アーラヤ識 ─マナ識 ─ 意識の関係

 

 

 以下も、NHKライブラリー・岡野守也の「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)からのピックアップである。

 

 

 『 その心の奥底のアーラヤ識とマナ識と表面の意識との関係がどうなっているかを簡単にお話ししておきます。

 唯我では、アーラヤ識は命の種子の流れのようなものと捉えていますから、水滴が集まって激しく流れているが、ある一定の流れを持っている、「川」に譬えられるでしょう。

 川というのは実は水滴が集まって地面のくぼみのある流れの方向性にしたがって絶えず流れている状態です。それにつけた名前が「川」です。ところが、そのほとりに立って流れを見ていると、一本の「川」というものがずっと変わることなく、実体としてあるかのように見えてくる。よく考えれば、くぼみがなくなれば川はなくなる。雨が降らなければ川はなくなる。そして現に今「あ

る」とははいっても、「流れている」わけですが、そういったことをほとんど忘れて、「川そのもの」が固定的にあるかのように思うわけです。

 それと似て、私たちの心の奥底では、「マナ識」が、「アーラヤ識」から生まれたものでありながら、「アーラヤ識」を見るようになるのだといわれます。つまり、命の流れの世界を私という心の奥の思いが見たとき、それを「私の命」と見るのです。「命の流れ」を固定的な「私の命」と思ったとき、当然のことですが、そこにこだわりが始まるわけです。

 アーラヤ識のレベルでも、命と命でないものがすでに分かれてしまっているのですが、それだけでは大きな問題は起こらない。それに対して、心の奥で自分という思いが起こつてきて、自分という思いで命の流れを見たとき、もう「流れ」というよりは「私の固定的な命」と思っており、そこに自分の命に対するこだわりが起こつてくる。それは、現代的にいえば「深層心理」で、ふだん気がついているような意識的な心ではないのです。ところが、そういう命へのこだわりと自分へのこだわりという悪循環で働いているマナ識とアーラヤ識という深層心理を元に、そこから意識的な心が働いてくるわけです。いいことをするときにも、自分と自分の命へのこだわりを元にしていい・悪いを考え、それにこだわっていいことをしようとする。同様に悪いことをするときにも、自分と自分の命にこだわって、そのこだわりを元にして悪いことをする。どっちにしてもこだわりを元にしている。こだわりを元にしていますから、命あるいは命を含んだすべての宇宙の大きなダイナミックな動きについていけなくなる。

 「無常」というと何かニヒルに聞こえますが、そうではなく、ダイナミックな動きと考えた方がいいのですが、その動きについていけなくなる。動いている宇宙の動いている部分としでの私が仮にある私なのに、動かないようにしよう、固定しよう、固定した上でふくらませ、太らせ、もうけさせていこうというような心が絶えず意識に湧いてきます。

 そういう思いが意識に湧いてくる元には、「マナ識」と「アーラヤ識」の悪循環がある。そこから起こってきたこだわりの心で意識の心が働いていますから ─ ─意識の心が働いた結果として残っていく影響力を種に譬えるわけですが ─ ─そのこだわりの種子が、またアーラヤ識に貯められていく。深層のこだわりの心から生まれてきた表面のこだわりの心が、再び深層にこだわりの種子として蓄えられていく。 』

 

 

 まあ、判りにくいですね。むつかしい。むつかしいがここがいちばん大事なところであるので、私流の説明を試みてみよう。

 マナ意識とは自分に執着する心の働きであり、アーラヤ識とは生に執着する心の働きである。しかもそれらは無意識の領域で働いている。働いているということは心の細胞組織がピクピク振動しているということだが、そのリズム振動は、右側のマナ意識から右側のアーラヤ識、右側のアーラヤ識から左側のアーラヤ識、左側のアーラヤ識から左側のマナ意識、左側のマナ意識から右側のマナ意識へと、伝わっている。ピクピク振動というかリズム振動がマナ意識とアーラヤ意識をぐるぐると回っているという訳だ。そのようにイメージしてもらいたいが、説明上、振動という波動が回るというのを・・・・「種」という粒子が回ると言い変えよう。光は粒子でありながら波動としての性格も有していると言われているように、波動を粒子に言い換えることはあながちまちがっていないものと思われる。マナ意識の領域とアーラヤ意識の領域をぐるぐると「種」という粒子が回っている。波動が伝わるように回っている。同じように、意識の領域とマナ意識の領域にも「種」という粒子の円運動があるとイメージされたい。そればかりではない。意識の領域とその下のマナ意識の領域と一番下のアーラヤ識の領域の・・・3つの領域をぐるぐる回る大きな円運動もある。

 このようにして、「種」という粒子の円運動によって、意識の領域において発生した記憶(情報)がマナ意識やアーラヤ意識に伝えられるのである。また、もともとあったマナ識の記憶(情報)が「種」という粒子の円運動によってアーラヤ識や意識の領域(意識野)に伝えられる。「種」はいうなれば情報のキャリヤである。

 

 

 ところで、ここからが私の理解であり、単なる直感でしかないが、意識野の中の円運動についてである。第四の円運動とでも言おうか、これと上記の三つの円運動を関係づけることによって、唯識と現代科学との接点が出てくると思われる。私のイメージを申し上げる。  

 意識野ではそのキャリアから環境とシステムとメディオンがそれらの情報を受け取るのである。ここでいう環境とは、五感を通じて大脳の中に入ってくるいろんな情報の意識野における姿である。システムは、意識と無意識の領域における運動システムである。メディオンは、意識野において環境を意識しそれを取捨選択すると同時に・・・新たな意味のあるセマンティック情報を自己生産しながら自分の組織に組織化してしまうのである。環境としての情報、システムとしての情報、メディオンとしての情報、それらが意識野という場における情報であり、「種」というキャリアに乗って意識野の中をぐるぐると回っている。上記の円運動は、意識野とマナ識との間、マナ識とアーラヤ識との間、意識野とマナ識とアーラヤ識との間の三つの円運動であったが、今新たに説明した円運動は、意識野の中にある環境とシステムとメディオンの間の四つ目の円運動である。

 清水博たちの生命科学という生命に関する最先端の現代科学と唯識との接点が何とかついたのではなかろうか。少なくとも、唯識における心の仕組みについての考え方は、清水博たちの生命科学という生命に関する最先端の現代科学と決して矛盾するものではない。むしろその妥当性を裏打ちしているのではないかと思われる。

 それではもう少し唯識における心の仕組みを深く勉強することにしよう。

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