私は、清水博の「生命を捉えなおす」(1990年増補版、中公新書)の中の説明・・・・・・『 生命システムは絶えず不確定な変化をする環境のなかで生きていかなければなりません。そのためには生命システムが環境のなかで何らかの積極的な活動をする必要があります。どのような活動がふさわしいかは、そのときのシステムの状態と環境の状態とによって変わります。一般に環境は複雑で、その変化は規定できません。そのためにすべての操作情報(この場合はフィードフォーワード制御に用いる情報)をあらかじめ用意しておくことはできません。そして状況に応じて適切な操作情報を自己組織する必要があります。 』・・・・という説明について・・・・、『 やはりむつかしいですね。むつかしい。 』といいながら、直感的な理解のために、即興劇モデルをつかって次のように解説した。
『 劇場で役者が即興劇を演じている。観客がそれを見ている。照明装置や音響装置などの劇場としてのシステムが当然ある。まあ、言うなれば、即興劇を演じる役者は、劇場主やシナリオ作家や演出家などからあらかじめ必要な情報を与えられているが、劇が始まってしまうと、あとはもう、観客と舞台と一体になって自分の思うように臨機応変に演技を演じる。それが即興劇だが、・・・云々』・・・と。
そして、一連の説明で、環境は観客、システムは照明装置や音響装置などの劇場としてのシステム、関係子は役者に相当するとして、最後に、・・・・・・『 一般に場の情報は、環境、システム、関係子という順に上から下へと流れて、環境やシステムの状態を要素である関係子に伝え、そして関係子群の情報生成によって、関係子の状態が下から上へと逆行する状態で運ばれ、全体として情報の循環ループが形成されます。このように循環する情報は、関係子をシステムのなかで位置づけるばかりでなく、また環境のなかでも位置づける働きをします。
これまでのシステム論では、環境はシステムに対する固定された境界条件であると仮定され、その中でシステムと要素のとの関係、そして要素と要素との関係だけを論じてきましたが、環境とシステム、そして環境と要素との関係を、意味的な面を含めて議論するために本当に必要な方法をもっていませんでした。今後は環境の複雑さを前提として、環境、システム、要素の三者の関係を取り扱うことのできる科学をつくることも含めて、環境から関係子である人間に送られてくる場の情報を読み取ることが、ますます重要になってくるでしょう。 』・・・・という清水博の考えを紹介した。場の情報というものは、環境、システム、要素(関係子)の三つがある。場の情報というものは、分類して、三つしかないということだが、しからば即興劇モデルにおける劇場主や作者や演出家などの情報はどこに分類されるのか。このことを明らかにしておかないと、清水博のシステム論は実際の役に立たなくなってしまう。心配することなかれ! さすがに清水博、大先生である。そこは手抜かりがない。次のように述べてくれている。
『 大脳の働きとの比較で考えてみると、歌舞伎の大まかな筋を決める作者が古い皮質に相当し、その大まかな筋がセマンティックな拘束条件であり、役者は新皮質の生成的な関係子、観客は環境に相当します。この作者の働き方を規定する「世界」は、仏教で言うアラヤ識に相当するもので、無意識の世界にあって意識の働き方を決める幾つかの元型(井筒)に対比できます。 』・・・と。
さて、これで、いよいよ唯識と現代科学との接点がここにでてきた。面白い!!!興味津々!!!
それでは、いよいよ唯識を勉強するとしよう。現代科学との接点はそれからだ。唯識に関する解説書はいろいろのものがあるが、私は,NHKライブラリーのもの、岡野守也の「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)が解り易くて良いように思う。
皆さんには、是非、岡野守也の「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)の全体を勉強して欲しいが、とりあえずここでは、唯識と現代科学との接点を説明するために必要な基礎知識として心の構造がどうなているのかを勉強することとしたい。まず、第5章の「心の仕組み」(四と八の話)の要点を掲げておく。
まずは、心の八識・三層構造についてである。岡野守也の話を聞いて欲しい。
『 今までの話では、唯識がなぜ大乗仏教の「深層心理学」なのかおわかりいただけなかったと思いますが、ここからいわば「深層心理学」に入っていくわけです。私たちの心の中、表面のわかっている心以外の深いところに、自分でもよくわかっていない心がある。そこを非常に深く洞察していったのが唯識です。
まず「マナ意識」ですが、「マナ意識」とは、やさしい言い方に置き換えると、「自分というものがあると思ってこだわる心」です。これが「意識」と「五感」に続いて7番目の「識」になるのです。
人間の心の奥に、自分というものにこだわる心があること、つまり「マナ識」の発見が、人類の思想史・精神史上、唯識の画期的なポイントだと私は思っています。私は唯識を学んでこの「マナ識」という概念に出会ったとき、「そうか、人間の根本的な問題は、ある意味でいうと、すべてここに集約されるのだな」といった思いで理解したことを覚えています。
意識と五感は深層心理学でいうところの「意識」でありますから、これをひとくくりにして、唯識ではさらにその奥に、「命を維持しており、命に執着していく心の働きがある」と考えています。また、命を種に譬えて、「命の種を蓄えているような蔵のようなものだ」と考えています。蔵という意味のサンスクリット、「アーラヤ」という言葉を使って「アーラヤ識」と呼ばれています。これが心の底にある八番目の心の働き、識です。
以上、唯識では心を八識に分けて考えるのですが、「意識、五感」、「マナ識」、「アーラヤ識」というふうに、三つの層として捉えるのが判り良いかも知れません。
心の表面から奥底まで、凡夫は全部分ける心、分けへだてする心、そして分けておいてこだわる心という状態でものを見、感じ、そして欲求し、意志決定をしているわけです。それが全く逆に心の表面から奥底まで分けない心、分けへだてしない心、分けへだてしないからこだわることもないという心に変わっている。それが「仏」なのです。そういう意味で、仏教の説明体系はとてもよくできていると、学べば学ぶほど思います。分けへだてする凡夫から、分けへだてをしない仏に変わっていく。突然変わるわけではなくて、分けへだてをしていて、そこでいろんなことで悩んで、「これではいけない。何とかそうではない心に変わりたい」と思ったときに、悟りを求める存在に変わる。その悟りを求める存在が「ボーディサットヴァ」、その漢訳の省略形が「菩薩」です。
つまり、凡夫から仏への成長・変化を目指してトレーニング・修行している人を菩薩という。
そういうふうに、唯識は、人間が凡夫から菩薩になり、菩薩からさらに仏になっていく、その心の成長・変化を、心の奥底の仕組みまで見ているわけです。そういう意味で、まさに「大乗仏教の深層心理学」と呼ぶことができるのではないかと思います。 』
それでは次は、アーラヤ識とマナ識と意識との関係を勉強しよう。