店先にかけ流しの水桶
 
行者の登山基地 洞川温泉街
 

 

天ノ川に流れ込む、洞川(山上川)沿い。2キロの間に300軒余りが連なる天川村洞川地区の街道筋は、手を広げれば納まるかと思える、懐かしい軒の低さ、道幅だ。色とりどりの陀羅尼輔(だらにすけ・和漢胃腸薬)の看板、軒を並べた店先の桶から溢れる清水。御山から戻った行者達が足を洗えるよう、道に面 して長い縁側を設けた宿屋。旅人の目には何もかもがめずらしい。
(左の写真:店先に置かれたかけ流しの水桶)

 

霊山大峯山への信仰が育んだ洞川地区
日本独自の山岳信仰は、命の糧である水を与えてくれる山を敬い、感謝を奉げるために登ったのが始まりと伝えられる。仏教渡来後、山は僧たちにとっても修行の場となり、大峯山は、最も神聖視される山のひとつであった。やがて仏教と山岳信仰が結びつき、「役行者小角」(えんのぎょうしゃおづぬ )が基をつくった「修験道」が大峯山で生まれた。厳しい女人結界が守られるこの霊山には、修行者、いにしえの天皇・上皇ばかりか、時代につれ、武士や豊作祈願の農民達も登るようになった。天川村はこうした人々を支えるためにできたといわれる。登山口にある洞川地区も又、山を案内し宿を提供する集落として、大峯山と共にあ る。

         
行者の宿の大将に聞く   角甚看板
夜の角甚
夜の角甚・提灯   角甚看板
ご先祖は、紀州の殿様をお縄にした洞川の案内人

家臣、侍女二十数人を殺め、お手打ちが趣味といわれていた紀州八代藩主徳川重倫候が、文化元年(1804)山上詣りをした際、恐れて誰も名乗りを上げなかった道案内を買って出た男。さて大峯山行場、目もくらむ断崖絶壁から腹ばいになって身を乗り出し拝む「西の覗きの行」をかたちばかりに済ませようとした重倫候に縄をかけ、軽々と提げて前に突き出した。さすがの候も、岩に手をかけようとする。それをはねのけ突き出した。これを見ていた一同は首が飛ぶぞと青くなったが、上がってきた重倫候は、ニッコリ笑って「面 白い奴じゃ。己も縄を打たれたのははじめてじゃ」と申されたとか。
 
     
 
洞川の大将「角屋十三代目」

後に重倫候から帯刀を許された案内役は、角屋五代目であり、今もその十三代目が洞川で旅館を営んでいる。創業元禄元年の「角甚」当主、洞川の宿屋仲間に大将と呼ばれる角屋光さんがその人だ。宿の前には大金剛杖、講社の名前を入れた提灯が幾つも下がり、いかにも行者の宿らしい。奥の間には仏様と役行者をまつる大きな厨子が部屋一杯に仲良く並んでいた。「行者さんは古里に帰るように、御山とここに帰ってくるんです」そんな宿だから、開山される5月から9月は大忙し。登山する人は延べで約10万人、角甚では一晩に200人が泊まったこともあるという。そんな時は林間学校さながらの賑やかさだ。
角屋光さん
角屋光さん
 
行者の宿のもてなし

平成元年ごろからの温泉ブームに加え、行者さんが少しづつ減っていることもあって、観光客の割合が 増えたが、それ以前は、一般客が泊まれるとは知る人も少ない行人宿だった。帳場に着いた常連たちは早速の値段交渉、久しぶりの顔は角屋さんを前に話がつきない。互いの顔が見えているからチェックイン、アウトはお客様の都合次第。部屋がいっぱいでも断ったことがない。シーズンオフは、お得意さんへの挨拶で全国を巡るのがつねだったそうだ。そんな中で鍛えられた大将には、時代におもねない「ほんとうのもてなし」の自負、御山に恩返しをしようというエネルギーがある。
招きネコ

女人禁制 の御山の麓・洞川の女性

物静かで美しい女将さんは、主なお客様が修行者だからでもあろうが、常の旅館の様には表に出ない。洞川の女性は、大峯山を「あれは、男衆の山や」と、遥かに拝んで満足すると聞いた。男には男の精神世界があり、御山に生活を支えられてもらっていることを骨身にしみているからだ。差別 ではない。「西の覗きの行」で吊り下げられた修行者が、先達(せんだつ)から受ける厳しい問答の中には、「女を大事にするか?」というものもあるとか。男と女、認め合ってこそ成り立つ現世。この行は肝試しでなく「人を信じるための他力の行」と角屋さんが教えてくれた。

>>>> 行者の宿「角甚」

 
         
「洞川気質」

終戦直後、大峯山に女性を登山させようとした進駐軍の計画を、これは日本の文化だとはねつけたのは洞川のプライドと心意気。かつて山伏、密偵、忍者が行き交っていたと想像されるこの地は、又文化の交流点でもあった。洞川の言葉には山を越えた各地の言葉が混じり、気質は開放的で柔軟、しかも結束強く自治の気概が高いと聞く。洞川の住人で構成される洞川財産区は、行政の力を借りずに上下水道をひいた。これも住居は別 として、土地は統べて洞川の共同財産という財産区独自のシステムあってこそ出来たことだ。

「立木一代」(りゅうぼくいちだい)

日本名水百選に選ばれ、村外から人が押し寄せるようになった湧き水の管理は財産区の役割。山の管理も独特だ。山自体は洞川が所有する土地だが、入札で落とした者が木を山に植え、それが切られるまでは入札者の管理下におかれる。出荷した材の収入は入札者のものとなり、山は又洞川に戻される。これが「立木一代」。地域がそのまま残るようにした先人の知恵だ。

 

「修験道と行者」

行者n峰入り修験とは「修行得験」、修行をつんで法徳を顕わすこと。得験のために山に入り、 様々な行を重ねる修験道の行者たちが山伏と呼ばれる。修験道の最盛期は平安から鎌 倉時代で、山伏は僧兵のように、軍事・政治の社会的勢力でもあった。護摩(ごま) を焚き、祈祷を行い、山中に行をつみ、密教に基づいて神仏いずれにも仕える修験道 には、熊野三山を修行の場とする本山派修験(天台山伏)と、吉野大峯修行を行う当 山派修験(真言山伏)のふたつの大きな流れがある。 現在でも、古式に従った装束に身を包み、法螺(ほら)を吹き鳴らしながらの厳しい峯 入り修行を、日常の合間に続けている行者が全国にたくさんいる。


天ノ川・序章天ノ川・水の郷天ノ川・洞川温泉街天ノ川・天河神社天ノ川を食べる身体検査

pick up 川