思うのです。それで、私は、一番問題であったのは水であったと思います。量 と質、伊藤隆先生の飼育方式は大量の水が必要なのです。 そして和田吉弘先生のところ、岐阜大学なんですが、そこで作ったのが循環濾過方式です。私が水公団に行ってからですからね、それだけの施設で5万匹くらいの生産ができたと思っています。
 
■岩井: 岐阜大学で? 岐阜大学で最初、100万匹という目標がありましたが。
 
■薮田: それは、後でなんです。大学ではなく羽島で大きな施設をつくりました。
 
■高曽根: 岡山水試で成功したものですから、それを岐阜で実行するということで、羽島で作ったのでしょう。これも成功したので、美濃は本格的なものにするというので、県と協定を結んで行ったのです。
 
■薮田: これは成功とは言えませんでした。水質が合わなかったのではないですか。和田先生のところが、これはたいした池じゃないのですが、循環濾過方式で約5万匹ができましたので、漁業者もこれはできるのではないかと、いうことになりました。その当時、ある漁業協同組合長が、これははっきりと、「100万匹つくったら、あいつらが反対しておっても、俺の分だけは河口堰を認めてやる」とまで、みんなの前で言ったのです。それでも、裁判をしているのですから・・・。岐阜県魚苗生産試験調査委員会ができて、岐阜県漁業協同組合連合会会長の加藤耕二さんが委員長に就任されたのですが、意思伝達というのですか、相手にうまく伝わっていなかったのかなと思います。


岐阜県魚苗生産試験調査委員会 
 昭和44年年9月発足。アユ人工種苗大量 生産技術の実用化調査の受入機関として、岐阜県・岐阜大学・岐阜県漁業協同組合連合会で組織された。

河口堰ひと筋

▲開かれた調節ゲート(写真提供:中村稔氏)

■岩井: 高曽根さんも、この河口堰に携わって長いですね。最後には建設所長というか、できあがって最初の水公団長良川河口堰管理所長をされたわけですが、最初は、河口堰の調査の始まる頃からですね。
 
■高曽根: 昭和35年に木曽川下流工事事務所に配属された時に、いわゆる堰構想があったわけです。「小寺構想」ですね。当時は、昭和34年、35年、36年と、三年連続の大出水があったものですから、長良川改修をやらなければいけないということで、私は調査課で改修計画の担当でしたから、河道の洪水疎通 能力を見極めるために、浚渫(しゅんせつ・水底の土砂を除去すること)の案をいっぱい作っていたわけです。まず、計画流量 は毎秒何立方メートルにするかが課題でした。結果として毎秒7,500立方メートルになりました。
 
■中村: 毎秒7,500立方メートルの根拠は、高曽根さんですね。
 
■高曽根: いや、毎秒7,500立方メートルというのは、全体で決めたわけですから、毎秒7,500立方メートルを河道に流そうとすると、それはどうやってやるかというと、結局、下流は「小寺構想」もあるもので、浚渫、嵩(かさ)上げ、引堤(堤防を川の外側に移動させて水路幅を広げ流量 を増やす工事)もありますが、まあ、基本は浚渫だろうということで、浚渫計画の検討を命じられました。当時は、成戸で上流と下流に分かれていたので、堤防余裕高を2メートルに統一し、計画高水位 を決定しました。あとは浚渫幅をどれだけにしていくか、いろいろ試行錯誤しながら検討した結果 、一応、必要浚渫量として1300万立方メートルが出てきたのです。

■中村: そうすると、その結果 の断面は「昭和38年度以降改修総体計画」に残されているわけですね。
 
■高曽根: そうです、38年総体計画というのが、河口堰の原点です。
 
■岩井: 総体計画の話はね、38年総体計画だけれども、実際に、計画を検討し始めたのは37年になっていますからね。僕は、最初薮田さんの下に行くまでは、中部地建河川計画課だったから、志水さんの下にいたのです。総体計画は、担当していませんけれど、その頃、みんな喧々諤々やっていた。それでだいたい骨格が決まったかな。高曽根さんは、それからずっと河口堰ばっかりじゃないけれど、出たり入ったりというか、つかず離れずというか、長いね。
 
