生きる
鬼の先生 大江町「日本の鬼の交流博物館」村上政市館長は、おのが一代、地図と歴史に遊んでいる幸せな男。と名乗った。「鬼の先生」にとって、由良川は「やればやるほど面 白い川」なのだそうだ。
鬼の先生「由良川レクチャー

「歴史の宝庫」

由良川流域には、ナイル川と同じように、はるか旧石器時代から、人間が海の道・川の道をたどって川をさかのぼり、文明を築いたことを証明する遺跡が山ほどある。3000年前の集落遺跡からは、古代中国製の「缺状(けつじょう)耳飾り」も出た。
日本一低い分水嶺があるくらいの地形なので、由良川流域は、日本海と瀬戸内海を容易に結ぶ流通ルートとして、古くから開けた地域だった。丹波・丹後には、平家や源氏の落人が隠れすんだ隠田集落が散在する。これを恐れた江戸幕府は、流域に小さな藩をバラバラに置いた。譜代と外様を争わせて勢力と関心をそぎ、現大江町の一部を天領として睨みをきかせたのだ。そして明治維新・・・。時の志士たちが行き交い、集結する街道でもあった。

「鮭の川」

由良川は、鮭が遡上する最南端の川といわれる。大川神社はじめ鮭にまつわる伝承を残す神社も多く、神の使いにもなっている。現在は小田・牧川養殖漁業生産組合が京都府の援助を受けて鮭の放流を行っているが、悪条件が重なった2003年に川で捕獲されたのは、昨年の半分の60匹足らず。鬼の先生が子どもの頃は「清らかな川に、鮭が登る姿をなんぼでも見た」ものなのだが。

「川の思い出」

子どもの頃の河原での石の投げっこは、かつての藩の対立の名残であったのか。川といえば、洪水の恐ろしさ。かつて、大江高校の熱血先生でもあった時代の最たる仕事は、出水を見極めて休校にするか、あちこちから集っている生徒をいつ帰宅させるか判断を下すこと。天候と水量ばかりが気になる毎日だった。
川の氾濫は宿命とあきらめ、守るだけ守って、出来るだけやって、「水がついたら」(大水が出たら)互いに助け合おう。そんな時代は、炊き出しから、土嚢作り、各々の役割りは決まっていた。水防という意識で、人々が一体となった運命共同体がおのずとあったのだろう。

「伝承をとりもどせ」

稲作を中心とした水社会は人々の間に水で結ばれたルールを生み、文化を育んだ。田んぼや畦の保水力は土壌流出を防ぎ、遊水地の働きも持つ、防火用水としても使える。しかし、過疎化・高齢化の中で、田畑はつぶされ、村落共同体も、流域文化も失われつつある。内水排除の問題が大きくなってもいる。

つちかった文化と知恵、互助の精神をは山村の宝だ。これに新たな構想を加え、先生は今夜も鬼達と車座になって、ふるさと再生の策を練っているに違いない。

京都府観光連盟「鬼伝説『酒呑童子の里をめぐる』」
チャンネル北近畿「鬼にこだわった町づくり 村上政市さん」
両丹日日新聞社「大江山 日本の鬼の交流博物館」

 

由里さん 福知山市・堤防愛護会会長の由里和典さん

洪水は恐ろしかった

大水のたびに荒れ狂う由良川

上流部では険しい谷を刻む由良川だが、中流の福知山盆地では平地を流れ、再び山間部に入って川幅が狭まるため、大雨が降ると流れがとどこおって氾濫を起こしやすい。下流は更に勾配がゆるく、谷幅狭く蛇行しているので、洪水時は一気に水位が上がる。これは、洪水後の排水に長時間を要する地形でもある。

江戸時代末期に書かれた大水の様は、まさに地獄絵。酷くも無念のありさまだ。明治・大正に入っても氾濫は繰り返される。明治29年。福知山堤防復旧にあたり、町民数千人の嘆願書が提出され、町長が国を強く説得。堤の土台にドイツ製の鋼矢板を打ち込み、表面 をコンクリートで覆う強固な提体がつくられた。

「二十八災」の記憶

「にじゅうはっさい」と、昭和28年の台風13号の記憶を、深く刻んだ土地の人は呼ぶ。
「昭和28年。9月24日の台風13号北上に伴い、午後6時から降り出した雨、次第に激しさを増す。翌25日、暴風雨となる。早朝から由良川水位 が上がり始め、午前0時危険水位を超え、最高水位8メートル10センチメートルに達する。午後8時、左岸和久市堤防決壊。各所に決壊相次ぐ。一夜明け、福知山の町は水没し巨大な湖の如く。橋はことごとく流出し、一面の泥沼。水道、電気はもとより通信遮断。孤島のありさま。死者4名、重軽傷者798名、被害総額当時にして665億」

