さあ、唯識と現代科学との接点がおぼろげながらもイメージできたところで、さらに全体としての辻褄を合わせておきたい。それは、「種」と「種子」との区別である。両方とも「たね」と呼ぶが、ここでは「種」を「たね」、「種子」を「しゅし」と呼ぶことで一応の区別をすることとしたい。「種」は、先に述べたように、キャリアである。情報はそれによって運ばれる。そして、それらの情報は、意識野では有用なものがメディオンに貯えられ、無意識の領域ではすべてアーラヤ識に貯えられる。そうやって貯えられた情報は「種子」という器に入れられて貯えられていると考えて欲しい。「種」から出現した子供みたいなものである。
ところで、マナ意識の領域とアーラヤ意識の領域の小さな円運動を岡野守也は悪循環と呼んでいるが、彼曰く、『 「マナ意識」と「アーラヤ意識」の悪循環がある。そこから起こってきたこだわりの心で意識の心が働いていますから・・・・、意識の心が働いた結果として残っていく影響力を種に譬える訳ですが・・・・・、そのこだわりの種子が、またアーラヤ識に貯えれらていく。深層のこだわりの心から生まれてきた表面のこだわりの心が、再び深層にこだわりの種子として蓄えられていく。 』
少しはお判りになったでしょうか。マナ意識の領域とアーラヤ意識の領域を回る小さな円運動を頭に描きながら、今しばし岡野守也の話を聞いてもらいたい。以下も、NHKライブラリー・岡野守也の「唯識のすすめ」(1998年10月、日本放送出版協会)からのピックアップである。
『 分別する心は、アーラヤ識からマナ識の悪循環を通じて意識に起こつてきたものです。その分別した心によって他の人や他のものと関わっていきますから、当然いつも分離傾向、分裂傾向、差別傾向がある。それで実際に分離的な感情、怒る、憎む、妬む、分離的な行動、例えば傷つける、奪う、そういう煩悩が起こり、その残存影響力が、また無意識、アーラヤ識=蔵の識に貯まっていきます。そういうふうに悪い種を植えておいて、いい芽が生えてくることなど、期待しても起こるわけがないのです。
そういう悪循環の底にあるのは、マナ識とアーラヤ識の悪循環であり、そこから意識的な心が生まれてくるのだと分析すると、まず問題点が大変よくわかってくる。
種子を蓄える蔵
釈尊の仏教の段階では、理論としては不明確だった「無明」が、知識だけ、意識だけの問題ではなく、深層の問題だということを理論的にはっきりさせたのが、唯識のいちばんの深まりでしょう。さあ、それでは、「アーラヤ識」とはどういうものか、さらに深く見ていくこととしたい。
残存影響力あるいは遺伝子情報的な記憶を蓄えていく器になるのが「アーラヤ識」の本質的な姿なのです。この器の中から種子(唯識では「しゅうじ」と読みます)が芽生えていく芽生えたものがもう一回、種子となって、もう一回再び蓄えられていく。
薫習ということ
こういうふうにアーラヤ識を通じて芽生え、実り、実ったものがまた蓄えられていく。こういう状態で絶えず煩悩が芽生え、煩悩のもとになるものがまた蓄えられていくという状態が基本的な姿なのですが、それが芽生えるのはどこかというと、アーラヤ識からマナ識を経由して意識に芽生えるわけです。蒔くのはどこで蒔くかというと、まず意識で蒔くわけです。そうすると意識のところで、煩悩以外の種子を蒔けば、それがアーラヤ識から煩悩ではないものの種子として芽生える。芽生えてまた実るという別の循環が始まりうる。今までのところは、悪循環ばかりなのだけれども、そこに種子を蒔く。
お香をたいて、それを着物に薫じていく、くゆらせてそれを染みこませていくというようなニュアンスで、「薫習(くんじゅう)」という言い方をします。迷いの種を薫習しっぱなしで悪循環しているところに、悟りの種子・悟りの香りを薫習していけば、アーラヤ識は変わる、変わりうる。
そういうふうに、分別的ではない考え方を意識の世界で学びます。とても不思議なことですが、例えば、「空」とか「一」ということを、人間は教えられると納得ができる。納得してよく聞いていくと、それが心の奥底にしみていく。しみていくとその記憶は蓄えられますから、「空」ということを一回も聞いたここをがなかったときには、思いもしなかったようなことが、あるとき記憶にふと甦ることがあります。
「一つということは、水に譬えていうと、一つの水です。ところが、そこに波が起こる。波を見ると一つ一つは別の波です。一つ一つの波は別なのですけれども、その波は全部同じ一つの水ですね。人間というものは、個々人というものがいるように見えているのは、その波のようなもので、いちおう別々に見えますし、いちおう別々ではあるのですけれども、深いところでは一つなのです。ですから、もし私たちが人とケンカをして、許せないという気分になったときには、許せないのは許せないままでいいですから、でも本当のところは、あなたも私も宇宙の子なのだな、ということを思いかえせるといいですね」というふうな話をしたことがありました。ごく最近になって、この話を聞いた方に久しぶりに会う機会があったのですが、「岡野さんの、あの波と水の譬えは今でも覚えています。仕事で同僚や上司や部下とトラブルがあるたびに、ああ、あの人と私は同じ水なんだなと思うと、気持ちが静まるんです」といわれ、「ああ、これが薫習ということだな」と大変感銘深く、うれしく思いました。
私たちはそういうふうに、心の奥のところのマナ識で、自分というものはある、ものごとがすべて分離していると、どうしても思いこだわってしまっているのですが、理屈できちんと説明してもらうと、「ああ、本当はそうじやないんだな」ということがいちおう意識でわかる。意識でわかった、その記憶は心にとどまる。これは一つは理論を通じてです。
