地域と公共事業(3)

 

平成15年1月31日

参議院議員岩井國臣

 

はじめに

(21世紀の野蛮http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/21yaban.html

 

 いよいよサダム・フセインに対する戦いが始まる。いよいよブッシュ大統領の力の政策が始まるのである。サダム・フセインの次は、いうまでもなく金正日(キムジョンイル)である。日高義樹のワシントン緊急レポート「世界大変動が始まった(2002年11月30日、徳間書房)」は、ブッシュ大統領の力の政策をドキュメント風にその全貌を余すことなく書いている。実にリアルであり、こういった事実を知らずしてこれからの政治をやっていけないことは間違いない。政治家並びに政治評論家必読の書だ。 

 日高義樹が言うように、世界大変動が始まったのである。911テロはアメリカ国民にとって言葉には言い尽くせないほど衝撃的な事件であり、ブッシュ大統領の決断によって始まるこの世界大変動の流れは長期に続くのであろう。当面この流れを大きく変えることはできないと思う。それはそのとおりだが、果たしてそれで良いのか。 

アメリカはやはり強者の論理のまかり通る国であると思う。アメリカンドリームという言葉が幅を利かす弱肉強食の国である。戦いを愛する王者の国である。「光の哲学」に裏打ちされた一神教の国であると思う。日本はすべてその対極にあるが、アメリカと共通点がないわけではない。「東北」の思想だ。「環太平洋の環」に通底する「平和の思想」だ。インディアンの思想はまさにそれそのものではないか。

アメリカインディアンは平和の民である。西部劇で戦うインディアンが強調されているが、戦いを挑んでいるのは白人のほうだ。アメリカインディアンは、「環太平洋の環」つまり「東北」の民なるが故に、また文化人類学的にみて明らかなように、戦いの王者ではない。平和の民なのだ。戦いの王者は白人のほうである。その白人が現アメリカの主流をなしているのでアメリカは戦いの王者となっているというわけだ。「人類はるかなる旅」に述べたように、中沢新一の言う「東北」つまり「環太平洋の環」という概念とそこから展開される哲学は実にすごい。環太平洋の仲間たちよ、手を携えてやっていこう・・・という想いなのだ。すばらしい!私は、「環太平洋の環」の現在はお互い対極にあるが通底する部分を持つ日本人とアメリカ人というものが協働して、現在アメリカで注目の「ダイバーシティーの思想」に磨きをかけ、世界における「違いを認める文化」をつくっていくことが可能だと思っている。 

 

 ジョセフ・ナイがその著「アメリカへの警告(2002年9月12日、日本経済新聞社)で、「テロ攻撃の被害は恐ろしいものだったが、わたしの関心はそれよりはるかに深い。」と述べ、アメリカの将来を心配してソフト・パワーによほど力を入れなければならないと警告を発している。私も同感だ。アメリカは、ブッシュ大統領の今考えているハード・パワーにも増してさまざまなソフト・パワーを発揮していかなければならない。そのことに日本は大きく貢献できるのではないか。私は、いよいよ日本の出番だという感じがしないでもない。これから始まる世界大変動のその流れを食い止めたりその流れを大きく変えたりはできないが、別の大きな流れをつくることはできるのではないか。ソフト・パワーの流れ、平和の流れである。もちろん、平和の流れなんていうものは、そのきっかけをつくることはできても、本格的な流れをつくることはそう簡単にはできない。アメリカをも巻き込んで世界的な流れにすることなんてことはけっして容易なことではないだろう。気の遠くなるほどの時間がかかるのかもしれない。しかし、やらねばならない。今からその第一歩を踏み出す必要があるのではなかろうか。 

 

 

1、「タマとの同盟」・・・・贈与経済における感動システム 

 中沢新一によれば、霊魂を「タマ」という。「モノ」の理解のためにまず「タマ」の理解が必要である。タマもモノも非人格的であるという点では共通している。しかし、ふたつのあいだにある微妙な違いが、このさいには重要になってくる。 

 まずは、中沢新一の新著「緑の資本論」にしたがって、ふたつの関係を、もうすこしくわしく調べてみよう。折口信夫はタマの性質を見るのには、モノが生れる出るさいの胎生と卵生というふたつの方法のうち、卵生のモノの発生を考えてみるのがよい、といっている(霊魂の話)。

 タマは内包空間に充満する力であり、その様子を古い時代には、「たまご」や「かひ」のなかに密封されているようにイメージしていた。その密封空間のなかでタマはますます力を増やして、とうとう「かひ」を破って外の世界にあらわれてくる。タマがモノとして「あらわれる」のだ。 

 

 中沢新一の新著「緑の資本論」から「タマ概念」を紹介したが、タマの力をまず理解してもらいたい。私流に説明しよう。今地球環境が問題になっているが、地球の持続的発展を前提に、現在のビッグバン理論をもとに宇宙の力を考えてみよう。この世界の「モノ」はすべて変化している。循環的な変化もあるし、どのような変化をしていくのかわからないような変化もあるが、ともかくすべての「モノ」は変化している。生物の死と誕生もその変化のひとつであるし、森の多産性もその変化のあらわれである。道具は壊れるが、しかし新しい道具が生れ出てくる。もちろん人間が創り出しているのであるが、よくよく考えてみれば、人間の創り出す力なんてものはたいしたものではない。無から有を創れないからである。ガラスにしても鉄にしてもこの地球が創り出したものではないか。いな、その地球すらはじめかあったものではなく、宇宙の創造力が創り出したものである。すべて宇宙の力である。ビッグバンによる宇宙の変化の力がすべての「モノ」に及んでいるのである。「モノ」には、現実には見えないけれどたしかに変化の力がある。人間がそうであるように、いつどのような姿に生まれ変わるかはわからないけれど、この宇宙から消えてなくなってしまうということはない。必ずいつかはないかの形で生まれ変わるのである。再生するのである。しかもその変化は進化発展的である。すなわち、本来、「モノ」には「タマ」による多産性の力があるのである。その「タマ」の力は私たちには見えない。密封の容器に隠れている。 

