現代の「ニヒリズム」 

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タイトル: 1756 . 現代の「ニヒリズム」

お名前: 岩井国臣

投稿日: 2/27(01:55)

オリジナル: 1717. 憲法論議が始まった! ▼ [岩井国臣] 2/12(00:12)

コメント元: 1752. Re: まやかしの憲法! ▼ [岩井国臣] 2/26(03:15) 

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現代の「ニヒリズム」 

 

 佐伯啓思はものの見方が確かである。いささかも軽薄なところがないように見受けられる。今私は「まやかしの人権」という風に、やや刺激的な言葉を使うことによって、人権に関する現在の軽薄な風潮に警鐘を鳴らしているが、佐伯啓思の<新「帝国」アメリカを解剖する>(2003年3月、筑摩書房)によって、私の考えを少々補強しておきたい。 

 

 いうまでもなくアメリカの建国の精神は、フロンティア精神であり、新しいものに挑戦する精神(スピリット)である。この精神(スピリット)は、中沢新一のいう後戸(うしろど)の神(スピリット)と通ずるものがあるが、それを私流に言えば妖怪(スピリット)とまあ同じような概念である。心の深層部分で、こういったスピリットたちとの響き合いがないと私たちにやる気はおこらない。「ニヒリズム」に陥るというわけだ。これを判りやすくいえば、観念の一人歩きだ。観念が一人歩きし出すと、「ニヒリズム」に陥る。それはラカンがいうように、言葉では真実を捉えることができないし、したがって観念では真実を捉えることができないのである。トーラスモデルを思い出して欲しい。私流に言えば、言葉では真実を語ることはできないということになるが、観念が一人歩きしたのでは空虚さだけが残る。人間は、やはりどうも観念を超えたところに奮い立つものを感じるようだ。中村雄二郎のリズム論が重視されなければならない所以であるし、中沢新一の後戸(うしろど)の神が重視されなければならない所以である。フロンティア精神というものは観念を言っているのではない。苦しみを乗り越える開拓魂であって、まあいうなれば、宗教的な難行苦行の心みたいなものだ。観念ではない。 

 

 そのアメリカの建国の思想は、佐伯啓思によれば、「共和主義」「自由主義」「ピューリタニズム」であり、それを実践してきたのは、ワスプ(WASP)であった。しかし、20世紀に入り、事情が変わってきたという。佐伯啓思によれば、「共和主義」は帝国主義的な覇権主義へ、「自由主義」は市場競争主義やリベラル・デモクラシーへ、そして「ピューリタニズム」は文化や宗教の多元主義へと変わっていった。少し彼の言うことを聞いて欲しい。 

『 今でもワスプ(WASP)はアメリカ社会の中心的位置を占めているとはいえ、もはやワスプであることの正当性も自明性も失われ、現実にも、ワスプの影響力は低下している。そうなると、建国の価値基準はもはや自明な意義は持ちえなくなる。そのことが意味するものは、建国の精神が忘れられたということだけでなく、現に機能してきた生活規範や道徳観、社会に対する義務感、自立的な責任感の衰退・崩壊なのである。

 こうして、社会的に共有される規範の崩壊が進行するにつれ、逆に「自由」「平等」「基本的権利」「競争」といった、いわば形式的な観念が規範の代替物として祭り上げられてゆくことになるだろう。それらが「形式的な観念」というのは、次のような意味である。 』・・・と。

 

 このような認識は、さすがに佐伯啓思だと思う。まことに鋭い見方であり、こういう見方をした人は、今まで日本にはいないのではないか。ひきつづき彼の言うことに耳を傾けて欲しい。

 『 自由や平等、権利といった観念は、人にある行動、ある生活、ある思考方法、ある義務を説くものではない。それは、ある特定の行動や価値の重要性を説くものではなく、それらの条件にかかわっている。具体的な生き方やどのような価値に従って何を大切なものと見なすかは、各人の主観の問題であって、誰もその内実までは立ち入ることはできないし、そうすべきでもない。

 人生を社会のために生きるという使命感をもとうが、ただ金銭的拡張をめざそうが、それはそれぞれの主観であって比較できない。『自由』はそれを共に保障するのであり、個人の主観のレベルにある実質的な価値を実現するための形式的な条件にすぎない。「自由」「平等」「権利」「競争」が形式的だというのはそういう意味で、それらの観念は、それらの内実にまで立ち入らない。

 何が良い行動なのか、何が賞賛されるべきなのか、何が善い生なのか、その点については、これらの観念はいっさい口を閉ざす。それはすべて個人の主観に委ねられるのである。「自由」「平等」「権利」「競争」などは、ただ個人の主観的な目的を達成する手段にすぎないのであって、そこでは何が「善い人生」かという価値の問題、つまり「善(グッド)」の内実は問題とはならない。人が何を目的に生き、何をかけがえのない価値だと見なそうと、「自由」や「平等」の観念はいっさい感知しないのである。 』・・・と。 

 

 

 さて、「自由」や「平等」の観念が、目的を達成する手段であって、目的でないとすれば、人々の心を突き動かす動機となるものは何か。佐伯啓思は、ロシア出身のフランスの哲学者コジェーヴ(1902−1968)の考えを紹介しながら、「自由」や「平等」の観念というものが絶対的な価値の座に祭り上げられる様を描いている。「文明」の進展によって共同社会が崩壊し、そのことによって、名誉を重んじて生きたいという・・・共同社会における最高の価値観が希薄になっていく。共同社会が崩壊し、そこでの最高の価値観がなくなれば、それに代わる文明的な価値観が必要となるである。今は、それが「自由」や「平等」の観念ということになっているのであるが、この形式的な観念は上述のように目的でなく手段である。したがって、人々の心を突き動かす動機にはなり得ない。佐伯啓思のそういう認識に私は賛成である。 

 私は、人々の心を突き動かす動機となり得る・・・文化的な価値観が必要なのだと思う。文化的な価値観を蘇らすには、コミュニティーの再生が不可欠である。地域的なコミュニティーは農山村でしか再生できない。都市では職業的なコミュニティーと趣味的なコミュニティーの再生を図るべきである。それらのコミュニティーがインターネット時代においてどう世界と結び付いていくのか。これはこれからの課題だが、日本は、「違いを認める文化」という日本のアイデンティティーを大切にし、新しい挑戦に踏み出すべきだ。たしかに、現代の「ニヒリズム」は日本にも蔓延している。コジェーヴは、「歴史の終焉」を日本に見たらしい。しかし、コジェーヴは間違っている。そんなことはない。世界における日本の歴史はこれから始まるのである。そのためには、国際日本文化研究所の安田善憲教授が提唱する「ドラゴンプロジェクト」を下河辺淳の流域圏構想の代わりに具体化させることが必要である。安田善憲教授は、21世紀のライフスタイルについて、「心豊かに、ゆったりと暮らす」・・・・と言っている。すばらしい。桃源郷に暮らす夢、それは縄文への憧れでもある。中沢新一流に言えば「東北」への憧れだ。そのプロジェクトは、下位計画として、過疎の各集落を「大畑原則」によって再生していけばいい。サステイナブル・コミュニティーの誕生である。地域的なコミュニティーが職業的、趣味的なコミュニティーとつながって、世界につながっていく。日本の新しい歴史がはじまるのである。

 

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