先に、『 私はこれまで生き物は自立的な複雑なシステムであり、生命はそのシステムの内部に生れる特殊な散逸構造であると考えている。私は科学技術の上では未知の「自己」という活き(はたらき)を「複雑なシステムとしての人間」を手がかりにして解明したいと思っており、そのために自己言及をする複雑なシステムに大きな関心を寄せている。竜安寺の石庭の前に座るとき、私は石庭と言う存在の世界において場所的自己言及をしているのである。論理の自己言及とは異なって、場所的自己言及には活き(はたらき)がまったく異なる脳と身体が関与する。脳は新しい情報を求めて情報量を拡大するように活き(はたらき)、そして身体はその情報をまとめて情報量を減少させるように活く(はたらく)結果、上記のアトラクターが生成する。自己の卵モデルはその場所的言及によってアトラクターを生成する思考モデルとして考えられたものである。 』と述べ、次に「自己の卵モデル」の説明をした。そこで、やっと話を続けることができる。
『 自己の卵モデルはその場所的言及によってアトラクターを生成する思考モデルとして考えられたものである。 複雑なシステムとしての観点から眺めると、卵モデルは即興劇モデルにつながっていくのである。
場という舞台に存在するということは、自己が場としてのアトラクター(場のアトラクター)に存在しているということである。それは存在者が場所的世界における場所的自己言及性によって生成したアトラクターに存在すると言う意味である。 』
むつかしい。実にむつかしい。卵モデルというものがむつかしいのである。生命学という科学がむつかしい。むつかしいが科学であるから、清水博は単なる観念からそういうモデルを提案しているのではない。科学的に実証できるのである。科学的な説明はその道の学者であれば疑問の余地がなく理解できるのだが、私たち素人にはイメージさえ湧かなくて・・・とても理解することは困難である。むつかしい。直感的な理解ができないのだ。清水博は、卵モデルによって、私たちになじみの深い「即興劇の原理」を説明しようとしている。一方、直感的理解を容易にするためのものとして即興劇モデルというものがある。即興劇モデルは「即興劇の原理」を直感的に理解するためのものであって必ずしも厳密ではない。卵モデルのほうがより科学的な説明が可能であるのかもしれないが、清水博は即興劇モデルも卵モデルと同じだといっているので、ここでは、適宜、即興劇モデルによって「即興劇の原理」を説明し、逆に卵モデルの直感的理解を深めることとしたい。
先に述べたように、安定した散逸構造ができる範囲のことをアトラクターと呼んでいる。したがって、上記でいう「自己が場としてのアトラクター(場のアトラクター)に存在しているということ」とは、「自己が場としての安定した散逸構造ができる範囲に存在している」ということである。散逸構造とは、判りやすく言えば、動的な「もやもや構造」であった。であるから、「自己が場としての安定した散逸構造ができる範囲に存在している」とは、「自己が場として動的でもやもやしているが安定している範囲に存在している」ということである。即興劇を演ずる役者は舞台に存在しているが、その場所というものは、動的でもやもやしているが安定している・・そういう場所である。動的でもやもやしているという意味は、観客からの反応によってどうにでもなるという意味であって、流動的なのである。可変的なのである。お客は神様というが、まあ観客というものは、即興劇を演じる役者にとって神様であり、そのお蔭で役者はそこに存在している。まあ言うなれば、存在者(神様)が劇場という場所的世界において用意したその舞台にその役者は存在して、その役者はその即興劇を演じているわけですね。役者の演技は役者が演じているのか、それとも観客という存在者(神様)が演じさせているのか。そこはもやもやっとして、いったりきたりなのではないでしょうか。存在者が場所的自己言及によってその場所が生成しているのかもしれない。要は、正確ではないかもしれないけれど感覚的に言えば、役者と観客との響き合い(一体化、共鳴、共振)を言っているのだと考えてもらえばいい。そして、即興劇モデルと卵モデルとの関係で言えば、いうまでもなく、役者は黄身であり、観客は白身である。西田幾多郎の「場所の論理」との関係で言えば、役者と黄身は「主語の世界」であり、観客と白身は「述語の世界」である。「場所の論理」を直感的に理解するためには即興劇モデルが判りいいし、「場所の論理」を科学的に理解するためには卵モデルが判りいい。場のアトラクターとは、即興劇モデルでは役者の動きうる範囲、卵モデルでは黄身の動きうる範囲である。