 今わが国は資本主義の真っ只中にある。キリスト教という「不変の同一性」という神のもとで発達した資本主義の真っ只中にあり、贈与の空間が消滅しつつある。真の豊かさと真の幸福が消滅しつつある。中沢新一が言うように、今大事なことは、「モノとの同盟」である。わが国だけの問題ではない。資本主義が猛威を振るうところでは、「モノとの同盟」が必要である。モノとの新しい同盟関係の創造が、今こそ求められているのである。贈与空間の復活である。 

 新しい同盟は、モノとの間に結ばれなければならない。中沢新一が言うように、「非人格的な力能であり、結氷寸前の海水のように、物体性のモノや昔の人たちが霊力とも聖霊とも呼んだ非感覚的な内包力などが、混成系をなしながら、複雑な全体運動をおこなっている、そういうモノとの間に、人間は真実の同盟関係をつくりあげることが必要なのである。」

まあ、同盟関係とはうまくいったものだ。そうなのだ。モノは、理性とか合理性とか近代性の敵ではない。かといって、理性や合理性や近代性にへりくだるものでもない。あくまでも同盟なのである。そして、その同盟関係の創造において、「技術」の果たす役割が極めて大きいと中沢新一は言う。 

 

 私の提唱する「劇場国家にっぽん」は、さまざまな感動を得るための・・・「場所」づくりと「モノ」づくり、そしてそのためのコミュニティーづくりないしネットワークづくりを目指している。それは、贈与経済としての・・・・感動のシステムづくり・・・・といってもよい。 

 経済は市場経済と贈与経済に分かれ、市場経済はさらに市場経済的市場経済と贈与経済的市場経済に分かれ、贈与経済は市場経済的贈与経済と贈与経済的贈与経済に分かれるというのが私の頭の中の整理である。市場経済的市場経済とは、もっとも市場経済らしいもので、まあいうなれば企業活動の世界である。贈与経済的贈与経済とは、もっとも贈与経済らしいもので、まあいうなればNPO活動とか宗教活動、或いは趣味的なサークル活動の世界である。

 その中間に贈与経済を背景にしながらも企業活動が行なわれている世界、つまり贈与的市場経済の世界や・・・・つくられたモノは市場に出て行くけれど本質的には贈与経済という世界・・・という世界、つまり市場経済的贈与経済がある。贈与経済的市場経済の世界には企業家に支えられた金もうけを目的にしないモノづくりに励む人たちがいる。また、市場経済的贈与経済の世界は市場経済に乗っかってモノの売り買いが行なわれているけれど、そのモノづくりそのものは金もうけのために行なわれているのではなく動機は創るよろこびにある。市場経済的贈与経済の世界でモノづくりに励む人たちは、まあいうなれば贈与経済におけるモノづくりの成功者であって、かならずしも企業家の支えは要らない。そこが贈与経済的市場経済の世界との違いである。贈与経済的市場経済の世界は企業家が主役であって、モノづくりに励む人たちはその企業家に依存している。企業家さまさまだ。市場的贈与経済の世界はモノづくりに励む人たちが主役であって、企業家はそのモノづくりの励む人たちに依存している。モノづくりに励む人さまさまである。

 

 さて、グローバル化の中で、ユニクロ現象などもあって、農業などのいわゆる地場産業が衰退の危機に面している。それらいわゆる衰退産業の中には、農業などのその地域とは密接不可分の関係にあって、その産業が地域になければ地域の自給的生活がむつかしいという産業がある。それを私は地域の基礎的産業と呼んでいる。かりに、この世の中に市場というものがなくなっても、地域の基礎的産業があれば、なんとかその地域における自給自足的な最低限の生活はやっていけるという状況を、私は、想定しているのである。建設産業も基礎的産業である。地域の基礎的産業は守らなければならない。どうして守るか。市場経済では守りきれないとすれば、贈与経済的な市場経済と贈与経済によって最低限のところは守らざるを得ないのではないか。

 

 モノづくりには、今述べた4つの世界それぞれに課題がある。しかし、私が今政策上の課題として考えている課題は、衰退産業のうち地域の基礎的産業をどう守るかという課題である。NPOの活動や宗教活動や趣味のサークル活動と連動して地域の基礎的産業の振興をどう図るかということである。連動の機軸はモノづくりである。モノづくりをつうじて地域の基礎的産業がどのようにしてNPO活動や宗教活動や趣味のサークル活動と繋がっていくのか・・・・という問題である。そのつながりのシステムを考えなければならない。 

 もうひとつ、モノづくりについて、市場経済と贈与経済共通の課題がある。市場経済的市場経済の世界、贈与経済的市場経済の世界、市場経済的贈与経済の世界、贈与経済的贈与経済の世界それぞれに課題があるのであるが、それらに共通する課題は・・・・、伝統技術についての情報センター・「モノづくり博物館」と感性を磨くための「響き合いの場所」を全国いたる所にどうつくり上げていくのかという課題だ。こういうモノづくりに関する社会インフラというのがないとモノづくりというものが国是にはなり得ない。 

 伝統技術についての情報センター・「モノづくり博物館」と感性を磨くための「響き合いの場所」・・・・、そしてそれを含む・・・・地域の基礎的産業とNPO活動などとのつながりのシステム・・・・、それらをつくっていかなければならない。これが私のいう贈与経済における感動システムづくりである。これもまた新しいモノづくりであることはまちがいない。私たちは、新しいモノづくりによって「伝統の技(わざ)と業(わざ)生きる」のである。

 

註:この節「モノとの同盟」については、次を参照して下さい!