■高曽根: 結果的には、河口堰にずっと係わってきました、昭和38年に岩井先生が初代の木曽川下流工事事務所(現木曽川下流河川事務所)調査課計画係長になった時、その部下になりました。薮田さんが初代の木曽川下流工事事務所の出張所長になって。それから、河口堰一筋になったのですよ。昭和42年に中部地建企画室に異動しましたが、企画室は河口堰の窓口ですから。ここに昭和48年までいて、それで外へ出て行って、また昭和50年に河川部河川計画課に帰ってきて関わりが出来ましたから、まあ、つかず離れず、ですね。

■中村: 河川計画課が河口堰を担当するようになったのは、昭和46年の12月でしょう。事業実施方針を出して、それで企画部企画課から河川計画課へ河口堰の業務が降りてきたわけですから。(引継の意。当時、企画課は6階、河川計画課は5階にあった)
 
■高曽根: それまでは、企画課にいましたから。
 
■岩井: 企画部企画課から河川部河川計画課に異動したわけですね。
 
■中村: 当時、河川改修事業担当が、長良川河口堰の業務を企画課から引き継いだのですが、ダム担当の専門官の業務だということになって、そこから河口堰との関わりができました。
 
■高曽根: 岩井先生、中部地建河川計画課長は、何時でしたか? 

■岩井: 昭和43年に専門官で企画部に帰ってきましたが、その頃にはもう、KSTの調査は、収束していました。それで河口堰との付き合いは長いのですが、河口堰というよりも魚の関係の調査のKSTというのは、ものすごい大調査団で博士も何人もできましたし、特許も随分。防衛特許と称して、中部地建が持っているんです。もう誰でも自由に使えますよというものですが、とにかくもの凄い調査をした。そのKSTの調査団の予算は、全部、中部地建の黒田晃さんに獲得してもらったと思うんですけれど、高曽根さんは、河口堰に対する思いとか、どんなふうに今振り返って思われますか? 

■高曽根: 僕は、38年間勤務のうちの大半が河口堰ですね。ですから、水資源開発に携わっていたというのが、90何パーセントなのですね。 長島ダム、庄内川に行ったのも、開発課系の仕事ばかりでした。治水課系の仕事というのは、河川管理課長の時の2年間だけだったですね。最後に企画部に1年行きましたが、これは本省の技術調査室系統の仕事の関係ですね。

■中村: 長島と蓮以外は、全部、木曽川に関係しているのですね。
 
■高曽根: そうです。長島ダムも足かけ4年ですけれど、実は短いのですよ。2年足らずで。蓮ダムも11ヶ月、それ以外は、ずっと木曽川に関わっていました。


小寺構想 
中部地方建設局企画室が小寺隆夫室長補佐時代に発表した河口堰の前身となる計画構想。
38年以降総体計画
昭和38年度以降改修総体計画。昭和38年度以降に実施する河川改修工事の全体計画で、建設省河川局内の部内計画。

アユの見通しが立ってこその堰建設

■岩井: ひとつ河口堰に焦点を絞って、今から思うと、どんな印象ですか? まあ、なかなか一口では言えないと思いますけれど。
 
■高曽根: まあ、一口では言えませんが、その当時、先ほど話の出た黒田晃さんが建設省開発課の課長でした。黒田さんは下流の副所長もされましたし、昭和42年からは企画室長もされて、のちに企画部長になり、47年には中部地建局長にもなられたのですけれど、企画室長の時ですか、「アユができなかったら、河口堰はできない」と言われたことが一番強く残っています。
 
■岩井: それは、絶対そうですね。
 

アユの遡上
▲河口堰の魚道観察室から見たアユの遡上(写真提供:中村稔氏)

■高曽根: 長良川でアユの見通 しが立たない限りは、河口堰はできないということで、まず、アユは絶対に見通 しをつけなきゃいけない。アユを作らなきゃいけないという発想でした。それまでは、一般 的には補償金を払えば解決するとしていたけれども、九州では筑後川の松原と下筌(しもうけ)ダム建設が大きな問題になりました。蜂の巣城紛争ですね。まあ、それもありましたし、黒田さんは、アユについて「現物補償」という考え方を示されていました。
 
