21世紀・・・わが国の建設業を考える

 

                            2001年5月14日

                            参議院議員 岩井國臣

 

1、創造的破壊

 名古屋大学の学長・松尾稔君をリーダーとする私たちの仲間、それは大学時代の同じ研究室の仲間ということであるが、今までの勉強の成果を、鹿島出版社にお願いして「21世紀・建設産業はどう変わるか」という本にした。少しでも世の中のお役たてれば・・・という思いからであった。以下は、その本の補強のつもりで拙文をしたためたものである。

 その本には「創造的破壊」という言葉が何度もでてくる。現在の建設産業をはじめとしておおよそ土木という分野の多くが破局的な状況にあり、これをどう捉えるかが実は大変大きな問題なのだが、まずそういった基本的な認識論を申し述べたい。

 今の破局的な状況を悲観的に捉えるのではなくて、むしろ楽観的に捉えるべきだというのが私たちのペーパーの基本的態度である。そのことは私たちのリーダー松尾稔君の強調するところであり、知らず知らずのうちにそれが全体の空気となった。空気というものは自然に出来上がってくるものだが、空気というものは誠に大事である。今の破局的な状況を悲観的に捉えるのではなくてむしろ楽観的に捉えるべきだという空気、そういう空気が全体を支配した。「創造的破壊」という言葉が何度もでてくる所以である。

 さてここで問題になるのは楽観的ということであるが、楽観的という意味は、破局的な状況を覚悟する必要がなく、そのうちに何らかの対策が講じられてそのうちになんとか破局は免れるだろうという意味ではない。そうではなくて、破局は覚悟しているのだが、その破局を産みの苦しみとして捉え、破局そのものを前向きに捉えているということである。破局が来るかどうかという点についてはもちろん悲観的なのである。そういう意味で、「創造的破壊」というのは、「悲観的楽観論」と言っても良い。

 

 「創造的破壊」というのが私たちのペーパーのいうなれば基本的なキーワードであるので、まずは、「創造的破壊」ということについて考えてみたいと思う。「創造的破壊」でまず問題になるのは、「何を破壊すべきか」ということであろう。

 

 今まで安定していた従来のシステムの中にそれとは逆の何か新しいシステムが入ってくるとそれらの間にいろいろと摩擦が生じてくる。つまり矛盾が表面化してくる。そういった表面化してきた矛盾をどう調整するかということが大きな社会問題となるのだが、然るべき調整するためには、どうしても古いシステムというものをある程度破壊しなければならない。すべて新しいシステムに切り替えてしまうのであれば、古いシステムは全部破壊し尽くしてしまえばいい。「創造的破壊」は、そういう全面破壊ではなくて、古いシステムはどのようなかたちで残るかは別として何らかのかたちで残る。古いシステムをも大事にしながら何とか新しいシステムを創り出していこうとする態度、そういう態度が「創造的破壊」の態度であろう。

 

 河合隼雄の矛盾システム論というのがある。現在、グローバル化の中で、わが国は、アメリカを中心としたそういう世界システムとわが国の伝統システムの葛藤の中で、新しい秩序を模索しながら苦しんでいる。いろんな矛盾が表面化してきていると言えるのだが、わが国は当分そういう矛盾の中で生きていかなければならない、・・・そういうのが河合隼雄の矛盾システム論である。河合隼雄の矛盾システム論には一種のあきらめにも似た諦観が感じられる。「創造的破壊」と言うとき、そこには諦観はない。

 「創造的破壊」というとき、それは矛盾の中で生きていくのではなくて、矛盾を矛盾と考えないで生きていく。つまり、一見矛盾と見えるものを両方とも積極的に受け入れると同時にそのハイブリッドとしての新しいシステムを生み出していこうとする態度・・・そういう積極的な態度が「創造的破壊」の態度であろう。

創造といえば創造だし、破壊といえば破壊。創造でもなく破壊でもない。そういう「創造的破壊」の対極にあるのが「破壊的破壊」であって、私たちはあくまでも「創造的破壊」を目指さなければならない。「破壊的破壊」ではなく「創造的破壊」・・・、そこがもっとも肝心なところである。

 

まず、「創造的破壊」ということについて、私たちのペーパーにおけるいくつかの文脈を紹介しておきたい。

 

 世界の人々も含めて、日本国民が求める「新の豊かさ」は明確に変わってきている。経済的な効率性や利便性だけを追求する都市や地域や国は、やがて尊敬されなくなるであろう。人間や自然と調和した豊かな住環境や学術文化が自己のものとして実感できる「国づくり」や「世界への貢献」が要求されている。そこでは、20世紀型の土木工学を超えた、保全工学、安全・安心学、民の知恵の活用等々が必要になるのは必然である。いうならば「建設分野のパラダイム転換」・・・そこでは創造的破壊を伴うに違いない・・・が、強く要求されているのである。