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nippon.html#モノとの同盟 

 

 

2、場所の論理・・・・「劇場国家にっぽん」の構造 

 コミュニティーとか環境の問題は、現在あらためて人びとが関心を向けざるを得なくなった「場所」の問題であるのだが、中村雄二郎によれば、そもそも「場所」というものは、そういうコミュニティーとか環境というような<存在根拠(基体)としての場所>のほかに、<身体的なものとしての場所>、<象徴的な空間としての場所>、そして<論点や議論の隠された所としての場所>の三つがあるという。 

 まず、<身体的なものとしての場所>とは何か。 

 これは、コミュニティーとか環境といった通常いうところの場所、厳密に言えば、<存在根拠(基体)としての場所>ということになるのだが、そういう通常いうところの場所とかかわり、一部重なり合っているのだと中村は説明している。というのは、中村によれば、意識的な自我主体は、実際には身体という場所を基体とすることなしにはあり得ず、しかもそこに成立する身体的実存によって、空間的な場所は逆に意味づけられ、分節化されるからだという。そういう身体的実存によって意味づけられた空間、身体的実存によって分節化された空間というものは、身体の拡張としてとらえられる。すなわち、<身体的なものとしての場所>といってよい。 

やっぱり哲学者の説明は難しい。

私のホームページ(http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nisida6.html)にわかりやすく解説しているので是非ご覧いただきたい。ここでは解説を省略する。

 

 <象徴的な空間としての場所>・・・・、これは聖なる空間としての場所のことである。先に述べたように、固有環境は、ただ単に生物学的・生態学的な意味だけで存在しているのではなく、個人の意思との関係で心的な意味でも重要な役割を持っている。ロコスの働きがあるからである。先に述べたように、<存在根拠(基体)としての場所>は身体的実在(身体性)によって分節化される。

 中村いわく、『 すなわち、空間あるいは世界は、ただテリトリーとして単に外部に向かって他のテリトリーと境界づけられるだけではない。空間あるいは世界は、それと同時にテリトリーの内部でも、そこに棲んでいるもののいろいろな欲求に応じて、内部的に分節化されている。そしてとくに人間の場合には、そのような空間の分節化は、実際的な欲求の次元だけではなく、象徴的な欲求の次元でも見いだされる。<象徴的な空間としての場所>とは、このようなかたちで分節化された空間あるいは世界のことにほかならない。濃密な意味と有意味的な方向性を持った場所と言ってもいい。この<象徴的な空間としての場所>をもっともよく示すものは、世俗的な空間と区別された意味での聖なる空間、つまり宗教的、神話的な空間である。聖なる空間は、象徴的に特別な意味を持った核となる地点の布置を含みつつ、そのまとまりを持った全体性から宇宙論的性格を帯びるのである。 』・・・・と。

 

では、<論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>とはなにか。これも中村の説明を紹介する。 

『 <論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>は、古代レトレックでいうところのトピカ(トポス論)の持つ問題性をもっと広い観点から捉えなおしたものである。もともとアリストテレスではトピカとは、自分の行おうとする議論はいかなる種類の事柄にかかわるか、どのような話題から始めるべきか、を決めるものであった。キケロによれば、隠された場所がわかれば隠されたものがたやすく見出されるように、十分な議論をしようとすれば、その場所つまりロクス(トポス)を知らなければならない。こうしてトピカは発見の術とも呼ばれ、政治や法律の具体的な事例についての議論に不可欠なものとされた。

 このトピカは蓋然性の上にのっとった議論であるため、永い間、とくに近代世界に至って、不確かなものとして退かれることが多かった。しかし、近年になって、具体的な事例や問題の考察と議論において、適切な論点を発見することがいかに必要であるか、また、現実の多面的な豊かさを考えると、蓋然性を受け入れることがどんなに正確であるか、が見直されてきている。必然的な真理のもとづく議論はたしかに正確ではあるが、そうした議論はいくらしたところで、問題の持つすべての局面を考察したことにはならないからである。つまり、正確な推論の出発点となる前提は、えてして単に現実の一局面しか表わさず、したがってそこからの結論もおのずと限られたものになるからである。 』

 

 以上述べたように、「場所」には、通常いうところの場所のほかに、<身体的なものとしての場所>、<象徴的な空間としての場所>、そして<論点や議論の隠された所としての場所>の三つがある。「劇場国家にっぽん」における国土づくり、地域づくり、町づくりは、通常考えられている場所づくりのほかに、これら三つの場所づくりを目指さなければならない。これが今私の一番に言いたいことである。しかし、「場所」の理解としては、それだけでは不十分である。次の視点が重要だ。 