■岩井: 金銭補償じゃなくてね。
 
■高曽根: 実際は金で解決しているのですけれども、大部分は。でも、そういう発想で、アユをやってこられたわけですよ。それを成功させて、それから後、非常に難しいけれども、岐阜との交渉ですね。当時の中部地建の河川計画課長をやられた方は、みんな河川局長になられました、岩井さんもそうですし、萩原・青山さんもそうなのですが、大変でしたね。

岐阜県知事、堰建設に同意

■高曽根: 昭和53年のトップ会談について行ったのですが、局長と総裁と知事の三者会談で。いわゆるゴーサインの時です。これまで公式的には、ダメだったのです。岐阜県は反対を決議していたものですから。それで昭和53年に一応、知事がゴーサインを出したので、そのセレモニーに立ち合ったのです。セレモニーをする寸前も調整は大変でした。 セレモニーでは、デモで県庁を包囲されまして、それでも、完全に包囲されてはいませんでした。何百人かが順番に県庁の周りをデモするわけですから、隙間ができるんです。その隙間から県庁に入って副知事室に入りました。
 
■岩井: 中部地建の局長は誰でした?
 
■高曽根: 坂上義次郎さんです。その時は、午後3時か4時ごろから会談するというので行ったのですが、この知事室と副知事室の間に秘書課があるのですが、そこに反対派の人たちが流れ込んできて分断されてしまったのです。こちらからは総裁と局長が、とりあえず副知事室に入りましたが、秘書課を通 して向こうにある知事室には入れない。数時間頑張って、それで夜8時から会談が開かれたのです。夕刊にはデモの写真が出ていましたから、副知事室にいて、テレビや夕刊を見て厳しい状況を理解しました。
 
■岩井: 知事は、梶原さんの前ですか?
 
■高曽根: 前の上松さんです。それで、トップ会談を8時頃から、知事室、副知事室は使えませんから、農林部長室かな、その部屋に行って、そこで20分ほど行われました。知事と総裁と、中部地建局長と県の部長で、地建は私がついて行きました。
 
■中村: 同時に、高須輪中総合整備計画をOKしているわけでしょう。そっちのほうは誰が行っていましたか、それは前の日にもやっていたのでしょうか。それによって地元がOKを出したことから、知事もOKしたのでしょうね。
 
■高曽根: あの時は、岐阜県開発企業局長の伏木敏郎さんが中心になって、市町村の要望も聞いて、それは河口堰竣工までに実施するとか、すべて整理されました。

高須輪中総合整備計画
 高須輪中は長良川と揖斐川に囲まれた輪中(堤防で全体を囲んだ集落)地域で、海津町・平田町が含まれていた(現・海津市)。河口堰による影響を緩和すると共に、圃場(ほじょう・穀物農地)改良などを含めた実行済み地域整備事業。
輪中「低地の人々の暮らし」(岐阜大学 総合情報メディアセンターWEBサイト内)
今に続く「輪中水防活動」(岐阜県海津市WEBサイト内)


長い道のり

左岸下流より河口堰を望む
▲左岸下流より河口堰を望む
■岩井: それはまあ、九州の下筌・松原の反対運動はある意味、もの凄かったわけで、いわゆる、建設予定地に砦まで建設して住民が監視した蜂の巣城ですよね。ああいう、反対運動をするのも、まあ、その後、あれほどひどい、凄まじいのはなかったと思いますけれど、長良川の河口堰もそれにやや近いような気もしますが。
 
■高曽根: 下筌・松原とは、基本的に違うと思うのです。最初は漁業協同組合とか土地改良区が反対していたかもしれないけれど、みんな河口堰が必要だということで、作らなきゃしょうがないなということで、漁業協同組合も納得してくれたわけです。
 
■岩井: それは、地元のいろいろな要望を聞いてきたという積み重ねがあって、最後はそういうことで、県の土木部長も地元市町村と話し、そして、漁業協同組合にも連合会とも話をつけて、地元はね、賛成になったのです。賛成というか、「しょうがない」と、いうところまで行ったと。それが下筌・松原とは違うのですね。根本的に。
 
■高曽根: 起工式の後になって、この地域の人でなく、地権者でもない人が反対だと来たわけです。
 
■岩井: もっとも、外からの人に煽られて、地元で反対運動をした人もいますけど。基本的には、地元の人以外の人たちが、全国から反対の人が集まってという感じだったですね・・・。 まあ、本当に色んなことがありまして、中村さんは、最後の難しいというか、最盛期の時に、現場の所長をされたわけですが、それまでは河口堰とのお付き合いは、どんなものがあったのですか?
 