【語りべから】

鬼の先生
「洪水の凄さは体験した者にしか解らない。二階まで水が来て。その大水のさ中、波美(はび)地区の人たちは濁流渦巻く川に舟を出し、押しよせる流木をカギで引き上げて下流の橋を守りよった。そりゃ勇ましかった。恐れを知らない人たちでしたよ。


堤防愛護会会長
「福知山鉄道に勤めとりましたが、資材を山に運ぶのにおおわらわで。ひどいもんです。いらんものは、今ほかせっ、ちゅう不届き者もおって目も当てられない有様。水が引いて、何とか生活できるようになるに2ヶ月はかかる。飲み水はない、お便所も使えない。臭いはするし、何もかもがひっかかっている。40歳台の人はもう洪水の恐ろしさを知りません。あの怖さ、知らんと思うとぞっとする。寒気がしますわ・・・」

洪水の記憶
明智藪
▲明智藪

1580年、明智光秀は、福知山城下町建設にともなって、由良川が土師(はぜ)川が合流する 地点の氾濫を抑えるために、竹の水害防備林を伴う大堤防を1,700mに渡って築き、流れを大きく北に転じたといわれる。その水防林の北端部が「明智藪」として残っている。流域には利水・治水の功労者や築堤を記念した碑も多い。

洪水の家
▲洪水にそなえた家

この地に生きることを選んだ人々が、暮らしを守る術を駆使して建てたのが「洪水にそなえた家」。福知山市菱屋町、元呉服屋さんだった松田さんの三階建の母屋には、はずしたタタミを入れる高い位置の納戸や、家の中央に吹き抜けをしつらえ、仏壇など大切なものを最上階まで滑車でつるし上げる設備などが備えられている。

堤防は神様

日本で唯一、堤防をご神体とした「堤防神社」と「堤防祭り」が福知山にある。社を守り祭事を挙行するのが「福知山堤防愛護会」。前身は、昭和6年「第一回福知山堤防まつり花火大会」当時に発足した。以来、昼の堤防祭り、夜の花火大会として定着し、終戦後再開された福知山踊り「ドッコイセ祭り」と共に福知山の夏の風物詩となっている。

治水が全市民に行き届くまで

祭りは、「堤防があるから市街が守られている」という強い実感と感謝に支えられている。関係自治会が力をあわせ、経費を各所帯から集め、自治体・行政の援助ナシ。100%市民手づくりの祭りなのだ。
11代目堤防愛護会会長の由里和典さんによると、同会は、「にじゅうはっさい」を契機に堤防強化の気運が高まった昭和29年、特に水害がひどかった地区78の自治会が中心となって組織化された。昭和30年福知山信用金庫からの寄付で八つの神輿を購入。同59年、浄財を集め、陳情、直訴の末、神輿の倉庫があった御霊(ごりょう)神社境内に、「堤防神社」の社殿が完成した。
水害を何とか防止したいというのは、流域長年の悲願。近年の治水工事のおかげで大水害は嘘のようにおさまったが、決して安心はできない。会員の老齢化など悩みは多いが、災害の恐ろしさ、治水の大事さを知らない世代に伝えずにはいられない。

やっぱり由良川が好き!

10万人が集る花火大会の会場は、国土交通省が土手を階段状に整備してくれた。川と暮らす地元の人にとっては、恐ろしいけれど、もう生活の一部となった由良川の大事な祭り。決まりもないのに、祭りの一週間前から自治体や老人・婦人会による会場の早朝ゴミ拾いや草刈が始まる。大会終了後のゴミ拾いには生徒たちや行政も参加する。ゴミの持ち帰りが定着したお陰で、足の踏み場も無いほどだった状況が改善されてきたのが励みだ。
(注) 花火大会は平成13年から「ドッコイセ福知山花火大会」と改称された)

福知山観光協会「ドッコイセ観光ガイド」

 


堤防祭り

堤防祭り

▲堤防祭り

トラックに神体であるお神輿8基を載せて行幸する。街から堤防に出て、音無瀬橋を皮切りに決壊したことのある橋や水門5つを巡る。神輿を橋の中央に据え神事を行う。

 

堤防神社
▲堤防神社

福知山市内。神社のご加護により、再び水禍の来る事の無い福知山であることを祈念して建立された。活動の心のよりどころとなっている。

【一言メモ】

「主役は地域の住人」福知山河川国道事務所


流域の人々に「行政の動きは心強い」と言わせた福知山河川国道事務所。事業の原点 は、「地域の声を聞け!」。住民との交流やPRにも力を注いでいる。現在由良川の堤防整備率は30%。無機的なコンクリと違い、間伐材を使った新技術や捨石護岸が のどかな風景に溶け込み、川を歩いても気持ちがいい。

国土交通 省 近畿地方整備局 福知山河川国道事務所 「北近畿マルチシャンネル
間伐材間伐材の護岸
▲間伐材の護岸

 