 西田哲学にしたがって、この世界は述語の世界と主語の世界にわけて考えることが肝要だ。述語の世界は述語的述語の世界と主語的述語の世界にこれまたわかれる。同じように、主語の世界は述語的主語の世界と主語的主語の世界にわかれる。このことについて説明しよう。「古池や 蛙飛び込む 水の音」と同じ年にやはり松尾芭蕉がつくった「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」というふたつの俳句を使っての説明である。 

 延原時行が言うように、「蛙飛び込む」は行為の世界、倶現である。そして、「水の音」、これはホワイトヘッドの言う満足、倶現の完了である。ところで、この水の音は、古池の音なのか、蛙の音なのか? 無論、延原時行が言うように、古池(宇宙そのもの、超越者)と蛙(個己)との一体化した「ドボン!」であった。そういうものとして水の音は、芭蕉にとって大音響に響いていたにちがいないと・・・・、延原時行は言っている。

 そうだ。大音響に響かなければならないのだ。感動とはそういうものである。そこは全く延原時行と私と考えが一致している。ただ違うのは、彼は、「古池」を宇宙の象徴として捉え、「蛙飛び込む」を宗教的行為の象徴として捉えているのに対し、私は、それらを象徴としてではなくて、そのまま現実の姿として捉えている点である。「古池」はそういう「場所」であり、「蛙飛び込む」はそういう「行為」である。 

 「古池」とか「名月」は「場所」の世界である。純粋の述語というか述語的述語の世界である。静的な世界である。場所的な舞台装置が大事である。「場所の論理」の働く西田哲学の世界である。自然はもちろんのこと歴史と伝統というものが大事にされなければならない。 

「蛙飛び込む」は行為の世界である。変化を生じせしめる主体の存する主語的述語の世界である。動的な世界である。そこで役者としての人びとは何を演じるか、人びとの生き様が大事である。他者の行なっている行為によって感動が呼び起こされる。私たちは役者の演じる演技を見て深く感動するのである。

 しかし、私たちは他者の行為によって感動を与えられるだけではない。自ら役者となって演ずることだってあるのだ。自ら行なう行為によって宇宙と響き合い、感動を覚えることもあるということである。「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」の「池をめぐりて」は自ら行なう行為の世界である。「夜もすがら」という心境はまさに宇宙と一体になった心境であるが、これは名月のかもし出すリズムとおのれとの共鳴によるものなのか。池をめぐることによりその行為が宇宙のリズムと共鳴しているのか。両方だろう。だとすれば・・・・・、この場合も、「夜もすがら」で象徴されているリズムは、名月の発するものでもあり、池をめぐる自分の発するものでもある。それらが一体になっている。すなわち、池をめぐっている自己は、自己的自己ではなく、名月的自己なのである。そういう意味で、私は、「池をめぐりて」の世界を述語的主語の世界と呼ぶ。

 主語的述語と述語的主語の世界は、他者か自己かは別にして、いずれにしろ行為の世界である。この行為の世界は、「光と陰の哲学」の働く中沢新一の世界である。それが「劇場国家にっぽん」のあるべき世界観であるということだ。ピュシス的技術ではなくて・・・・モノ的技術によるところの・・・・「モノ」づくりが大事にされなければならない。

 

 「水の音」とか「夜もすがら」はインスピレーションの世界である。意味の世界である。判断主体の存する主語の世界である。我は何を感じるか、感じ方が大事である。リズム論の働く中村雄二郎の世界である。「自覚の二重性」つまり宇宙そのものの自覚というもの(宇宙論)と人間的自己の自覚というもの(宗教)が重なり合っている・・・・延原時行の世界である。延原時行がいうように、たしかに神は存在するのである。「場所」との響き合い、「モノ」との響き合い、人々との響き合い、宇宙や神との響き合い・・・、響き合いというものが大事にされなければならない。中沢新一は「神は存在せず」と言い切るが、それでも・・・・私は神は存在すると思う。 

 「劇場国家にっぽん」は、この4つの世界からなっている。「古池」とか「名月」は「場所」の世界である。純粋の述語というか述語的述語の世界である。静的な世界である。場所的な舞台装置が大事である。「場所の論理」の働く西田哲学の世界である。自然はもちろんのこと歴史と伝統というものが大事にされなければならない。「蛙飛び込む」という主語的述語と「池をめぐりて」という述語的主語の世界は、他者か自己かは別にして、いずれにしろ行為の世界である。この行為の世界は、「光と陰の哲学」の働く中沢新一の世界である。それが「劇場国家にっぽん」のあるべき世界観であるということだ。ピュシス的技術ではなくて・・・・モノ的技術によるところの・・・・「モノ」づくりが大事にされなければならない。

 

 以上述べてきたように、歴史と伝統を大事にし、とどうじにタマを大事にする。このことが21世紀における世界の地平を切り開いていくのだと思う。私たちは、中沢真一いうところの「モノづくり」と中村雄二郎いうところの「場所」づくりを国是として、我が国らしい国づくり、地域づくり、町づくりに邁進していかなければならない。

 そのためには、市場経済ではなくて、贈与経済によって「モノ」づくりと「場所」づくりを進めなければならない。それによってはじめて人々の間に・・・響き合いによる感動が生れてくるのである。「水の音」や「夜もすがら」という宇宙との響き合い、タマとの響き合いによる心の深層部分を震わすような感動というものがなければ、各種のニヒリズムから逃れることは難しい。「劇場国家にっぽん」は、そういう感動を得るための・・・「モノ」づくりと「場所」づくり、そしてそのためのコミュニティーづくりないしネットワークづくりを目指している。それは、贈与経済としての・・・・感動のシステムづくり・・・・といってもよい。私たちは、「モノ」づくりによって「伝統の技(わざ)と業(わざ)生きる」とともに、「場所」づくりによって「歴史と風土を生きる」のである。これらはいうまでもなくNPOを中心とした贈与経済の世界であり、市場経済の土台をなす。 