■中村: 昭和47年に中部地建河川部の専門官になりました。その時以来、水公団事業も担当していた関係から、昭和53年から昭和62年に河川情報管理官として戻ってくる間を除き、退職するまで関係していました。専門官時代は、実施計画認可に関連する県との文書交換や訴訟が河口堰に関係する業務でしたが、これが業務量 の大半を占めていたと思います。
 
■岩井: KSTの団長だった小泉清明さんは、訴訟の原告側に回られたんですか。
 
■中村: 最後は原告側につかれました。はじめは国、被告側だったけれど、途中から原告側になられたのです。
 
■岩井: それは何か、薮田さん、何かありますか。

小泉団長の真意

■薮田: 小泉先生が怒られたのは、北野昭夫さんが木曽川下流工事事務所長の時に、封書が来たのです。その引き金は岐阜県魚苗生産試験調査委員会です。そのメンバーに先生が外れたわけです。私は小泉清明先生を入れて欲しかったのですが、漁業者が、入れるわけにはいかないと強い態度でした。先生は、それを地元のある人から、こういう委員会がこういうメンバーでスタートすると聞いて、ものすごく怒られたのです。私の理解では、小泉先生はまだKSTは終わっていない、まだやらなきゃいけないと言われていました。私がもれ聞いたところでは、河口堰で作り出した水は、今度は工業用水に使って、それによって、例えば酸性雨が増えるのか、減るのか、そこまでやらなきゃ、ダメだという意見でした。
 
■岩井: 当初に今永さんが、どういうふうに小泉清明さんと話をされたか、私は現場に立ち会ったわけじゃないですからわかりませんが、私が理解しているところでは、要するに調査団をやってもらうにあたっては、調査団の言うとおり充分な対策をするんだと。その中にアフターケアみたいなものも入っているのかもわかりませんが、そういうことだったらやります、ということでスタートしたということです。

 ところが長いことやっていると、先ほど北野さんの話が出ていましたけれど、やはり漁業協同組合と現場としては、いろいろ話をしなければ最後は事業が進みませんから、調査団とは別 にですね。漁業協同組合や連合会とはいろいろやられて、まあ、北野さんも大変苦労されたと思うのですが、漁業協同組合をなんとか説得しなければならない。漁業協同組合と小泉清明さんというか、調査団との関係が、やっぱり、なんと言うのですか、立場の相違というのか。そういうのがあって、小泉さんは要するに建設省のやり方がどうも漁業協同組合のほうに向いていて、俺の言うことは聞かないのではないかと、そんなことがあったのではないかと私は思っているのですが。
 
■薮田: 私は、昭和43年に岐阜県の段取りで、KST最終結論報告を美濃の体育館でしているのですが、この時には、もうムシロ旗で入り口から車が入れないくらい反対がありました。 黒田晃さんが一般的な挨拶をして、小泉先生の説明が始まったとたんに、会場が騒然となってしまいました。それで、もう帰るということで引き上げてしまいました。その時点で小泉先生は、漁業者に裏切られたなというような感じを持たれたと思いますよ。
 
■岩井: それは、小泉清明さんはもう最初から長良川のアユのことを、まあ、アユだけじゃなく、いろんな調査をやりましたけれど。とにかくアユの問題を解決しない限り、河口堰はダメだという思いでしたから。漁業協同組合だとか観光の話もありますけれど、漁業協同組合のことを思って、難しい調査を引き受けられたのだと思うのですが、その美濃の報告会のときに、自分たちは一生懸命漁業協同組合のことを考えて、アユのことを考えてやってきているのに、それを全然評価してくれないというところがちょっとがっくりされたのでしょうか?
 
