清水博の「生命を捉えなおす」(中公新書)は、初版が1978年である。その後大いに研究も進み、その増補版が出たのが1990年5月である。特に注目すべきは「関係子」という考え方であろう。中村雄二郎はメディオンと呼んだらどうかとアドバイスしたようであるが、中村雄二郎のリズム論とも関係が深く、関係子が発生するリズムの「相互引き込み現象」は清水博の画期的な発見であるといえるようだ。関係子に関する研究がこれからどんどん進み、生命の神秘がもっともっと明らかにされるであろう。清水博の名付けた関係子というものの着想は実にすばらしい。しかし、最近出版された「場の思想」(2003年7月7日、東京大学出版会)には、あまりにも専門的すぎるということであろうか、関係子の話が出てこない。誠に残念である。
清水博のイメージする関係子という概念と、中村雄二郎のイメージするメディオンという概念とは厳密にいえば必ずしも同じものではないのかもしれないが、私は、哲学としては、やはりメディオンの方がなじみがいいと考えている。哲学としては、意識野を駆け巡る粒子又は波動(リズム)というイメージではなかろうか。唯識においては、意識と無意識の間を循環する粒子又は波動(リズム)というイメージではなかろうか。私は、今まで、そういうイメージで粒子又は波動(リズム)という言葉を使ってきたが、私は今後、そういう粒子又は波動(リズム)をメディオンと言い換えることとしたい。私は、中沢新一の「神の発明」(2003年6月、講談社)におけるスプリットに注目しており、私の提唱する「劇場国家にっぽん」で大いに使わせてもらおうと考えているが、「この世」にスプリットが出現する場合私たちの意識野にどのようなメディオンたちが出現しているのか、そんな問題が問題になってくるように思われる。スプリットたちとメディオンたち、なかなか面白いテーマではないか。メディオンについてはおいおい語っていくとして、ここでは、清水博の名付けた「関係子」について、その要点を説明しておきたい。
私は今まで、生命学という言葉を使ってきたが、清水博は、生命学とは言わないで、「生命関係学」と呼んでいる。その理由は、関係性というものの重要性を十分認識した上でのことである。生命システムは多様な複雑性とそこに自己組織される秩序があるというのが清水博の基本的な考え方であるが、その場合、清水博の考えからすると、その秩序というものは一義的なものではなく誠に多義性に富んだものである。そういう秩序の多義性というものはどこからくるのかというのがもっとも基本的な問題で、清水博は、生命の働きを生成的、関係的に捉えない限り、その問題は解けないと考えている。関係性というものの重視である。その粒子がたくさん集まったときにその状態によってグループとしてのいろんな機能が出現してくるのだそうだ。もちろん粒子ごとに特定の機能というものはあるのだが、グループとしての機能はそれら個々の機能の合計ではなくて、全然別の新たな機能は追加的に出現してくる。それは何故か。多くの粒子がどういう状態になっているか、そそれら粒子の間の関係性によって、いろんな機能が出現するのだそうだ。そういうことで、関係性というものが大事である。そういう関係性というものに着目して研究を進める必要がある・・・というのが清水博の考えである。
さて、清水博は、「生命を捉えなおす」(1990年増補版、中公新書)で次のように言っている。
『 生命システムは絶えず不確定な変化をする環境のなかで生きていかなければなりません。そのためには生命システムが環境のなかで何らかの積極的な活動をする必要があります。どのような活動がふさわしいかは、そのときのシステムの状態と環境の状態とによって変わります。一般に環境は複雑で、その変化は規定できません。そのためにすべての操作情報(この場合はフィードフォーワード制御に用いる情報)をあらかじめ用意しておくことはできません。そして状況に応じて適切な操作情報を自己組織する必要があります。 』
やはりむつかしいですね。むつかしい。先述のように、直感的な理解のために、即興劇モデルをつかって解説しよう。劇場で役者が即興劇を演じている。観客がそれを見ている。照明装置や音響装置などの劇場としてのシステムが当然ある。まあ、言うなれば、即興劇を演じる役者は、劇場主やシナリオ作家や演出家などからあらかじめ必要な情報を与えられているが、劇が始まってしまうと、あとはもう、観客と舞台と一体になって自分の思うように臨機応変に演技を演じる。それが即興劇だが、清水博は、「生命を捉えなおす」(1990年増補版、中公新書)で次のように言っている。
『 役者の演技は、大まかな筋という拘束条件のもとで、大ざっぱに決められますが、具体的には役者同士の演技の相互関係によって、選択されたり、つくられたりしながら劇を進行させていくのです。その演技は、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら展開していく必要があり、場違いな演技をすることはできません。 』
上記の記述の中には、環境とシステムは記述されているが活動主体が記述されていない。しかし、文中、操作情報という言葉が使われているがそういう情報を自己組織する活動主体というものが念頭にあり、清水博はそれを関係子と呼んでいる。すなわち、関係子とは、システムや環境から発せられるさまざまな情報を受け取って、臨機応変に、あらたに自らの活動に役に立つ・・・いわゆる操作情報というものを自己生産している。自己組織という言葉を使っているが自己生産という意味で理解してもいい。より正確にいうと、自己組織するとは、自己生産しながら自分の組織に組織化してしまうという感じである。言葉というものは感じが大事なので自己組織という言葉にそういう感じを感じて欲しい。要するに、関係子というのは、意味のある操作情報を自己組織するのである。
即興劇モデルでいえば、環境は観客、システムは劇場の照明装置や音響装置などの劇場システム、関係子は役者ということになるが、場の情報、すなわち劇場全体の情報は、それぞれ環境からの情報、システムからの情報、関係子で自己組織される情報のトータルである。
そういう場の情報については、清水博は次のように述べている。
『 一般に場の情報は、環境、システム、関係子という順に上から下へと流れて、環境やシステムの状態を要素である関係子に伝え、そして関係子群の情報生成によって、関係子の状態が下から上へと逆行する状態で運ばれ、全体として情報の循環ループが形成されます。このように循環する情報は、関係子をシステムのなかで位置づけるばかりでなく、また環境のなかでも位置づける働きをします。
これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素のとの関係、そして要素と要素との関係だけを論じてきましたが、環境とシステム、そして環境と要素との関係を、意味的な面を含めて議論するために本当に必要な方法をもっていませんでした。今後は環境の複雑さを前提として、環境、システム、要素の三者の関係を取り扱うことのできる科学をつくることも含めて、環境から関係子である人間に送られてくる場の情報を読み取ることが、ますます重要になってくるでしょう。 』
メディオンについてお判りになったでしょうか。関係子は清水博の生命関係学の核心的な概念ですが、メディオンはそれを普遍して「場の思想」という清水博の哲学の核心的な概念だとお考え下さい。その点を一応お判りいただいたとして、これから哲学的な話に入っていきます。清水博の哲学と唯識という仏教哲学との接点を見い出したいと思う。
それでは
「唯識とメディオン」です!