 

 「劇場国家にっぽん」の真髄はNPOの存在にある。NPOを中心にした国づくり、それが「劇場国家にっぽん」であるといって決して言い過ぎではない。 

 

 

4、地域と公共事業・・・・・「町づくり型PFI」 

 公共事業とは私たちが生きる場づくりである。「伝統の技(わざ)と業(わざ)生き、歴史と風土を生きる」ためのインフラ整備を当然含んでいなければならない。そういう「伝統の技(わざ)と業(わざ)生き、歴史と風土を生きる」ための生活基盤を備えた集落こそ、これから私たちが目指すべきサステイナブル・コミュニティーであり、これからの公共事業はそのことをおろそかにするわけにはいかない。

 21世紀を生きるとは、河合隼雄が言う「矛盾システム」を生きるということであり、中沢新一が言う「モノとの同盟」を生きるということである。贈与原理(NPOの論理)は基本的に大事だけれど、私たちはそれだけでこれからの時代を生きるわけにはいかない。河合隼雄が言う「矛盾システム」を生き、中沢新一が言う「モノとの同盟」を生きなければならない。市場原理(企業の論理)と贈与原理(NPOの論理)によって…・・私たちが生きる場づくりを進めることである。本業とは別に、二束のわらじをはいて、・・・・・・そういう「伝統の技と業を生きる」ことであり、そういう「歴史と風土を生きる」ということである。 

 また、21世紀はグローバルの時代であるから、本業としては、グローバルな世界に生きなければならない。つまり、グローバルな激しい競争社会を生きなければならない。したがって、おおかたの人は都市を本業の地としなければならないのであるが、人間らしくイキイキと生きるためには、別業が必要であり、伝統の技(わざ)と業(わざ)生き、歴史と風土を生きるという二面性を備えていなければならないのである。本業を生きるためにも、感性を養い創造力を養うとともに、世界の人びととの交わりを生きる術を養っていかなければならないのであって、そのためにも別業の地が必要である。都市とサステイナブル・コミュニティーとのマルチハビテーションが21世紀の新しいライフスタイルとならなければならない所以である。都市の再生をどう図るかということもきわめて重要な課題ではあるが、今ここでは「モノづくり」との関連でサステイナブル・コミュニティーの方に注意を向けている。「モノづくり」の理想郷づくりと呼んでいいかもしれない。いずれ都市の再生についても触れたいと考えている。 

サステイナブル・コミュニティー或いは「モノづくり」の理想郷・・・・、「モノとの同盟」においては、「伝統の技と業を生きる」場づくりや「歴史と風土を生きる」場づくりとともに、都市の人々のためのリクリエーション空間、交流空間の場づくりが必要ということだし、都市の人々のマルチハビテーションを快適なものにするには、高速交通体系の整備はもちろんのことまだまださまざまな公共事業が必要だということだ。

NPOは本来贈与経済の世界である。農山村地域というかコミュニティーでやらなければならない公共インフラ、ナショナルミニマムとしての公共事業も当然そうだが、それら公共インフラは少なくないけれど、これに対応するには地域の基礎的産業が必要である。もちろん、戦後とりわけ高度成長を契機にずいぶんと公共事業は進んだので、ナショナルミニマムとしての公共事業はそれほど多くないのかもしれない。したがって、基礎的産業としての建設業はあるていどあれば十分なのかもしれない。ナショナルミニマムとしての公共事業だけを考えれば、あるいは農山村地域において現在の建設業は多すぎるのかもしれない。わからない。ナショナルミニマムに関する国民的議論を今までしたことがないので、各地域に今後どれだけの公共事業が最低限必要かがわからない。政府はこの点について早急に検討をはじめるべきであろう。しかし、現段階としては、多くの人が感じているように、ナショナルミニマムを考えたときに現在の建設業は多すぎるという認識にたっておこう。

しかし、公共事業は、ナショナルミニマムだけでやるものではない。「公共事業はB/C(ビーバイシー)ではない、哲学だ」・・・といわれる。ナショナルミニマムのみならず多くの公共事業は、国民の期待に応えて実施されなければならない。国民に夢を与えるために実施されなければならない。青函トンネルは国民の夢であったし、本四架橋は、島波ハイウエーも含めて国民の夢であった。経済効果を超えた何があったのである。それを忘れてはならない。しかし、公共事業は哲学だといっているだけでは国民的賛同を得られないので、ナショナルミニマムとナショナルマキシマムにわけて議論しようというわけだ。

「モノとの同盟」は、贈与経済と市場経済の共生を目指すものであり、そこではナショナルマキシマムとしての公共事業が行なわれる。とりあえず都市との交流といっているけれど草の根の国際交流をも含んださまざまな交流がそこでは行われるはずである。そのことが21世紀の世界を変えていく力となるであろう。私は、「モノとの同盟」により、21世紀の世界はまちがいなく「共生社会」へ変っていくものと思う。「モノとの同盟」がなかりせば、世界はまちがいなく弱肉強食の世界に突入していくだろう。それを救うのが「モノとの同盟」である。そしてその最先端が…・わが国でこれから行なわれる…・「町づくり型PFI」なのである。

