石様々 島原半島・石に迫る
石様々
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びっくり!石の大活躍

石垣・石橋・水路。どこへ行っても石組みのオンパレード。島原は周囲138.3km、最高峰普賢岳(1,359m)から海まで一番近くて8km余りの部分もある半島だ。急斜面 を切り拓いた棚田の土留めも石。積み上げた人の技とこころがそのまま出るからか、様々な表情に個性とぬ くもりがある。

なぜだろう?石利用の理由

半島の石事情

南・北有馬両町の海岸部には太古の阿蘇山噴火で飛んできた堆積物もあるが、豊富にある石の主体は雲仙普賢岳や周辺火山、また佐賀県多良山系の噴出による角閃(かくせん)安山岩だ。硬く耐火性があり水を吸収しにくいが、縦に割れやすいことが特徴で建築資材に向くといわれる。石切り場から出る巨岩は主に城郭の堀などに用いられ、南有馬町の菖蒲田石切場では、戦前まで石を切り出して墓石や石臼などに加工して出荷していた。

橋の場合・・・

身近な木材を利用する手もあるが、何度架けても流される木造橋にかかる労力・金銭は大きく虚しい。一方で、九州には石橋文化が成熟した土壌がある。島原の人々にとっても石橋実現に寄せる憧れと信頼は大きかったことだろう。農村の日常生活で使われる石橋にも、経済性や石を運ぶ手間から、地元の石を活用したと考えるのが自然だそうだ。

垣や塀の場合・・・

寺社や山城を思わせる堂々たる石塀の内に庶民の住まいがあるのが島原。石垣で作られた塀は石の間の隙間にできた影が空気を冷やすので、熱気が少なく夏でもひんやりしている。風よけのための役割が大きいらしいが、ただで手に入る身近な石を積んだことで思いがけないメリットもあった。

田畑の場合・・・

傾斜地の開墾は、平野部と比較にならないくらいの労力と手間暇がかかる。耕すほどに後から後から出てくる石と格闘しながら土地を平らにし、小さな石も石積みの足しにして又開墾し、土地が平らになったら又開墾をし。こうしてつくり上げられた石積みの棚田の多くには、島原の乱以前にも遡る歴史がある。

 

面無橋

面無(おもなし)(山田川)

名工三五郎も成し得なかった自然石だけ用いた日本に残る最後の石橋。橋には雑草が生えていて道とも風景とも同化している。押し合いへしあい互いを支えあっている石の表情がユーモラス。

北有馬で眼鏡橋を探す

島原半島にはアーチ式石橋(眼鏡橋)が32基あるが、そのうち11基が北有馬町にある。面 無橋(おもなしばし)が最も古く慶応年間1867年ごろの作で、それ以外は明治以降のもの。石橋づくりが苦労の伴う事業であったことは確かだが、技術確立・普及の時期に入っている。頑強で維持管理の手間が少なくて済むことに加え、経済性の追求が容易になるなど時代背景もニーズも昔と変わっていたようだ。

北有馬町の石橋ガイドはこちらへ
「石橋コース」探検きたありま(北有馬町役場)

 

 
元平橋 田中橋 荒田下橋
元平(もとびら)橋
(坂下川を下流からアプローチ・坂上下名元平)
車用の橋が並んで架かる。私有地なのか橋の際には猫の額よりも狭い畑。緑がからまり、ツタがぶる下がる橋の足元や石の隙間がコンクリで補強されていた。

田中橋
(坂下川・坂上下名田中)

歩くことに熱中していたら、きっと橋をわたった事にも気付かないだろう。一枚岩の上を水がなめ、その上からすっくりと立ち上がっている。高さに対して川幅があるので少し間延びしたところがまた、いい。

荒田下橋
(坂下川・田中橋上流)

川が大きくカーブするところの民家の脇からアプローチ。草木がうっそうと茂る中、小橋の桁下がブラックホールのように口を開けていた。下流から見る田中橋の全容には、傍では気づかなかった色気があった。

古代ローマにはじまったアーチ式石橋の技術が長崎に伝えられたのは江戸時代のはじめ。鎖国で途切れた石橋づくりが再開されたのは末期に入ってからで、長崎出島で技術を学んだ藤原藤七があみ出した技は、肥後の地で三男の岩永三五郎に伝授される。莫大な費用がかかるとはいえ、稀代の名工三五郎とその一族はじめ、仕込まれた石工たちが天保年間(1832年以降)から熊本、鹿児島を手始めに架けていった石橋はどんな立地条件でも洪水に流されないことが実証される。九州の山間部は谷をなし、年貢運びの妨げとなる川渡りの危険と労苦は並大抵ではなかった。「一生流れない太鼓橋をわが村にも」との悲願は、どんな犠牲をはらってでも子孫のために架けようという風潮を生む。農民達に応え、失敗したら腹を切る覚悟で最高の技を尽くして石工がつくる石橋は、農民にとって生活を託する大事な守り神でもあった。

大切にしたい!郷土を支えた石橋群
  石橋の歴史と北有馬町の石橋について (北有馬町役場・広報きたありま 平成11年10月号から)

「石のアーチ橋はなぜ落ちない?」
  アーチ橋の作り方など、知識満載(科学技術振興機構 JSTバーチャル科学館 )

●参考文献:「石橋は生きている」山口裕造著 葦書房

石のある風景 石の水路
棚田

棚田(南有馬町白木野)

高々と石積みされた棚田は怖いくらい切れ落ち、海まで連なるかのようだった。大きくて動かせない石はそのまま利用し谷の地形にあわせて作られているから、田んぼは曲がりくねったり広くなったり狭くなったりといろんな形をしている。「棚田での稲作作業は手間暇かかるので田に関わる頻度が多く愛着もひとしお」とか。パワーショベルを入れて新しい石組みもつくられていた。 コンクリはだめという取り決めはないが、大規模な崩壊は別として、石組みならば日常的な細かい補修や復旧が自分たちの力でできるからだそうだ。かつて農家のことを「百姓」(農業にかかわる百の技術を持つ人「百匠」)といった。石積みの面 倒を見るのも当然の技のひとつ。

溜め池ため池(南有馬町)

まだ水が入っていない棚田の中に空を映すため池が見下ろせた。雨が少ない時期の水を確保するための人工池で、水が比較的乏しい町内には約800のため池がある。山間部の棚田のほとんどがこの水に頼り、干ばつともなると見張り番がでるくらい緊迫した状況になることもあるのだそうだ。ため池のほとんどは2〜3人から100人近くの共有で、水利を必要とする人たちが管理している。ため池には水量 が増えたときに水を逃がす口と、「栓(しぇん)」と呼ばれる杭が打ち込んである灌漑用出口があり、田植えの始まる6月中旬になると引き抜いて水を流す。普段は鯉を放ち、子ども達が泳ぎフナを釣るため池の本番スタートだ。


情報提供: 北有馬町役場・北有馬町教育委員会・南有馬町役場・島原温泉観光協会・雲仙温泉神社


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