散逸構造

 

 

 東大名誉教授に清水博という生命学の大先生がおられる。その大先生がつい先だって「場の思想」(2003年7月17日、東京大学出版会)という本を出された。大変むつかしい本だが、大変役に立つ本である。清水博先生は、1932年生れであるので私より6年上である。東京大学の薬学部を卒業され薬学博士であるので、薬の先生かと思ったらとんでもない。大学院時代は化学物理学を学ばれ、ハーバード大学やスタンフォード大学でも研究生活をされたことのある生命学の大先生なのである。生命に関する学問をバイオホロニスというが、先生の研究は生命というものを分子のレベルから解明しようとするもので、もちろん世界最先端の研究である。先生は、九州大学理学部教授の後、東京大学薬学部の教授、定年後は金沢工業大学で「場の研究所」をはじめられたりしている。その行きつくところは当然かもしれないが、もともと生命学の大先生が哲学書かと見まちがう本を出されたのである。これはもうどうしても読まなければならない。哲学を勉強するものの必読の書だ。以下、シリーズで解説をしていきたい。

 

 まず、核心部分から入ろう。先生は、1990年10月に「生命を捉えなおす」の増補版(中公新書)を出しておられるので、まずはそれから勉強すべきとも思うが、まずは最新の書「場の思想」(2003年7月17日、東京大学出版会)から勉強し、必要に応じ「生命を捉えなおす」の増補版(中公新書)をひも解きたいと思う。先生は、生きている状態とは、一口で言って、生き物のなかで散逸構造が自己組織され続けている状態であるという。判りますか。判りませんよね。散逸構造がどのこうのといわれても、散逸構造そのものがどんなものかどうかさっぱり判らないので、チンプンカンプンだ。チンプンカンプンだが、あえて「場の思想」(2003年7月17日、東京大学出版会)から最後の核心部分を書き出してみよう。解説はそれからだ。

 

 『 私は九州大学理学部で生きている状態を複雑なシステム(complex system)の問題として解明することを研究室の目的に置いた。1970年からそこでおこなわれた研究の大まかなことは「生命を捉えなおす」(中公新書)に書かれている。一口に言えば、生きているという状態とは、生き物のなかで散逸構造が自己組織され続けている状態であるというのが、私たちの結論であった。自然界に現れる秩序には大まかに言って二種類のものがあることが知られている。第一はブロックを積み上げるように要素が足し算でつけ加わってつくられる秩序であり、第二は複雑なシステムに散逸構造として出現する秩序である。少々乱暴な言い方であるが、前者を線形的秩序、後者を非線形的秩序と呼ぶこととする。第一の秩序はよく知られているので説明を省略する。一言つけ加えたいことは、テレビやラジオなどで生物の活き(はたらき)を要素の決定論的な関係(因果論的な関係)によって説明しているが、これは生命を第一の線形的秩序であると考えて説明していることに相当する。第二の秩序の理解には複雑なシステムに関する知識が必要になる。ここでとりあえず簡単に説明しておこう。複雑なシステムはエネルギー的に解放されているために、その中を通貨が流れるように絶えずエネルギーが通過していく。その通過の過程で個人によって通貨が使われるように、エネルギーが要素によって熱に変えられるために、システムの内部のあちこちで熱の流れが発生する。もしも要素によるエネルギーの変換が互いに刺激しあっておきると、システム全体に「集団運動」が生れる。そしてその集団運動によってシステムの内部に生成するちょうど流行のモードに相当する秩序構造が散逸構造である。たとえば対流によってつくられるうろこ雲のパターンなどが散逸構造の例である。 』

 

 お判りになりますか。判りませんよね。判らん。さっぱり判らん。ということで、私なりの説明をするとしよう。第一の秩序、それは線形的秩序という言い方もできるかもしれないが、要は、幾何学的な秩序である。どんな形が生じるかが判り易いとでも言っておこうか。それに対し、第二の秩序、それは非線形的秩序という言い方もできるが、要は、もやもやっとして何ともいえないような秩序である。どんな形が生じるかが判りにくい。どういうルールがあるのやらないのやらさっぱりわからないというような秩序である。無秩序風の秩序とでも言おうか。服装の流行もそうだし、うろこ雲もそうだ。何が何やらよくわからん・・・というようなものだが、むちゃくちゃになって収拾がつかなくなるというようなものではない。それなりの秩序があるといえばある。一見無秩序のようであるが一応秩序である。まあそんな感じだ。散逸構造を・・・動的な「もやもや構造」・・・・といえばちょっとは判ったような気になるかもしれない。「生命を捉えなおす」(中公新書)に散逸構造の詳しい説明があるので興味のある方はそちらをご覧いただきたい。この散逸構造については、これによってプリゴジンという学者がノーベル賞を受賞したぐらいなので、そう簡単には理解できなくてもしかたがない。動的な「もやもや構造」・・・・というぐらいに思っておいていただければとりあえず結構である。では、清水博の説明を続けよう。