 

地域の行政と住民と外部の力が一緒になって・・・・・、そういうサステイナブル・コミュニティー或いは「モノづくり」の理想郷での生活を生きる、それが21世紀の生き方であり、そういう21世紀のいき方を生きる・・・・、そのインフラ整備がPFIであり、PPPである。

公共と民間とのパートナーシップにもとづいてそういう21世紀型の公共事業をどう進めるのか。公共の世界は本来市場原理を越えた世界であり、NPOの世界を含む。民間(企業)の世界は市場原理の世界である。この二つの世界が同盟を結ぶことである。これが「モノとの同盟」の具体化である。「モノとの同盟」それがPFI(PPP)である。したがって、PFI(PPP)はNPOの贈与原理による「モノづくり」が含まれていなければならない。つまり、民間(企業)とNPOとの連携が不可欠ということだ。住民は両方の世界を行ったりきたりしている。民間(企業)とも結びつくしNPOとも結びつく。

 

 ちなみにいえば、PFI(PPP)はNPOとの連携を前提にしているので、PFI(PPP)の民間事業者の選定は、市場原理だけで行われてはならない。市場原理と贈与原理との同盟により行われなければならない。したがって、PFI(PPP)の民間事業者の選定は多段階選抜が原則である。

 さらにいえば、サステイナブル・コミュニティー或いは「モノづくり」の理想郷は、できるだけ多くの部分をPFI(PPP)でやるのがいいと考えているが、そのサステイナブル・コミュニティー或いは「モノづくり」の理想郷に係わるPFI(PPP)は、当然「モノづくり」と関連して、NPOのほかに地域の基礎的産業との連携が必要である。こうなると、PFI(PPP)の民間事業者の選定は多段階選抜というより、日ごろの諸活動を勘案しての随意契約ということになるにちがいない。コストよりNPOや地域の基礎的産業との連携が重視されるということだ。地域内の建設産業の役割は大きい。

「劇場国家にっぽん」におけるPFI(PPP)、つまり私の考える理想的なPFIは、それを行なう民間事業者が中沢新一のいう「モノづくり」を実行し得るかどうか、21世紀の世界の最先端を切り拓く力をもっているかどうか、そういう世界に通用しうる民間事業者の存在を大前提にしている。地域外の建設産業の参加が不可欠であるということだ。

 

 それでは、それらを大前提にして、以下に、「町づくり型PFI」について述べておきたい。これからの建設産業は、もちろん市場原理にしたがって烈しい競争を生き抜かなければならないけれど、贈与経済の担い手、サステイナブル・コミュニティーの担い手として地域における「モノづくり」を押し進めるものでなければならない。以下は、そのひとつの例として私が提唱する・・・・「町づくり型PFI」である。

 

まず「町づくり型PFI」の必要性について述べる。  

 大都市への人口集中、裏返しにいえばこれは過疎化の進展ということだが、過疎化の進展によって、我が国の伝統文化が随所で消滅の危機に瀕している。これはゆゆしきことだ。

民俗学的に価値のある祭りはもちろんのこと、あらゆる伝統文化はなんとしてでも守らなければならない。

 また、地域によっては、著しい過疎化の進展によって、山や森を守ることが困難になってきており、国土保全上大きな問題になりかねない状況も出てきている。

 一方、都市化が進み、日常の中で自然に親しむ機会が減少するにつれて、生活の利便性よりも自然とのふれあいを重視するという自然志向の高まりがみられ、自由時間を過ごしたり、子供を育てる場として、自然の豊かな地域を高く評価する人々が増えている。清浄な水、空気を求める 人々の欲求が強まるなど生存基盤としての環境も強く意識されるようになっている。

 また、「克服すべき自然」という観念にとらわれない、人と自然との新たな関係が模索される中で、自然災害への対応についても、災害を未然に防止する方向だけで考えるのではなく、その発生を前提にいかに柔軟に対応するかという考え方が広まりつつある。

 さらに、そういった自然再認識の流れの中で、国民が広く農用地等と触れあえるよう、グリーン・ツーリズム運動や美しいむらづくり運動が注目されてきている。

 今、耕作放棄地等を樹林帯や花畑等に転換、豊かな自然環境の保全、回復のためのビオトープ・ネットワーク等の整備、都市住民に農作業の場等を提供する市民農園の活用、さらに農作業を通じてレクリエーションや体験学習を行うための施設整備と支援システムの充実が求められているのである。グリーンツーリズム運動や美しいむらづくり運動は、今後きっと、急速な高まりを見せてくるに違いない。

 今は変革期であり、このような変革期においては、「旅の時代」が始まるのだと思う。木村尚三郎さんも同様のことを言っておられるが、我が国の活力ある新しい時代の到来は、「旅」を抜きにしてあり得ない。そういう「旅の時代」というものを視野に入れて、私は、すでに「リゾートオフィス等地域振興モデル事業の実施に関する基本方針(私案)」を国土交通省に提案した。

(http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/moderu1.html)

 

 私は、我が国の伝統文化を如何に守るかという視点、「自然との共生」という国民意識の大転換に如何に対応するかという視点、さらには国土保全という視点からも、国土の中における農山村或いは過疎地域にもっと光をあてなければならないと密かに考えてきた。これらは市場原理を超えた視点である。贈与原理といってよい。