由良川の恵み

【語りべから】・・・輝いていた川

鬼の先生「川ガキでしたよ。50年くらい前は魚の宝庫。きよらかな川だった・・。荒れ川だけど、素晴らしい川。当時の小学生の夢は由良川を泳いで渡りきること。お盆に泳いで「河童に足を引っ張られるぞ」と叱られたもんです。今の子ども達に、昔の川遊びを味あわせてやりたい」

愛護会の会長「舟の下、くぐれえ、っていわれて、くぐらなんだら遊んでもらえない。自分を守るすべを学んだ。たくましく育った。そうでもなければごっつい敵とも戦えられへん。陰湿な「いじめ」もなかった。「ごんべ」(いたずらっこ)だったからね、塩だけを持って行って、キュウリやトマトを盗み食いした。今はやかましく言って、川には近づけないが、大胆になることも必要。困ったことです・・・・。」

1970年「夏の日記から」「電車から見ていたら、ゆら川が見えました。キラキラ光る川では、たくさんの子どもたちが楽しそうに遊んでいて、鉄きょうを電車が通ると、川の中からみんなで見上げて手を振ってくれました」

恵み

養蚕と製糸の光と影

農林業を主体としてきた中下流域で、養蚕(ようざん)が始まったのは江戸時代から。冠水に強くて水防の役目も果たす「桑」は、氾濫のたびに肥料が良く入る自然堤防や低地に最適だった。桑の背を高く仕立て、水が出ても葉が泥まみれにならないよう工夫もされた。豊かな水、水質の良さは製糸にも向く。やがて、地場産業は丹後ちりめんや京友禅とも結ばれる。明治29年、綾部にグンゼ創業。それを契機に流域は全面桑畑となり、誰もが養蚕で貴重な現金収入を得た。
学校に行けない子はグンゼ・カネボウに働きに出された。工場には小・中学校もあり、勤めながら教育を受け、お茶やお花などの花嫁修業をすることが出来た。これは地域の幹部を育て、娘達の技術は嫁入った先の農村にとって大きな力となった。ここにひとつの文化・社会構想がある。最盛時、北近畿の経済発展を担った養蚕業・製糸業は、大戦を境に衰退をたどる。

蒟蒻の里「雲原」

櫂作さん
雲原・蒟蒻づくりの 櫂作健治さん

「あ、春の小川だね」。雪景色に埋もれ、由良川支流の雲原川が流れている。熊も鹿も、猪もいるという山里に美味しいコンニャクがあると聞いて訪ねて来たのだ。櫂作健治さんが焚いていた一斗缶の焚火に当たりながら、目の前の5mもあろうかと思われる木に目が行く。「これ桑」。よく見る背の低いのは刈り桑。ここは雪が多いからこうした「立木」仕立てにして風で雪が落ちるようにしているのだそうだ。川筋の桑同様、環境に合わせた農家の工夫。この村もかつて、養蚕や丹後ちりめんのはた織が主な収入だったのだと教えてもらう。

コンニャクは雪に閉ざされる豪雪地帯の冬の食で、各家で自家用につくられていたそうだ。今から12年ほど前、櫂作さんは、「栃木では乾燥して粉末にした芋からコンニャク作りをして大ヒット、コンニャク成金も出た」という新聞記事を読む。それでヒットなら、ここの生芋からつくるコンニャクの美味しさは数段上、だと、はた織の収入源を失った女性たちを集めてさっそく組合をつくり、丸コンニャクの製造に乗り出した。すべて手作り、余計なものは一切入れない、水がいいからとにかく旨い。評判が評判を呼んで、今はスーパーに卸す他、個人から注文も入る。旬に食べてもらう・・・がモットー。作って翌日には業者に、二日目で、年間約10,000個が消費者の口に入る。

 


蒟蒻つくり

蒟蒻

戦時中に農地改革の行われた村

雪の雲原近代砂防の先がけ「雲原の砂防」

櫂作健治さんと話していて、何気ない一言から始まった話は驚きの連続だった。まず、この山奥の、どの谷にも砂防事業が行き渡っているということ。そして昭和9年 に始まり戦時中も工事を継続、昭和27年に完成した事業と並行し、ランプも無かったこの村で斬新な農地改革 がなされたこと。しかも、これを実現したのが当時の雲谷村長西原亀三。大正6年、寺内正毅内閣の私設駐華公使として北京政府との間に1億4500万円の「西原借款」を結んだ西原亀三、まさにその人だったからだ。
 もとより山が深く荒れていた雲原は、昭和9年の室戸台風で徹底的なダメージを受けた。これを契機に災害のない豊かな村をつくろうとする西原の理想は大蔵大臣高橋是清を動かし、当時の国の砂防金額と同額の150万の災害補助金が支出された。これにあわせ、西原は奥に住んでいた村人を下に移住させ、集合していた家々を分散させるなど独自の構想で地域づくりに取り組んだのだという。

  ● 西原借款

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