がんばれ小渕さん
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ント
タイトル: 101 . がんばれ小渕さん
お名前: 岩井國臣
投稿日: 2/27(14:45)
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残念ながら、小渕さんの人気がなかなかあがりませんが、12月号
の「文芸春秋」にジーンと胸に来るいい記事をみつけましたのでアッ
プしておきます。
ベルリンでの小渕青年
佐瀬 昌盛(防衛大学校教授)
ベルリンにまだ「壁」というものがあった時代の物語である。
「壁」の出現は一九六一年八月。そこから丁度三年間、私は政府交
換留学生としてベルリン自由大学で学んだ。西ベルリンでの留学生
活には、利と不利とがあった。国際政治専攻の私にとっての利とは、
居ながらにして東西冷戦の「生の」空気を呼吸できたことだ。
「壁」のむこうにはフルシチョフ・ソ連共産党第一書記がやってくる。
「壁」のこちらではケネディ大統領が「私は一ベルリン市民である」
と叫ぶ。当時の西ベルリン市長はのちに西ドイツ首相になった
ウイリー・ブランド。かと思うと、東ベルリンは凄まじい中ソ論争
の舞台にもなった。そのつど、私は聴講をほどほどに、「壁」を抜
けて文字通り東奔西走した。
不利というのは、西ベルリンから西ドイツを訪ねるにも費用がか
さむこと。なにしろ東ドイツは鎖国状態で旅行も許されず、小旅行
のためにも旅費を使って東ドイツ領を空路または陸路で通過しなけ
ればならない。奨学金で日常生活に不自由はなかったが、その割高
な旅費とドイツ人学生の数倍の本を買うためには、必要に応じて小
遣い稼ぎもやらなければならなかった。通訳や翻訳がそれだった。
六三年六月、在ベルリン日本総領事館が「九州朝日放送というテ
テビ局がベルリン取材にくるので、手伝わないか」と電話してきた。
異存のあろうはずがない。取材班三人との仕事は気持よかった。
取材テーマは「欧州の子どもたち」だったそうだが、「壁」の両面
の子供を撮っただけでなく、「壁」そのもの、また翌六四年が東京
オリンピックに当っていたので日本人に思い出の深いベルリン五輪
の競技場までもを被写体にした。
「壁」に隣接して荒涼たるポツダム広場。街路に面したアパートの
窓という窓がレンガとセメントで塞がれたベルナウアー街。そのどち
らだったか記憶が曖昧だが、日本青年が一人、「私にも手伝わせて下
さい」と声を掛けてきた。人相、風体ともに良いとはいえないこの
青年がだいぶ前から取材班にくっ付いてきていることに、私は気付い
ていた。取材班を率いた園田健夫キャプテン(現在は九州朝日放送系
列の会社社長)の「いいよ」の一言で、青年の合流が決まった。私に
とってはたった一人の弟分ができたようなもの。こちらは主として通訳
や交渉つまりは頭脳労働をこなし、青年は重い機材−当時は本当に重
かった−を運んだり据えたり、つまり肉体労働を引き受けた。
この青年、あまりしやべらないが、問わず語りに「早稲田の学生です」
という。これが三十五年前の小渕恵三青年だった。どこに宿をとってい
たのか知らないが、三泊四日、「小渕クン」は朝には約束の集合場所に現
われ、よく働いた。人相、風体が良いとはいえないのは、今も昔も貧乏
旅行をやる若者の常。ただ、当時の日本では海外へ武者修行に飛び出す
青年の数はうんと少なかった。だから、この青年は妙に印象に残った。
というと、偉そうに聞こえようが、こちらだって似たようなもの。
仕事が終って「ご苦労さん」の一声とともに、ベルリナー・キンドル
のビアホールでジョッキにありつけるのが嬉しかった。取材班は当時
「私設総領事舘」的存在だったデ・コーヴァ夫人こと田中路子さんにも
可愛がられ、デ・コーヴア邸でご馳走にもなっていた。ビールを飲みな
がら園田キャプテンが「ゆうべデ・コーヴァさんとこで飲ましてもらった
ナポレオンはうまかった」と話すのを、そこへ行けなかった小渕青年と
私は羨しそうに聴いた。テレビマンにとってもナポレオン級のコニャック
は感激であり、その話を聴くことさえもが別世界的だった昭和三十年代。
その後、当たり前のことだか、私はナポレオンの恨みは覚えていても、
青年のことを忘れていた。ところが五カ月ほど経った十二月はじめ、園田
健夫氏からベルリン宛来信あり、「あのときの小渕青年が二十六歳で衆議院
議員に当選した」とあった。これには驚いた。園田氏はもっと驚いたらしい。
なにしろテレビで選挙結果を解説して眼前の画面に、「オブチケーゾー君、
バンザーイ」という光景が出てきたのだそうだから。もっとも、冷戦論を
ぶった私とは違い、ベルリンで私には政治向きの話をしなかった小渕青年
だが、取材チームには内心期するところを語っていたらしい。
議員バッチを付けた小渕「青年」とは、いくどか話す機会があった。
夏前には安全保障問題研究会メンバーとして、日露問題を議題に小渕外相
と会食した。そのつど、「ベルリンでのアルバイト料」が話題になる。
頭脳労働に従事した私は時給八マルクだったが、職種の違う小渕「青年」
には時間給四マルクが支給されたと記憶する。ともどもに有難かった。
小渕「青年」は総理になって、心なしか背が丸くなったように見える。
私よりニ歳半若い六十一歳、背筋を伸ばして国事に打ち込んでいただきたい。
残る問題は、過疎地域というか農山漁村の活性化のために、行政組織がどう
あらねばならないかという問題でしょう。
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