しかし、最近は、そういう視点だけでは不十分であると考えるようになった。つまり、現下の誠に厳しい・・・我が国の社会経済情勢にかんがみ、過疎地域を中心とする農山村地域は、五全総でいうところの「国土づくりのフロンティア」として本格的な整備を急がなければならないような状況になってきたと考えるにいたったのである。市場原理が働く余地も十分あるのではないか。農山村地域は、「都市と農山村との共生」という視点に立って、贈与の原理と市場の原理を共に働かせ、新たな発展を期さなければならない。今後我が国の社会経済が再び活力を取り戻すためには、そういう「モノとの同盟」による農山村地域の改革が欠かせないのである。

 

 「PFI」は、公共事業ビッグバンであり、国の最重要課題して展開されなければならないが、そういった農山村改革のためにも必要である。21世紀の地平を切り拓くためには、小規模ながらも、「町づくり型PFI」を全国展開をはからなければならない。PFIはおそらくそう遠くない時期に本格的な展開がなされるに違いない。しかし、「町づくり型PFI」はそう簡単には動かない。それは「モノとの同盟」がそう簡単には進まないということであり、それはとりもなおさず国民的合意形成に時間がかかるということだ。それでもなお私たちはそういう方向での努力をしなければならないのである。そういう努力の積み重ねの中で、建設産業は、21世紀において、「町づくり型PFI」を実践しながらサービス産業へと新たな発展を遂げていくに違いない。

 

では次に、「町づくり型PFI」を具体的に実践する場合の前提条件や基本的考え方などについて述べておきたい。 

(1)「町づくり型PFI」を展開する場合の前提条件 

 私は、いろんな場で、世界における21世紀の大事なキーワードは、「共生、コミュニケーション、連携」であり、この3つの言葉は若干ニュアンスをことにするけれど哲学としては同根の言葉であると言ってきた(例えば、拙著「桃源雲情」<地域づくりの哲学と実践>、平成6年、新公論社)。そして、この3つの言葉をひとつの言葉で言い切るとすれば「コミュニケーション」だと言ってきた。「コミュニケーション」のシステムがないと「町づくり型PFI」は成り立たない。したがって、「町づくり型PFI」の前提条件として、次の2点は、極めて重要である。

a. インターネットにおいて、全国的及び地域的なネットワークとして、地域づくりのプラットホームが形成されていること。

b. 地域に「リージョナルコンプレックス」が形成され、都市と農山村との交流が活発に行われる素地ができていること。

 「町づくり型PFI」は光ファイバーもなくNPOもないようなところでは行ない得ない。光ファイバーの敷設されている地域において、まずは地域づくりのためのNPOを立ち上げるところから始めなければならない。 

 さて、先に述べたように、「劇場国家にっぽん」は、4つの世界からなっている。歴史と伝統を大事にし、とどうじにタマを大事にする。そのためには、市場経済ではなくて、贈与経済によって、「モノ」づくりを進めなければならない。それによってはじめて人々の間に・・・響き合いによる感動が生れてくるのである。「水の音」や「夜もすがら」という宇宙との響き合い、タマとの響き合いによる心の深層部分を震わすような感動が大事である。「劇場国家にっぽん」は、そういう感動を得るための・・・「場所」づくりと「モノ」づくり、そしてそのためのコミュニティーづくりないしネットワークづくりを目指している。それは、贈与経済としての・・・・感動のシステムづくり・・・・といってもよい。私たちは、モノづくりによって「伝統の技(わざ)と業(わざ)生きる」とともに、場所づくりによって「歴史と風土を生きる」のである。それだけではない。「モノとの同盟」は、贈与経済と市場経済の共生を目指すものであり、そこではナショナルマキシマムとしての公共事業が行なわれる。とりあえず都市との交流といっているけれど草の根の国際交流をも含んださまざまな交流がそこでは行われるはずである。そのことが21世紀の世界を変えていく力となるであろう。「町づくり型PFI」はそのための新しい公共事業制度である。まずはそのためのNPOを立ち上げなければならない。 

 

(2)「町づくり型PFI」の基本的考え方

「町づくり型PFI」は、市場原理を否定するのではない。市場原理にしたがって企業活動は大いに押し進めなければならない。PFIの事業主体はあくまで民間企業である。しかし、まずは贈与原理にもとづいて何ができるのか、そのことを考え、そのための具体的な計画がなければならない。NPOと行政の役割が大事だということだ。「町づくり型PFI」は、民間企業が直接的な事業主体にはなるけれど、地域の人々の参加を基本に、多くの国民が自由に参加できるよう事業が組み立てられていなければならないし、それを行政ができるだけサポートしなければならないということだ。

 つまり、「町づくり型PFI」は、住民参加型の町づくりの中で行われなければならないのであって、さらには、一般国民も、個人投資家の形で随時この事業に参加できるスキームでなければならない。事業への「住民参加と国民参加」、これが「町づくり型PFI事業」の基本的考え方だ。

 「住民参加と国民参加」ということは、事業の実施に当たって、次の条件を満たしているかどうかが重要なポイントとなる。

a. 企業活動の環境が整っていること、つまり、「リージョナルコンプレックス」における・・・行政と住民との充分な連携の下、土地の利活用について住民側の協力体制ができていること。そして又、その反対給付として、これは贈与ということであるけれど・・・・、そうした住民に対する事業収益の地元還元について、然るべきスキームが考えられていること。

b. 公共事業展開の環境が整っていること、つまり、「リージョナルコンプレックス」における・・・行政と住民の充分な連携の下、さらには全国における多くの人々との連携の下、公共施設等の整備についてできる限りの行政負担を可能とする環境ができていること。

c. NPO活動の環境が整っていること、つまり「リージョナルコンプレックス」においてさまざまな交流を可能とする環境ができており、地域にさまざまな町おこしの活動が行われていること。そして又、それに加えて、全国的なネットワークの一翼を担う形で、特に「サロン」や「インターネットのプラットホーム」という新たなコミュニケーションシステムが用意されていること。 

