共存在の原理(共生の論理)

 

 

 共存在の原理(共生の論理)について、清水博は「場の思想」(2003年7月、東京大学出版会)のなかで次のように言っている。

 

 『 これまでの科学技術では、主客分離的対象を取り扱うから場が現われない。そのために対象の存在(場における対象の存在)を議論することができなかったのである。拡張された科学技術の論理では、対象が場とともに現われるから、存在者としての対象について議論することができるのである。場における存在と関係して人間やその他の共存在者を考えることによって、人間の内部世界について考える足場が与えられる。したがって、これまでの伝統的な文科・理科の概念を超える統合性が生れるのは当然である。さらにこのことによって、身体を構成するさまざまな細胞のように、多様な個が一つの場を自己組織しながら共に存在するという「コミュニティ的存在」という存在の形を考えることが可能になる。このコミュニティ的存在こそ、共存在(共生存)の原理なのである。 』

 

 もうお判りのように、清水博は、共存在の原理、共生存の原理、一般的には「共生の論理」という言い方でいいと思うが、今までの生命関係学に関する研究から、そういう原理を発見し、人間というものをそもそも本来的にはコミュニティ的存在だと考えている。科学文明が進み、或いは市場原理が進んで、コミュニティが失われそもそもの人間性が失われようとしている現在、「共生の論理」にもとづいて国のシステムを変えていかなければならない。清水博のいうことに耳を傾けよう。

 

 『 私は、個人と社会、個人と国家、個人と国際社会の関係も、多様な個と共存在の場の関係として捉えなおしてみる必要があると思う。共存在の場の自己組織という考えは、たんに人間とそのコミュニティによって重要なばかりでなく、自然と人間の共生の原理も教えてくれる。それは多様な人間や自然の存在者が一つの「コミュニティ的生命世界」を自己組織して共に生きる形を示唆するものである。 』

 

 『 「救済者」とは、人間に働いてその価値観を主客分離的なものから主客非分離的なものに変えて、人間の自己中心的活動をコミュニティ的活動に変態させる超人間的生命のことである。 』

 

 

 清水博は、この「超人間的生命」のことを「純粋生命」と呼んでいるが、何度も言ってきたように、これは西田哲学でいうところの「絶対無の場所」や「純粋な述語性」と同じことである。中沢新一の言う「タマ」でもある。まあ一般的に判りやすくいえば、宇宙の神秘な力と考えてもいいし、「神」と考えてもいい。しかし、そういう言い方をするともう漠然として掴みようのないものになるので、本来的な生命の力という意味で・・・やはり清水博のいう「純粋生命」という言い方が良いのではないかと思う。私たち人間は、生れてから今日に至るあらゆる環境によって、本来もっている純粋生命が隠れてしまっている。しかし、それなりの学習によって純粋生命が活き(はたらき)はじめて、コミュニティ生命世界に生きることができる。私たちは、自己中心的活動から脱却して、コミュニティ的活動をしなければならない。コミュニティ的生命世界に生きるのである。そのためには、各個人が気楽に活動できるNPOという場が必要であると思う。清水博のいうことに耳を傾けてもらいたい。

 

 『 現在は未ださまざまなNGOやNPOなどの活動が生れては消え、多くのコミュニティが成立しては消える状態にある。しかし、一般的に見ると、コミュニティ的生命世界ではマネーではなく、一人一人の存在感こそが通行切符なのである。存在には倫理の保証がなければならない。マネーに代わる存在という普遍的な切符によって、これらのコミュニティ的生命世界が互いに繋がるときには、個の欲望から共存在へ、人間の価値観の変態的変化がおきることを意味する。 』

 

 

 先に述べたように、近代文明は行き詰まり、現在、新しい文明を創り出すまさに大転換期にある。人と人、そして人と自然の共存在の実現に、いまや「救済者」の出現が待ち望まれているのであって、そこで問われるべきは、具体的にどうすればいいかということである。具体的にどうすれば「共生の論理」にもとづく新しい文明が作られるかということである。そのことはいうまでもなく「劇場国家にっぽん」の最大の課題であるというべきだが、具体的には、私たち一人一人がコミュニティ的生命世界に生きるということである。それを可能にするのは、いうまでもなく、「共生の論理」である。私は、今後、西田幾多郎の「場所の論理」や中村雄二郎の「リズム論」と田邊元の「種の論理」や中沢新一の「モノとの同盟論」を統合する哲学として、清水博の「共生の論理」を採用したいと思う。

 さて、清水博は、そういう「共生の論理」にもとづく文化、それは「違いを認める文化」だが、そういう文化を「場の文化」と呼んでいる。そして、日本は、歴史的には、仏教を基礎に普遍的な「場の文化」を生み出した経験をもつ世界でも特殊な国であるといっている。私もそう思う。私は、歴史をひも解けば容易にそういう「場の文化」や仏教を基礎とした普遍的な「違いを認める思想」に行き当たる。したがって、わが国の歴史と伝統文化を大切にするということは「共生の論理」にもとづく新しい文明を創造することに他ならないと思うのである。憲法改正に当っては歴史と伝統文化の尊重という条文をどこかに入れなければならないが、その議論は未だ先の議論にしたい。とりあえずは、仏教を基礎とした普遍的な「違いを認める思想」というものを勉強したい。それは「唯識」であり、徳一の思想にその典型を認めることができる。修験道はわが国の古代信仰(スピリットの世界)と結び付いた道教の流れと見ることができるし、密教は古代信仰(スピリットの世界)をそれなりに取り入れた山岳仏教だし、徳一の仏教は古代信仰(グレートスピリットの世界)と仏教の本格的な習合を図ったものと見ることができる。「違いを認める思想」は徳一にもっとも強く現われている。それは言うまでもなく「唯識」にもとづくものといえるが、すでに述べたように「唯識」と清水博の「場の思想」には底通するものがある。このシリーズで私がいちばん言いたかったことはそのことである。

 今後徳一を訪ねる旅をつづけながら徳一と最澄の「三一権実論争」と勉強していくことになる。それは唯識を勉強することであり、わが国における違いを認める文化を認識することであり、「場の文化」を見い出すことでもある。そして最終的には、明恵に行きつき「あるべきようは」の思想を再認識することによって、憲法改正のもっとも基本的なところを明らかにできるはずである。憲法改正のもっとも基本的な部分、それは歴史と伝統文化であり、天皇の存在根拠はそこにある。

 

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