私は、去8月1日に名古屋で開催された「グランドワーク東海」主催のシンポジュームで、「宇宙とのひびき合い」と題する20分ほどの私のスピーチの最後を次のような言葉で締めくくった。『 時代が変わるためには人間が変らなければならない。では、人間が変るためにはどうすればいいか。哲学的な言葉でいえば「純粋生命」とか「絶対無の場所」とか「純粋な述語性」という言い方になるのかもしれないが、判りやすくいえば「生きているということ」でいいかと思うが、(人間が変るためにしなければならない大事なことは)「生きているということ」に対する感動であり、そのための「場づくり」である。グランドワーク、それは、「ひびき合いの場づくり」である。 』・・・・と。
場とは何か。清水博は「場の思想」(2003年7月、東京大学出版会)のなかで次のように言っている。
『 場とは何かと聞かれたときに、私は次のように答えることが多い。「あなたの体をつくっている細胞の一つを想像してください。その細胞があなたの生命(あなたの体全体に宿っている生命)をどのように感じるでしょうか。あなたがその細胞になったつもりで考えてください。そのときにあなたが感じるもの、それが場なのです。」分かりやすく言えば、場とはこの場合は自分を包んでいる全体的な生命の活き(はたらき)のことである。 』
清水博によると、生物の細胞にはいろんな細胞があって多種多様である。そういう何億という多種多様な細胞が一つの生命のなかで共に存在している。共存在している。清水博の定義によると、「共存在とは、異なる個性や生き方をする多様な存在者が一つの場を共有して調和的に存在すること」だそうだが、何億という細胞は一つの生命のなかでまさに共存在しているのである。ガン細胞というのは、調和を壊す細胞であるから、共存在できない細胞であるという言い方もできる。生きているということは、共存在者が調和を保ちながら一つの体に存在しているということである。共存在者が調和を保ちながら存在しているところを「場」という。人間というものも、細胞の身になって考えたとき、多種多様な共存在者が存在するひとつの「場」である。したがって、私たちは、「生きているということ」に感動するということは、細胞の身になってそういう「場」の神秘というものを感じるということである。それを哲学的にいえば、純粋生命を感じるとか、絶対無の場所を感じるとか、純粋な述語性を感じるとかいうのである。まあ、むつかしいことはいい。しみじみと「生きていること」に感動すれば良いのである。「生きていること」に感動し、ワクワクすれば良いのである。そういう体験を何度かしていると、「純粋生命」とか「絶対無の場所」とか「純粋な述語性」とか共存在の神秘を直感的に理解することが可能になるのではないか。また、そういう体験を何度かしていると、「共存在とは、異なる個性や生き方をする多様な存在者が一つの場を共有して調和的に存在すること」であるということが分別でき、違いを認めることが当たり前になるのではないかと思う。「共存在」である。一般的な言葉でいえば、「共生」である。「共生の思想」は清水博いうところの「場の思想」である。是非、皆さんも、清水博の「場の思想」(2003年7月、東京大学出版会)を読んで欲しい。
清水博が「場の思想」の中で考えている・・・・これからの世界を救う「救済者」とは何か。段々と焦点が絞られてきたようだ。