■薮田: その時は、しょうがないなという感じで終わったのですが、その後の岐阜県魚苗生産試験調査委員会が問題なのです、それに小泉先生はメンバーとして入れられなかったわけですから。
 
■岩井: それは漁業協同組合中心にやらざるを得ないという現地の状況というのか、ですから建設省も、そっちのほうを取らざるを得ないし、漁業協同組合の顔を立てないと・・・。
 
■薮田: 漁業協同組合との話し合いの場が、全然ないわけですから。それと「アユは作れる」ということで。その当時は、漁業者もかなりの確信を持っていたと思います。
 
■岩井: そうだと思いますよ。KST調査は当時の段階では三ヶ年計画だったでしょう? それを4年に延ばしたのです。ですから4年に延ばして報告会の時に、昭和43年ですか、43年には、もうだいたい、結論、見通 しができてきたのですよ。ですから見通しがついていたわけですから、引き続き岐阜県魚苗生産試験調査委員会に小泉さんを指導者として、漁業協同組合と一緒になって委員会ができればよかったのです。それができなかったのですよ。
 
■薮田: 一応、研究が終わって、見通 しがついてきたから漁業協同組合が主体で岐阜県魚苗生産試験調査委員会ができたのですから。 もう実験段階は終わっているのだから。もうアユを作りに入ったのだから。学者先生は要らないといえば、そうですが、残念でした。
 
■岩井: 本当は、一緒に力を合わせるようなかたちでやっていてもらえば、良かったかなと、私は思いますけれど。
 
■薮田: そりゃ、小泉先生もあれだけ、4年苦労されて、まとめて出されたわけだから。最後の、じゃあできますよ、というところに小泉先生もやっぱりメンバーとして入ってもらうのが普通 だと思います。

KSTは、やっぱりもの凄い大調査団だった

■岩井: まあ、紆余曲折いろいろあるわけですが、最後、小泉清明さんが、少しご立腹の状態になって、それはいろいろ漁業協同組合や漁業協同組合連合会との気持ちの食い違いみたいなものがありまして、それはある程度止むを得ないと言えば止むを得ない面 があるかもしれませんが、要するにKSTで一生懸命調査をやる時は、とにかく小泉清明さんのリーダーシップで、相当なメンバーが集まってもの凄い調査をやったわけです。それで開発課が良くあれだけ予算をつけてくれたなあと思うぐらいやりました。あんなことはちょっと考えられないですね。予算的にも、もの凄い大調査団ですよ、KSTというのは。それの面 倒を薮田さん、私も河口堰の調査を、高曽根君も一緒にやりましたけれども、むしろ土木計画のほうが専門で魚のことはあんまりでしたが。横にいましたから、全然無関係ではない が、薮田さんが一手に引き受けてくれておやりになっていた。いろんな苦労があったと思いますが、どういう苦労をされましたか?
 
■薮田: とにかく、私も土木屋ですから、魚のことはわからないのです。先生方も、河口堰の説明をしたって、たとえば、堰ゲートの上から放流するのですよと言いましたら、そんなことしたらアユが「タタキ」に叩きつけられて死ぬ ぞとか、先生方もそういうような感覚なのです。干満があって、水深が6メートルは必ずあるのですと言いましてね。そういうこちらは魚のことはわからない、向こうは土木的なことがわからない、そのあたりの説明というか、ただ、私も先生方も必ず、誰かが来ればついて必ず説明はしていましたけれども、ただその中でやはりメインはアユなのです。

 それでアユを作るための方策というか、これは三重大学の伊藤隆先生が理論的にはものすごく調べられてそれをベースに星野さんもそういうのをつくっておられるし、石井さんと和田先生ですね。私はアユについては、伊藤隆先生、星野暹さん、岐阜県水産試験場職員で後に場長になられた石井重男さん。そうして岐阜大学の和田吉弘先生の四人ですか。もの凄いこと、親身に、それこそ夜も昼もなく努力していただいたなという感じがします。

■岩井: そうか、和田先生は、地元ですから岐阜県魚苗生産試験調査委員会に入っているのですね。
 
■薮田: 小泉先生には、水質面 では陸水学会の重鎮で名古屋大学の西条八束さんをものすごく意識しておられました。それで、水を採る方法も人の前で採って、分析も和田先生にこういうふうにしろということなど指示してらして。そういうことで、三人で年に十回くらいは行ったのでないかと思います。
 