もう一つ、言葉を使ってものごとをいつもばらばらに捉えているという意識状態をやめる手続きとして、言葉を使うことをやめてしまう「禅定」という方法があります。
坐禅・禅定をしていきますと、言葉を使って意識が分別している、「あれはあれ、これはこれ」という気持ち、自分と外の世界が分かれているという意識は全くなくなってしまって、しかし、はっきり覚めていて、気絶しているわけでも、ぼんやりしているわけでも、眠っているわけでもないという心の状態になれます。そうすると、「自分と他が分かれていない世界の方が本当の世界だな」という体験ができてくるわけです。
そういう無分別の体験は、体験したらそれでおしまいではなくて、まさに習気というか、薫習というか、種子というか、現代的にいえば記憶というか、必ず記憶される。どこに記憶されるかといえば、唯識的にいうと、「アーラヤ識」に記憶されるわけです。そして、記憶されたものは、やがていつか思い出されるわけです。
もう一度「蔵」の譬えに戻りますと、記憶され蓄えられていくと、昨日までは九九・九九九九・・・パーセントまで不良在庫だったところに、たとえ○・○○○・・・一かもしれないけれども、優良在庫が一個入ってくる。そうすると、蔵の本質的な価値が変わってきます。はとんどムダなもの、悪いもの、役にたたないものばかり貯めてあったのが、いいものも一個だけ入っている、二個だけ入っている、三個だけ入っている・・・というふうに蓄えていくと、少しずつ「アーラヤ識」の性格が変わってきます。そういうふうに人間の心の奥底は薫習しうるものである。
ふつうの人間では、入れる迷いの種子と悟りの種子の量があまりにも違いすぎるので、やはりダメなのではないか。それに対して、唯識がいっていることをいうと、確かに量は違っても、「悟りの種子の方が迷いの種子よりはるかに力が強い」ことになっています。これが、いわば私たちの希望の根拠なのです。五感と意識を変えることによってドンドン悟りの種をアーラヤ識に送り続けなければなりません。毎日です。 』
さらに、「四つの智慧に変わりうる希望」ということで、岡野守也は語っている。じっくり聞いて欲しい。
『 そういうふうにして悟りの種子をうまくアーラヤ識に貯めることができた。それでかなりの量が貯まってきた。あるいはもう他の迷いの種子を駆逐してしまうくらいに悟りの種子が貯まり、育った。そうするとどういうことが起こるか。「アーラヤ識」は、それまではこの全宇宙の中で、命と命でないものを分けてしまって、命にこだわっていたわけです。
しかし、実際は、命と命でないものはつながっている。それが宇宙の本当の姿です。まるで大きな完全な鏡がそういう宇宙の本当の姿を何のゆがみもなく映し出すような智慧を、「大円鏡智(だいえんきようち)」といいます。「アーラヤ識」は悟りの智慧・悟りの種子によって磨かれて、「大円鏡智」に変化するのです。
アーラヤ識が大円鏡智に変化してしまうと、命へのこだわりがないのですから、ましてや私へのこだわりは持ちようがありません。ですから、命と命でないもの、そして、私と私でないものは実はつながっていて一つである。根本的には等しい、根本的には平等だと思う。そういう心の奥の深い智慧のことを「平等性智(びょうどうしょうち)」といいます。私がいると思い、私にこだわっていたマナ識の思いが、完全に他者と宇宙と私とが一つであるという「平等性智」に変わってしまう。
心の奥底での悪循環状態が、大円鏡智と平等性智という智慧の循環、いい循環に変わってしまうと、そこから浮かんでくる、起こってくる意識はもののすべては本当は一つなのだ。といっても、それはずるずるべったり、のっペらぼうではない。お互いに根本のところでは一つにつながっていながら、つながり、つながり、つながっていながら、仮に区別でき分節できるような形で、ある一定期間それぞれの姿を持っている。ある一定期間それぞれの姿を持ちながら変わっていって、それぞれの形という意味では消えてしまうのだけれども、全体の一つということは変わらない ─ そういうことがはっきりと意識的にわかる、すばらしい観察の智慧、「妙観察智(みょうかんざつち)」に変わってしまう。
心のいちばん底で、命へのこだわりが、命と命でないものをそのまま映し出して、命のときには命、命でないときには命でないものというふうに、自然に流れていくことのできる心に変容して、心の奥に、他者と自分と世界とが分かれていないという「平等性智」ができてくる。そして、意識がそういうことが絶えず自分の心の表面に浮かんでくる「妙観察智」になると、五感・五識、あるいは全心身は、そのときそのときに最もふさわしいことができるようになるわけです。それを「成所作智(じょうしょさち)」といいます。
以上のように、唯識は、まず凡夫の心を「三層・八識構造」で捉え、三層がどんなに悪循環をするかを非常に厳密、正確に捉えています。そして、それでおしまいではないのです。心の底に悟りの種子をしっかり蓄えていくと、心全体は四つの智慧に変わりうる。この四つの智慧に変わりうるのは、人間は幸いにして意識が与えられているからだ。今までは、その意識から迷いの種子ばかり蓄えていたけれども、これからは悟りの種子を蓄えようというふうに自分の心を変えることができる。また、その悟りを私たちに教えてくれるものに出会ったとき ─ それは人であったり、教えであったり、それから真理そのものであったりするのですが─私たちは、その種子を意識を通じてアーラヤ識に蓄え、やがて芽生えさせることのできる存在である。人間はそういう存在なのだと唯識は捉えています。これは、とても厳密で厳しいと同時に、きわめて希望のある人間観ではないでしょうか。 』
大変長らくおつき合いをいただいた。いよいよ清水博の「場の思想」に入っていきたいと思う。