救済者

 

 

 救済者について、清水博は「場の思想」(2003年7月、東京大学出版会)のなかで次のように言っている。

 

 『 近代文明は科学技術の目覚しい発展を通じて人間の生活を大きく変えた。科学技術の貢献の大きさについては、誰も否定できない。(今いろいろと言われているように)近代文明はまさに行き詰まり、我々は旧い文明が新しい文明へ交替する大きな転換期にいま生きているのである。現在、新しい文明をリードする確とした哲学はまだ現われず、我々は底なしの虚無感に捕らえられて、足場のない空間を漂っている。そして口には出さないが、自分たちを救済する何者かが出現することを、心のどこかで待ち望んでいる。近代人は「救済者」を失っている。ニーチェが指摘したように、近代は「神を殺した」。そして第二の「神」としてコミュニズムも否定した。最後に残る「神」として、我々が共通に受け入れてきたのが科学技術である。その科学技術の論理にしたがえば、秩序は力の支配によらなければ実現しない。その力がどのようなものであるかに関してはいくつかの可能性が残されているが、いずれにしても科学技術の論理で考えるかぎり、力の支配以外に秩序を安定化させる働きはない。ここでの秩序とは、広い意味での和平のことである。すなわち競争や小競り合い、そして生きていくためにの捕食はあっても、多様な個が共に生存している状態と言う意味である。科学的理性による救済を信じているためか、近代文明社会が生み出す和平には、最後には力による支配が顔を見せる。したがって近代文明社会の「救済者」は、それが個人であるか、集団であるか、それとも国家であるかは別としても、独裁者ということになる。

 人と人、そして人と自然の共存在の実現には、「救済者」の共有が必要である。そこで問われるべきは、力による支配によって、人間と自然は調和的に共存在できたであろうかということである。答えは明らかに「否」である。また近代文明とは異なるタイプの文明をもつ社会と近代文明社会との間の国際紛争に、力による支配は果たして解決を与えたであろうか。答えはやはり「否」である。率直に考えてみれば、力による支配の形では、地球に広がる閉塞的な状況を乗り越えて将来を展望する形ができないことは明らかなのである。したがって科学的理性は「救済者」にはなれないのである。新しい文明の鍵が多様な個の共存在であることを思うと、自然を含めた第四の「救済者」を発見することが必要である。 』

 

 『 新しい時代をリードする哲学が出現するまでには、我々はまだ様々な経験と多くの苦しみの蓄積を必要とするであろう。しかし現在でも、この閉塞した状態を乗り越える一つの思想を示すことはできると、私は確信している。本書はこの思想を示すために書かれたものである。この思想は、生命の科学を研究する過程で、私の内部に次第に形成されてきたものである。具体的には、多くの個の働きによっておきる秩序の自己組織現象(多くの個の自主的な働きによって個の集まり全体に秩序が生れる現象)に注目する。21世紀には個の多様性を前提として自己組織的につくられる秩序が(このことこそ多様な個が共存在するということに他ならない)もっとも重要なテーマとなるであろう。それではどのようにすれば個の多様性を前提とした秩序を形成し続けることができるだろうか。従来の科学技術の自己組織論では、個の一様性を前提にした秩序の持続的生成を考えることはできる。しかし個の多様性を前提にして秩序の持続的生成を考えることはできない。それは複雑系になってしまうために、無秩序状態(カオス)が出現してしまうからである。どのようにすれば、個の多様性の上にたつ秩序を実現することができるであろうか。その原理は、従来の科学技術の論理にたつかぎり(近代文明の論理に立つかぎり)不明である。 』

 

 そこで清水博は、「拡張された科学技術的方法」ということをいっており、今までの科学原理とは対極にある新しい科学技術の方法を提唱している。いうまでもなく現代の科学技術というのは、心とか精神とかいうものと物質とを切り離して、物質の変化のみを対象に研究をすることで発達してきた。清水博はそういう現代の科学技術を主客分離的な研究法と呼んでいる。これに対し、清水博が提唱する「拡張された科学的方法」というのは、それと対極にある主客非分離的な研究法である。清水博は次のように述べている。

 

 『 人間には共有可能な主観的領域があり、その領域の範囲で存在の問題を論じるとすれば、科学技術を主客非分離的対象に対しても用いることができるのではないかと思われる。そこで、主客非分離的対象をそのまま対象とする代わりに、モデルの性質を「客観的」に考察するという方法である。この「拡張された科学技術的方法」によって、出口のない主観的な対立を克服できると、私は思っているのである。 』

 

 『 主客非分離性を考慮することによっておきるもっとも重要な変化は、これまでの科学ではできなかったこと、対象の存在を論じること、ができるという点にある。分かりやすく言えば、主客非分離性を考慮して主体(自己)の活き(はたらき)を入れると、場所的自己言及によって、場が現われるのである。具体的には、これまでの科学技術では客体だけを対象にして論じてきたが、拡張された科学技術では対象と場とが一緒に出現してくるのである。 』

 

 清水博は分かりやすく言えば・・・と言っているが、全然分かり易くありませんね。前に述べた即興劇モデルで言えば、主体とは役者のこと、客体とは観客のことである。その他にシステムというのもあるが、劇場全体が「場」である。「場」は、主体と客体とシステムによって成り立っている。清水博が「場が現われる」というのは、主体を含めた「場」が現れるという意味で、客体だけでなく主体も扱っているという意味である。 客体は物、主体は心と考えてもいいので、清水博のいう「拡張された科学技術的方法」というのは、物質と心を同時に扱うことができる今までの科学技術ではまったく考えられなかったものである。コペルニクスの大転換といえよう。もちろんそういう分野は清水博たちのすすめてきた生命関係学によってその緒についてばかりである。これからの研究は前途遼遠だ。そういう学問が確立されるには長年月がかかるだろう。しかし、ほんの入り口かもしれないが、清水博が垣間見て直感的に感じたその感覚というものは、大変大きな示唆に富んでいる。

 近代文明は行き詰まり、現在、新しい文明を創り出すまさに大転換期にある。人と人、そして人と自然の共存在の実現に、いまや「救済者」の出現が待ち望まれている。そこで問われるべきは、具体的にどうすればいいかということである。具体的にどうすれば「共生の原理」にもとづく新しい文明が作られるかということである。このシリーズの最終結論である。

 

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