アーラヤ識とは何か

 

 

  唯識では、私たちの心のいちばん深いところには「アーラヤ識」という心の働きがあると捉えているのだが、これについても岡野守也の説明がわかりよい。先のNHKライブラリーから関係部分をピックアップしよう。

 

 『 アーラヤ識は、私たちが過去に行なった書や悪の行為が、その過去とは異なったときに、善でも悪でもない、異なった低質のものとなって熟す ─ 「異熟(いじゅく)」といいます ─ 心の働きである。そして、それがすべての存在を実体的に存在すると見せてしまうというか、錯覚させるというか、仮構する、そういう元になる、種子となる心の働きである。

 つまり私たちは、生まれてからふと気がついてみると、大人になっていて、大人になると、いつのまにかある特定の心のあり方を持っているわけですが、それはどうも何か過去につながっている。しかも自分自身が知らない過去から、自分自身の命が生み出されてきている。その自分が意識では知らないところから、心が生まれてきているわけですから、その過去の何かは、やはり一種の心なのではないかと推測したのだと思います。

 それから、仏教には「輪廻」という考え方がありますから、人間は、生まれては死に、生まれては死に、さまざまに生まれ変わって輪廻転生していくわけです。輪廻転生するときに、前の生が終わって前の生の意識がなくなってしまっても、また次の生にやがて心・意識が生み出されてくる。その間のつなぎ・媒体になる、その心はいったい何なのだろうと考えたときに、「アーラヤ識」という概念が生み出されたのだと思います。

 もし輪廻転生がないと考えるとしても、私たちの命がある種の、現代的な言葉でいうと「情報」として、ずっと親から、そのまた親から、そのまた親から・・・というふうに、何百年、何千年、何万年、何十万年、何百万年というふうに伝えられてきているからこそ、今私たちのこの命がある。これはいえることです。

 唯識が「アーラヤ識」という概念でつかまえようとしていたものは、現代の考え方と重ねていうと、遺伝子の中に含まれている「遺伝子情報」とそうとう重なっているといっていいと思います。

 しかし大事なところは、私たちがふだん自分で知っているつもりの心の世界よりもはるかに深いところに、命を生み出し、命を維持していくような働きがある。その心のいちばん奥底の働きによって、私たちの今自分でわかっているつもりの心の働きが規定されているというか、コントロールされているというか、決まっているというか、そこに唯識は気がついていたということです。

 しかも唯識は、そういう命を伝えているような非常に深い心の奥底の働きが、まず過去と今という意味で「異なったときに熟してくる」と捉えた。それと同時に、さらにもう一つ、過去によいことをしようが悪いことをしようが、その性質をそのまま背負うのではなくて、「性質が異なって熟してくる」、ある意味で一回白紙になって伝えられてきて、またそこで新たに芽吹いて、芽吹いたと

きに善になったり悪になったりするという考え方をしている。ここは非常に大事だと思います。

 それからもう一つ、私たちが深く考えよく見ていくと、すべてはつながっており、すべては「空」であるにもかかわらず、私というものが、他人というものが、物というものがばらばらにそれぞれに実体として存在していると見てしまう。いつのまにか見てしまうように私たちはある意味でさせられているわけです。だから、自分でも気がつかない心の奥底に、私たちに妄想をいだかせる、錯覚をいだかせる元になっている心の働きがある。そういうふうに唯識は見ています。

 この二つのポイントがとても大事だと思います。まず私たちの心のいちばん深いところ、現代的な用語で言い換えれば、生命情報の世界は、善でも悪でもない。過去のさまざまな影響が残り、そこに伝えられてきているのだけれども、それ自体は善でも悪でもないのです。しかし確かに善でも悪でもないのだけれども、同時に人間に分別をさせてしまう元になっている。人間の心の奥底に、どうしてもそういうふうにものを見てしまう元になる心があって、しかもそれ自体は善でも悪でもない。この点が非常に深いと思います。 』

 

 

 それでは、次に、「性善説と性悪説を超えて」という岡野守也の説明についても紹介しておくこととしよう。アーラヤ式をより深く理解するために・・・・である。

 

 『 人間は、心の底にやがて善になったり悪になったりするようなものを蓄えており、特に迷いの種子を蓄えてきているのですが、それは一種の「蔵」ですから、そこに蓄えられているものがどんなにダメなものだとしでも、蔵自体が悪いわけではありません。

 譬えると、ここに倉庫があるとします。もしそれが、不良在庫でいっぱいの非常に困った倉庫だとしても、それは倉庫自体が悪いわけではない。不良在庫を優良在庫と全部取り替えてしまえば、同じ蔵が非常にいい蔵に変わる。私たちの生命情報の根底にあるものは、現段階では迷いの種ばかり、不良在庫ばかりかかえているのだけれども、それ自体が悪いわけではなくて、中にある種、中にある不良在庫を全部優良在庫に取り替えれば、すばらしいものになりうる。人間の最も根底はそういうものなのだ。そういうふうに唯識は捉えているわけです。

 従来、性善説と性悪説、人間は本来善だとか、人間は本来悪いという対立した考え方がありますが、これは、その両方を含んで超えるような考え方だと思います。

 

 人間は生命情報の根底のところにさまざまな煩悩の種を貯めていますから、現状は本当に悪い。ほとんど絶望的なまでに悪い。そのことをしっかり見つめているわけです。底まで悪い、底の底、アーラヤ識まで悪い。しかしそれはアーラヤ識そのものが悪いのではなくて、貯められている種子が悪いのだ。だから種子を取り替えさえすれば、人間はすばらしくなりうる。つまり今人間が凡夫であるのは、種子がそうだからで、種子を取り替えれば、人間は菩薩にも悟った存在・仏にもなれる。

 

 人間の脳は過去からのさまざまの情報によって条件づけられている。確かに今までの条件づけでは、人間はさまざまな問題を起こすが、その条件づけを変えれば人間は変わりうる。つまり、人間の大脳新皮質からさらに脳の辺縁系や脳幹に至るまで、人間の中に蓄えられている生命情報のいわば種類を次第に変えていく、記憶を変えていくことによって、人間は変わりうる。そういうことを、生理学的な側面からではなくて、心の側面から、しかも自分たちの修行体験の中から明らかにしていった、その概念がアーラヤ識だと思うのです。けだし、これからの時代、身体と脳の学習プログラムが何よりも大事だと思いませんか。 』

 

 次はマナ識だ。どうしても自分にこだわる心はこのマナ識から生じてくる。

マナ識について・・・・・、

ここをクリックして下さい!