■岩井: まあ、小泉さんに随分、薮田さんは信用がありましたよ。
 
■薮田: 信用というか、建設省の窓口ですからね。
 
■中村: 小泉先生とのパイプは、薮田さんか和田先生か、どちらかしかなかったのですから。その他が言ったって、どうにも対応できませんでした。
 
■薮田: それで、小泉先生が非常に怒られたのは、もう一つあるのです。裁判です。KST調査を小泉先生にはっきり正しい、ということを認めてもらわないと、裁判所に証拠として出すわけですから。それが、小泉さんはなかなか「うん」と言ってくれませんでした。まだそれが終わってないという感覚ですから。
 
■岩井: 自分が調査団をやってきた分に関してですね。
 
■薮田: それで、当時の班長さんに集まってもらったのです。その場で、班長さんが誰でしたか忘れましたが、あれだけ行った調査に関して調査団が逃げることはできない。正しかったということは当然だと、いうことで小泉清明さんを説得したのだけど、「まだ、残っている」と、水質が残っている」と。ですから、時々、和田先生と三人で調査に行っていたのですけれど、それは、小泉先生の気休めなのです。そこに裁判で、KSTの報告書が正しいことを認めさせようとした時に、小泉先生が納得しないので、班長さんが「それは、小泉先生がおかしいですよ」と言ってくれたのです。

現場泣かせのことばかり

■岩井: 中村さん、訴訟では随分苦労をされましたか?
 
■中村: 訴訟は、苦労というより、我々は素人でしょう。訴訟など全く経験がないわけで、当時は地建の中でも誰もいない状態でした。最近は、訴訟の専門官がいて、技術的なこと以外は処理してくれていますけれど、当時はすべてを自分でやらなくてはならないので大変でした。例えば準備書面 を作るというのが、全然、わからなかったのですから。そういう苦労ですね、経験者からみれば、何にも苦労ではない話ですが。
 
■岩井: あの時は弁護士さんがいたのですか?
 
■中村: 弁護士さんはおられました。主体となっておられた弁護士さんは、訴訟の最後まで担当されていましたけれど、当初は、土木技術に関してはまったくの素人だったので、河口堰計画や行政についてご理解頂くのが大変でした。今はもう一流の土木技術者並みですね。
 
■岩井: 私も治水課に行って、当時、加治川の水害訴訟、あれはもう、ほとんど最後のほうだけちょっと絡んだだけなのですが、長良川の水害訴訟もありましたし、それから、大東水害とか、ああ、多摩川もそうです、水害訴訟がありまして、当時は、私は、治水課で管理担当でしたから、今、中村さんが言われた中村さんの立場と同じようなことをしたのです。それで水政課に、訴訟担当の訟務官というのがその後で作られたのですが、最初の頃はなかったのです。それで、もう苦労しました。
 
■中村: 当時は、河川計画課の専門官は私一人でした。水政課にも一人事務官の専門官がいたのですが、まだ、河川部全体で対応する体制になっていなかったと思います。一番基本的なのは、建設省がまだ一体になっていないわけですよ、事業の終わりのように建設省と水公団が一体になって当たれば、意思の疎通 もよくなるし、すべてがうまく行くのですが、はじめは担当者任せなのです。それが、一番の欠点です。 しかし、最初はそんなに大きな問題になるとは思っていませんから、やむを得ないことでしょうか。河口堰の建設工事中でも現場まかせが多く、平成2年くらいまでは大変でしたが、問題が過熱し建設省側の体制が整ってからは楽になりました。
 
■高曽根: それは、最後のほうは全部大臣命令だったですからね。
 
■岩井: 私は河川局長を近藤さんから引き継いだわけですけれども、近藤さんの時に竹村君が、開発課の専門官をしていたのかな、近藤さんも苦労されたし、竹村君も苦労したのですけど、その竹村君が、中部の河川部長で、河川局で一番苦労した張本人が来るくらいだから、その頃は河川局をあげてやっていたわけです。昔は、そうじゃなかったと。
 
■中村: 水公団の所長は、建設省の職員じゃなくて、公団の一職員ですから、それが河川局の会議に出て、直接現場の意見を言えるような状態になったのですから大きな変革です。
 
■岩井: それは、何年からですか?
 
■中村: 近藤さんが局長の頃でしょう。その後、建設省と水公団で定例会を持っていました。
 
■岩井: 毎週一回?
 