 

 『 西洋ではギリシャ時代にピュタゴラスやアリストテレスなどの影響によって、秩序と言えばブロックを積み上げたような線形的秩序構造が想定されるようになってきた。他方、東洋では仏教の縁起思想にその典型が見られるように箱庭型の非線形的秩序を想定してきたのである。そして秩序の型の差は神の国と仏の国の差となって宗教に現れ、そしてその宗教から影響を受けて哲学や文化の発展の型が決まってきたのである。西洋ではコスモスとカオスは二項対立的で対極にあるが、東洋の非線形的秩序では秩序とカオスを西洋のように対立的要素として区別しない。線形的秩序は西洋の庭園の構造のように幾何学的秩序という一つの静的な秩序構造によって示すことができる。非線形的秩序は京都の竜安寺の石庭にその構造が見られる。 』

 

 さて、これからが佳境に入る。清水博の説明を聞こう。

 『 私たちの研究によって生物が示す秩序の高い運動も散逸構造であることが証明された。システムの状態を状態空間における点(状態点)によって表現すると、安定した散逸構造ができる範囲のことをアトラクターと呼んでいる。たとえば散逸構造が時間的に変化をしなければアトラクターは状態空間における一点となるが、周期的な変化をし続けるときは一定の軌道となる。ブロック型の線形的秩序は要素の間の関係が固定されているために結晶のような固い構造をつくるが、箱庭型の非線形的秩序では全体的な秩序構造が存在しても、要素間の関係は柔軟である。このために秩序と無秩序とが同居することができるのである。 』

 

 

 それでは今までのところを私なりに説明しておこう。

生きている状態というのは、生き物のなかで散逸構造という動的な「もやもや構造」が自己組織され続けている状態である。人間もそうだ。したがって、いい加減といえばいい加減だが、東洋的な感覚は人間の本来の姿を捉えている。人間の感覚というものは本来もやもやっとしているもので、西洋人の感覚のようなきっちりしたというか合理的というか、幾何学的な秩序感覚は、教育によってむりむり仕込まれたものである。本来の人間の感覚、野生の感覚からすれば、ニューロン(神経細胞)に散逸構造ができると、意識事態ももやもやっとしてくる。すなわち、散逸構造ができると意識は流動的となるが、意識としてはけっして不安定というわけではない。状態点はアトラクターの中に留まっている。状態点とは、意識が安定をしているか安定をしていないかを表わす数学的な点だが、それがアトラクターの中に留まっているということは安定だということだ。生命学ではそういうことまで判っている。それを十分意識したうえで、清水博の説明をさらに聞くとしよう。

 

『 非線形的秩序は京都の竜安寺の石庭にその構造が見られる。これは庭に対して静かに座った人と庭とが主客非分離的状態に置かれると、人間の内部に複雑なシステムが生れて散逸構造が生成するのである。石庭はこの主客非分離状態で生成する散逸構造を想定してつくられた舞台であり、凍ったアトラクターである。そして人間の生命によって解凍され、自然の生命(純粋生命)を観客とする美と真の舞台として散逸構造を自己組織するのである。石庭に向かって座ったときに生じる私の意識はあちこちの石の間を関係づけて、たえず庭の空間を運動して休むことがはない。大まかにいえば庭を左右するが、しかしそれは軌道運動のように規則的な変化をするものでなく不規則な変化をするものである。一口に言えば、私の意識(自己)は石庭と非分離的になって石庭をアトラクターとして不規則な周期的変化(いわゆるカオス的運動)をしているのである。 』

 

 むつかしいがいいですね。すごいですね。いよいよ佳境に入ってきたようだ。

 『 私はこれまで生き物は自立的な複雑なシステムであり、生命はそのシステムの内部に生れる特殊な散逸構造であると考えている。私は科学技術の上では未知の「自己」という活き(はたらき)を「複雑なシステムとしての人間」を手がかりにして解明したいと思っており、そのために自己言及をする複雑なシステムに大きな関心を寄せている。竜安寺の石庭の前に座るとき、私は石庭と言う存在の世界において場所的自己言及をしているのである。論理の自己言及とは異なって、場所的自己言及には活き(はたらき)がまったく異なる脳と身体が関与する。脳は新しい情報を求めて情報量を拡大するように活き(はたらき)、そして身体はその情報をまとめて情報量を減少させるように活く(はたらく)結果、上記のアトラクターが生成する。自己の卵モデルはその場所的言及によってアトラクターを生成する思考モデルとして考えられたものである。 』

 

 さあ、またまた判らなくなってきた。「自己の卵モデル」とは何か。それを説明しないとどうも先へ進めないようなので、次は「自己の卵モデル」を説明するとしよう。

ここをクリックして下さい!