 

(3)「町づくり型PFI」をどう実践するか

 

(3)ー1 NPOとインターネットについて

 

 今述べたように、「町づくり型PFI」は、「サロン」や「インターネットのプラットホーム」という新たなコミュニケーションシステムを前提としている。しかし、農山村地域、とりわけ過疎地域は、光ファイバーの敷設が遅れている。いわゆる条件不利地域が1932町村ある。全国の世帯数約4200万戸のうちで約540万戸がそういう取り残された地域にある。そういった条件不利地域おける光ファイバーの敷設については、今まで農林水産省や旧自治省の補助事業が行なわれているものの、幹線との接続ができないなどの問題があるため、必ずしも十分普及しているとはいえない状況にある。

 総務省は、そういった条件不利地域の光ファイバー敷設を促進するため、2002年度にモデル事業(地域情報交流基盤整備モデル事業)をスタートさせたが、予算は微々たるものである。三重県のZTV(ケーブルテレビとインターネットを営業する第三セクター)のような事例もあるにはあるが、従来の助成制度「新世代地域ケーブルTV整備事業」では条件不利地域での事業展開は一般的にむつかしいのではないか。したがって、当面、「町づくり型PFI」は光ファイバーの敷設された地域で始めることとなるであろう。

 NPOは、インターネットを強力なツールとして都市と農山村との交流を促進し、いずれ民間事業主体が中心となって「町づくり型PFI」を始めれるよう諸般の準備をすることになる。私は、たとえば、次のような活動をはじめるといいのではなかろうかと考えている。

a、ホームページによるコミュニケーション活動

b、グリーンツーリズムないし体験学習の普及活動

c、地域の自然や歴史・伝統・文化に関する調査研究

d、道普請と花一杯運動

e、水辺の整備

f、森林の整備

g、公園の整備

h、「モノづくり」神事の普及活動

i、B&B普及活動 

 

(3)ー2 農山村公園という考え方

 都市公園とは異なり、土地の囲い込みを行なわない地域開放型の公園を私は農山村公園と呼んでいる。そして、とりあえずは、ひとつの集落を中心に山や川を含めて5平方キロメートル程度の区域を考えているが、まあこの辺は地域によっていろいろだろう。適当な数のB&B(イギリス型民宿)を整備し、農園(観光農業)、家畜とのふれあい広場、花園、遊歩道、水辺環境、野鳥公園、ジョギングコース、サイクリングコースなど・・・比較的容易にできるものを整備する。これが第一段階である。

 その後、様子を見ながら交流施設を建設すればいい。交流施設では、インターネットを活用し、全国とのネットワークをもとに、地域やイベントの宣伝、体験学習、グリーンツーリズムその他の交流事業を行なう。そして、逐次、登山道、カヌー基地、馬場、ホーストレッキングコース、オートキャンプ場、養魚場、渓流釣り場などを整備していけばいい。最終的には、優良田園住宅とリゾートオフィスを建設する。こういった取り組みにより、雇用の場がずいぶんと広がるはずだ。

 これらは、第一段階のモノも含めて、NPOだけでもできないし、町村という行政主体だけでもできない。地域住民とNPOと行政、そして民間(企業)とが力を合わせてやらないとできない。住民とNPOと行政と民間(企業)の役割分担が問題となるが、行政負担(公共事業)の限度を明らかにして、あとはNPOが中心になって住民と民間(企業)と相談しながらそれぞれの役割分担を決めればいい。いちばん大事でありかつまたむつかしいのは住民の役割分担である。住民の贈与の原理にもとづく行動をどうルール化するか。企業との結びつきを許容しながら・・・・、そういう贈与の原理を「モノづくり」のかたちでどう具体化するのか、それは大変むつかしいことであるにちがいない。実践を積み重ねながらそれを見出していくしかしかたがないかもしれないが、何とかそれを見出さなければならないだろう。 

 

(3)ー3 いずれ各種行政サービスの展開を

 庁舎(支所)や公民館の改築、改良住宅の新改築、歴史資料館や図書館等の新改築、モノづくり博物館の新築、学校演習林や学校演習農場の誘致・・並びにそれらの管理運営。これらは、将来、町村合併が行なわれた場合、旧町村区域の独自性を維持するために有効かも知れない。光ファイバーが布設され、農山村公園ができ、各種行政サービスの展開が行なわれるようになれば、事業の経営基盤がしっかりしてくるので、広域的にいろいろと事業の拡大を図ることができるのではないか。国道、県道、市町村道の維持管理。河川の維持管理。高速道路のサービスエリアの高度化や有料道路の建設、その他下水処理場やゴミ発電などの広域施設。この水準までくれば、PFIはまさにPPPであり、民間事業者と行政との区別はほとんどないに等しい。サステイナブル・コミュニティーでは、地域住民やNPOを主体に、行政と民間とが一体化している。もはや建設産業はサービス産業と呼ぶにふさわしい。                                                 

 

以上