■中村: 毎週一回になったのは、いつ頃からかな? 最後の2年、3年くらいはやっていたと思います。
 
■高曽根: 私が平成5年に水公団中部支社建設部次長で行った時には、毎週行っていました。
 
■中村: 平成5年には、定例会を毎週していましたね。中部地建と支社、これには地建局長が出席されていましたが。東京での定例会には河川局長は出席されていないのでしょう。


「長良川河口堰建設事業」工事誌の閲覧と配布(水資源機構WEBサイト内 )


肝心なのは水質

■岩井: 話は変わりますが、長良川に流入している荒田川とか論田川とか、境川とか、あれらは水質が悪いですね。私は、あれはいつでしたか、浄化事業が始まる頃ですか、現地に見に行ったことがあります。あれは、きちんとしているのですか? 今。 私は、もうちょっと力を入れて、水質を良くしたほうがいいと思いますね。なんと言いましても、天下の清流長良川ですから、水があれではね。もっと力を入れたほうがいいですよ。 私は最近の状況を知りませんので、軽々しく言えませんが、どこもそうなのですが、水質がかなり良くなってきているのです。それは河川局で結構手当をしているのですが、今一というところもまだあります。水質には力を入れたほうがいいです。
 
■高曽根: 水質は最後の最後まで苛められました。西条先生に。
 
■岩井: 私は多摩川で京浜の工事事務所長の時に、全国で初めて礫間接触浄化を進めたのです。ですから、水質については、特別 な思いを持っています。やはりまだ水質という点で、気になる川というか箇所がいくつかあります。
 
■高曽根: それでも、アオコがどんどん出るみたいなことを言われていましたが、一回で終りましたから、アオコは。初年度だけで。
 
■岩井: 河口堰があるからじゃなくてね。とにかく水質には力を入れたほうがいいです。
 
■高曽根: 河口堰から水を取りますから、関係ないとは言えないのですが、流れてきた水が汚れていれば、どうしようもないのです。
 
■岩井: 堀川は、どうだろうね。木曽導水というのは。
 
■高曽根: あれは、中止になりました。
 
■岩井: 要するに木津用水は、農業団体と、どうしても話がつかないというので。
 
■高曽根: 木津用水は大賛成で、現地調査も全部OKでした。
 
■岩井: 何が悪かったのですか。
 
■高曽根: 木津用水はメリットを受けるから大賛成なのですが。結局、下流の宮田用水、それともう一つの馬飼の農業用水関係者の理解がえられなかったということです。

■岩井: まあ、しかし、名古屋の堀川でも、清流を取り戻す会とか市民運動を盛んにやっていますけれど、ですから、徳山の木曽導水で、あれで入れられればいいと思うのですが。
 
■中村: 木曽川じゃなくても、浄化する程度ならば庄内川でも充分と思います。しかし、それ以前に、堀川自身をもう少し綺麗にしないと駄 目ですね。

礫間接触浄化
 礫(小石)のすきまに水を通 過させることで水中の有機物を除去、水質浄化する方法(礫間接触酸化法)。多摩川では河川敷の下に浄化施設が埋め込まれている。川の自浄作用を利用するので、維持管理がローコストで済む。


都市の環境用水に水権利を

■岩井: まあ、いずれにしても、今度恐らく2月になれば、通 達が出ると思うのですが、都市の環境用水には水利権はないわけですよ。飲み水でしょ、工業用水と農業用水しかないわけです。その維持流量 、河川から河川へはあるのです。導水と流量調整だとか。だから、都市環境用水というのはないのです。それを私は前から言っていて、ようやく河川局もその気になってくれまして、ずっと検討を進めてきましが2月に通 達を出してくるようです。水利権として認めると。ですから、そういうように、やはり水環境で、そこに水がないといけない、しかも水質がある程度綺麗な水がないとやっぱりダメだと思うのです。
 
■高曽根: それを認めてもらうと、名古屋市なんかは、工業用水の水利権をいっぱい持っているわけですよ。水道用水もいっぱい持っているのです。で、環境用水も水利権として認めてもらうと、その一部を転用して水源確保ができますから、借用できるわけですね。正式に借用できるわけです。
 