以上が理解できたところで、清水博の説明を続けよう。
『 自己の卵モデルはその場所的言及によってアトラクターを生成する思考モデルとして考えられたものである。 複雑なシステムとしての観点から眺めると、卵モデルは即興劇モデルにつながっていくのである。
場という舞台に存在するということは、自己が場としてのアトラクター(場のアトラクター)に存在しているということである。それは存在者が場所的世界における場所的自己言及性によって生成したアトラクターに存在すると言う意味である。それは第一に場のアトラクターの内部に自己が存在を与えられて散逸構造を生成しているということであり、そのために場のアトラクターと自己の身体の活き(はたらき)の非分離性が注目される。身体は自己の存在に重要な二重の働きをもっている。第一は世界との主客非分離状態の生成(場のアトラクターの生成)であり、第二は独立的な存在者相互との間の自他非分離的関係の生成である。存在者の場のアトラクターが身体の相互引き込み(エントレインメント)の活き(はたらき)によってコヒーレントとなるために、場と間が共有されて、それぞれの位置が場のアトラクターに位置づけられる結果として、各存在者はその場の内部にそれぞれのポジションを確保しながらそれぞれの局所的散逸構造を生成する。これが即興劇の基礎構造である。この即興劇では場のアトラクターは文字通りのアトラクターとして役者と観客を引きつける働きをするのである。このようにして自己組織的に創出する場におけるそれぞれの役割はドラマの筋書きがなければ決まらない。それを決めるものが観客と場のインターアクションである。観客が場のあり方を未来の方からガイドするのである。場のアトラクターは一般的にストレンジ・アトラクターであり、その内部に様々な「秩序」ばかりでなく、様々な「無秩序」も包摂しているために、どのようなシナリオに対しても即興的に対応できるのである。 』
いやあ、すごい!すごいですね。核心部分のまさに核心に入る。
『 その意味では人間は本質的に「悪人」であり、純粋生命に導かれなければ秩序を生成することができないのである。観客としての純粋生命による導きを無視すれば、もともと「悪人」である人間は欲と慢によって狂う。歎異抄の「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなり」という言葉は、自己における人間的本質に透徹した
「役者」の言葉である。矛盾的自己同一による統合や即非の論理など東洋の論理を複雑なシステムのダイナミックスに結び付けて場のアトラクターを考えていくことは極めて興味深い課題であることをここで指摘しておきたい。 』
なお、いきなり核心部分から入ってここまできたのだが、理解しにくいところがあるかもしれない。折にふれ解説を加えていくので今のところはこの程度の解説でガマンしておいて欲しい。最後に、科学的に解明しなければならない課題は多いと思われるが、清水博が指摘する最大の問題を紹介してとりあえずは筆を置く。
『 「複雑系の理論」はストレンジ・アトラクターの性質について豊富な示唆を与えてくれる。複雑系の研究が人間に与えた衝撃と意義は誠に大きい。しかし他方で、現在の論理形式のままでは複雑系の理論はこの条件(二重論理の構造)を満たすことができない。その原因をたどっていくと、複雑系の理論で使われている数学が主客分離的構造をもっているということに行き着く。このことは複雑系の理論は脳(黄身)が身体(白身)の活き(はたらき)を事後的に解釈して表現することに相当している。身体の活き(はたらき)という語れないものを、脳が語ってしまうために、複雑系の理論は唯脳的な一重論理の構造をもってしまうのである。そして合わせ鏡の世界を覗くように、一つの数学的な論理構造を同じ構造に写して表現することから、場所的自己言及の代わりに論理的自己言及が生れて、回帰的な無限の繰り返し(論理的パラドックス)の構造が展開される。これは数学的には興味深い現象であるが、この論理のままで場所的自己言及(創出における黄身と白身の事前的な絡み合い)を表現することはできない。したがって生命の主体性と創造性という生命にとって最も基本的な性質を複雑系の理論のままでは表現できないのである。これらの議論は一般的な哲学書としての本書の範囲を越えるので、いずれ稿を改めたいと思っている。 』
それでは次に、いよいよ、関係子(メディオン)とは何かを説明します。清水博の生命関係学の核心部分です。