以下も、NHKライブラリー・岡野守也の「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)からのピックアップである。
『 アーラヤ識の話はそれだけにして、次にもう一度「マナ識」の話をしていきたいと思います。
人を差別してはいけないとか、好ききらいをしてはいけないとかと、意識でいくら思っても、そういう思いが心の奥からどうしても湧いてきます。そこに働いているものを、はっきりと自覚するために言葉として「マナ識」と呼んだわけです。
そのマナ識の働きが一体どういうものかを、唯識派の人たちはさらに深く禅定と思索を通じて見つめ、こういうことを発見しています。『唯識三十頌』の句をさらに引用します。
四つの煩悩(ぼんのう)と常に倶(とも)なり 謂(い)わく我癡(がち)と我見(がけん)と併(ならび)に我慢(がまん)と我愛(があい)となり 及び余の触(そく)等と倶(とも)なり
すなわち、心の奥に四つの根本的・基本的な慣悩がいつもあるというのです。
(1)煩悩の第一は、「我癡」です。これは真諦訳では「無明」と訳されています。つまり、私、他人、物は分かれて存在しているのではなく、本来一つであり「空」だということ、「無我」ということ、その「無我」についての根本的な全くの無知、全くの無理解、それが頭の先・意識だけではなく、心の奥深くにあるというのです。
(2)ただ単に「無我」について知らない、わかっていないだけではなく、私というものがいるとしつかり思っていて、私はこういうものだと思っている。「私」という見方がはっきりある。それを「我見」といいます。
(3)そういう「私」というものは価値あるものだ、意味あるものだ、生きる権利があるのだというふうに、自分をよりどころにする、頼りにする、誇る。それを「我慢」といいます。これは「我慢する」という日常語の語源ですが、ちょうど意味が逆になっています。我慢するのはふつうはいいことなのですが、唯識でいう「我慢」は、本当はありもしない実体的な自分というものをよりどころ・究極の根拠にしてしまう心のことです。
(4)無知であるだけではなくて、「自我」というものがあると思いこみ、さらにそれをよりどころにし、誇り、さらに愛着・執着する。それを「我愛」と呼んでいます。人間は、心の奥深く、どうしようもないほどの「我が身可愛さ」を秘めているというのです。「深層エゴイズム」といってもいいかもしれません。
善意にもマナ意識がひそむ
唯識の洞察のおそろしさというか、深さを、さらに次の『摂大乗論』の言葉を読んだときに痛感させられました。こういう言葉です。
若し人、正(まさ)しく善心(ぜんしん)を起こすも亦(また)此の識有り
意訳すると、「もし人間が、まさに善の心を起こしたときにも、この識、つまりマナ識がある」ということです。つまり、人間は善を思い、善を行なうときにさえ、マナ識、つまり自分に対するこだわりからそれをやる。私がいいと思うことをやって、その私がいい人だと人から思われたい、認められたい。それから、もし私がいいと思うことをいいと思わない人がいると怒る。私たちは何かボランティア的なこと、慈善事業的なこと、社会事業的なこと、社会を変えるようなこと、さらに大きくいうと革命のようなことをやるときにも、自分が正しいと思うことをやって、そのことによって自分が正しいと認められたいというこだわりをいつも持っている。そういうこだわりを持っているがために、自分が正しいと思うことを共有しない人は敵になり、憎しみの対象になり、場合によっては実際に虐殺の対象になってしまう。
人間が、小は小さな善意のボランティア活動から、大は社会変革運動に至るまで、よかれと思ってやることが、結局いつのまにか、さまざまな悲惨なことを生み出してしまうのはなぜか。それは、人間の心の奥に自分というものがあると思っている、そういうこだわりがあり、善をやるときにでさえ、そのこだわりに基づいてやってしまうからなのです。それが、人間の社会がどうしてもうまくいかない根本杓な理由だというのです。私は唯識の「マナ識」という考え方から、そういうふうに学んだというか、読みとったわけです。そしてそこが、何度もいうように「唯識」の非常な現代性だと思います。
「マナ識」というものがあるから、正義を求める個人と個人、集団と集団、党派と党派、宗教と宗教の対立が生まれざるをえないのではないでしょうか。この洞察は、繰り返しいいますが、現代の私たちにとって決定的に重要だと思うのです。
マナ意識即悪ではない
唯識では「マナ識だから即悪」というふうに捉えてはいないのです。比較的「いいマナ識」をもった人もいれば、かなり「良心的なマナ識」を持った人もあれば、それから、かなり「ダメなマナ識」、非常に「ゆがんだマナ識」を持った人もいる。そういう人の行動を見ていると、やはり、いい悪いの差は、ずいぶんすばらしい人からひどい人まであるのです。にもかかわらず、その最もよい人から最も悪い人に至るまで、全部に共通しているのは、自分というものに対するこだわりです。つまり、善悪とは関係なしに自分のこだわりに基づいた考え方や行動になってしまう。
だから、理性の発達、人格の成熟、自己実現といったことでは、人間の根本問題は解決しない。なぜならば、私たちの心の奥底にある実体としての自分というものがあるという思い、その実体としての自分がないことに対する無知・無明、それから我見、それから我慢、我愛という四つの煩悩は、世界の本当の姿・事実に反しているわけです。どうやってその煩悩を断ち切るか。 』
それでは次に、唯識でいう「種子(しゅうじ)」とは何か、「薫習(くんじゅう)」とは何かを説明したい。