■岩井: たぶん、早ければ2月に、河川局が方針を出してくれると思います。まあ、いずれにしても環境問題だとか、それから川の生態系、今日は各務原市、旧川島町にいって、それはすばらしい施設ができているのを見てきましたが、今は、岐阜県河川環境研究所、それから、木曽川上流河川事務所がつくった水辺共生体験館、自然共生研究センター、これは土木研究所のなのですけれど、すばらしいのができていましてね。時代が昔とだいぶん変わってきていますので、環境関係、生態系関係、まだまだこれからやることはいっぱいあるのではないかと思っています。中部地建、今は中部地方整備局になりましたが、前向きにやってもらうように、――私らはみんなOBになりましたが、――現職の人に言わなければいけませんね。やはり先輩というか、薮田さんは魚の関係をずいぶん、元々は構造物の専門家なのですが、生態系の調査をあれだけやってこられ、種苗生産のノウハウがあるわけですから。

治水議員連盟及び都市河川整備促進議員懇談会の合同総会開催
岐阜県河川環境研究所
水辺共生体験館
 体験館の河村館長と川のおじさん・岩井の対談、近々アップです。お楽しみに!
独立行政法人 土木研究所「自然共生研究センター」



シビル・エンジニアリングとしての土木

■薮田: 私がフィリピンに行きましたのも、あれは、私たちが設計した施設が美濃で成功したからです。今までにないような、水循環をさせて浄化させているわけですからね、それで、星野さんから「薮田さん、なんとかしてくれ」と言われて行ったのです。
 

魚道用ブロックを水底に固定する潜水夫
▲底生魚類が休息し易く考案されたブロックを河口堰魚道の水底に固定する潜水夫(写真提供:中村稔氏)

■岩井: 土木はシビル・エンジニアリングというのです。ですから、私は、土木はやっぱりシビルでなければいけない。水質の関係の先生やら、生態系の先生、生態系の先生と言いましても、それは、魚だけではなくて昆虫やら鳥の先生やらおられるのですから、そういう先生方とお付き合いをしながら、水の専門家も一緒になってやらなければいけませんね。これからNPOともやらなきゃいけない。我々の河川行政というのか、河川工学だけじゃなくて、河川技術とか、生態系、生物の関係を含めてやっていかないといけないですね。
 
■中村: 私は、直接KSTとはかかわりを持ってはいないのですが、KSTの答えを、書面 だとか、あるいは薮田さんとか先輩方から間接的に聞いて、KSTへの思いというのは、こうであったのだろうと私なりに整理して、河口堰で実現したつもりでいるのですが、大体は実施したという自負はあるのです。ひょっとすると100%ではないかもわかりませんが。
 
■岩井: 今永さんの思いがKSTで100%実行されていなかったのかもしれませんね・・・。ですから、水辺の管理はいずれにしてもやらなきゃいけないと思います。長良川自体、自然河川ではないのですから、人工河川なのですから、そのまま放っておいて、いいというわけじゃなく、何かやらなきゃいけないと思います。その時に、魚や生態系は大事じゃないかということだったのです。今永さんという方は純粋な気持ちをお持ちだったと思うのです。それに小泉清明さんが、心を打たれたのだと思います。それで私は河口堰がスタートしたのだと思います。
 
■薮田: それにやはり、私は、アユを作るセクションもそうですが、それと河口堰を作る熱意にも心を打たれたのではないのかと思います。私も予備調査をやりまして、それから水公団に行ってその間はアユを作ることと、後半はいかにして河口堰本体を作るか、ということの二点だったと思うのです。私自身は、前半のみしか体験出来ませんでした。
 
■岩井: 私は、いずれまた、小寺さんと懇談しますよ。小寺さんは、一時は新潟のほうに行っておられたでしょう? さっき、中村さんから聞きましたら各務原市のほうにおられるというので、あの人は維持流量 との関係なのです、哲学があるのです、あの人は。その話を聞かなければいけないと思っているのですが。今日は、どうもありがとうございました。     

シビル・エンジニアリング
 「Civil Engineering」。文化あるいは市民のための、非軍事の工学の意。
岩井國臣のシビル・エンジニアリングに関わる寄稿文 『二足の草鞋』
  (月刊誌「測量」2月号掲載)
川のおじさん川を語る その2「中部の川におもう」
 今回の座談を資料として書き下ろされた岩井國臣の随筆。
(河川プレビューNo.131 春季号 河川風土記1.関東に掲載)
 

 

   
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