 これはまえがきの一部であるが、積極的に「建設分野のパラダイム転換」をしていこうとする態度を充分読みとっていただけると思う。次の文脈にいこう。

 

 とにかく破壊しなくてはダメだ。しかしその破壊は「創造的破壊」でないとよくない。だからここは、みんなに企業家の気持ちが必要だ。(中略)・・・企業家というのは、現状を創造的に破壊する。そうすることによって違った分野が開け、大きくもなるし、堅実にもなる。

 これは第9章の座談会における松尾稔リーダーの言葉であるが、これが彼のいちばん言いたいことであると思う。土木については公共事業のウエイトがすこぶる大きいので、官僚に企業家的な気持ちがないと土木という分野に新たなものは生まれてこない。座談会では、有岡正樹君からPFIを例にしてその指摘があり、創造的破壊は官僚がまだその気になっていないという点でまだまだこれからという結論になっている。いよいよ土木分野における本格的な「創造的破壊」はこれから始まるのだろう。

 

 

 2、両頭截断(せつだん)

 土木分野における本格的な「創造的破壊」を進めていく上で、もっとも大事なことは二元論的なもの考え方は絶対に避けなければならないということである。科学技術と文化、分離と融合という問題に関して、私たちのペーパーでは、そのまえがきで次のように述べているが、これは、今まで科学技術や分離という一方の極にあることがらがあまりにも進みすぎたために、本来あるべき姿からかけ離れたものになっていることを念のために指摘したものである。つまり、これから力を入れなければならない文化面や融合という側面を強調したものである。従来の科学技術や分離というやり方そのものを否定したものではない。この点は注意を要する。

 

 それでは、そういう注意を喚起した上で、科学技術と文化、分離と融合という問題に関する私たちの認識を紹介しておきたい。

 

 20世紀に確立された学術分野・・・・それらは(中略)いわば20世紀の政治・経済・産業にとって都合良く「分割」された分野とも言うべきものである・・・・が、21世紀に向けての現在、完全に行き詰まってきている。20世紀、特にその後半の特徴のひとつは「科学技術」の極端な専門分化・細分化を伴った急速な発展であった。これがあったからこそ、今日の先進諸国における物質的に豊かな「高度技術社会」の実現が可能であったことは紛れもない事実だが、そのパラドックスとして我々は取り返しのつかないほどの代償(負の遺産)を、将来を含めて支払わなければならないこととなった。産業公害に始まる環境問題、エネルギー・資源・食料・人口問題、さらに日常における感動や人間性の喪失、南北格差の拡大等々、数え上げれば枚挙にいとまがない。「科学技術」の深く、高度な「先端的研究」は今後も必須であり、これなくして21世紀に残された上記の諸問題は何一つ解決できない。しかし同時に、20世紀の疎かにされてきた人間性や自然との「調和」の追求が是非必要である。そのためには、前述した20世紀型の学術分野(いわゆる領域学)や技術だけでは、これらに絶対対応できない。現在人々が言うところの文系と理系の「融合」が必要である。

 「分離」と「融合」のどちらにも偏しない、・・・・そういう絶対的な認識が基本的に重要だ。私たちのペーパーではそのことが冒頭でしっかり述べられており、「融合」の必要性が強く訴えられているのだ。二元論的な考え方は厳に避けなければならない。

 

 地方分権やPFIなどの問題については、分割と統合という観点から言えば、今までは中央集権的なシステムや考え方が主流であったために、今後はむしろ分離、分割に力を入れるべきで、融合、統合のある部分は破壊しなければならない。 なお、私は、白といえば白黒といえば黒、逆に白でもない黒でもない、或いは善でもないし悪でもない、善といえば善悪といえば悪などといい、「両頭截断(せつだん)」ということを言ってきた。「両頭截断(せつだん)」とは、二元論的な思考を戒めた言葉だが、小林慶一郎、加藤創太のベストセラー「日本経済の罠」のなかで再三そのことを強調しておられることには少なからず驚いた。驚いたというより意を強くしたというべきかもしれないが、我が国で現在もっとも重要かつ緊急課題である経済問題において二元論が話題になろうとは全く思いもよらないことでもあるし、「日本経済の罠」の根本原因が二元論の流布にあるという彼らの指摘に及んではただただ驚いたというより他はない。近年こんなに意外なことに出会ったことはない。目からウロコが落ちる思いである。彼らは最近の風潮を「不毛な二元論」と断じているが全くそうである。

さて、彼らは次のように言う。

「需要サイド論対供給サイド論」という不毛な二元論が、なんら建設的な政策論争に結びつかなったことは、すでに何回か述べた。また、第5章では、「国対私」あるいは「官対市場」という二元論的な理解が、企業や市場の公共性を損なわせていることを指摘した。

新聞などでは、対立する論調を併記している記事をよく見かける。そして、併記された二つの論調は、往々にして、相手の立場を一方的に批判したり、自分の立場の正当性を一方的に主張しているものが多い。また、政治の世界においては、二大政党こそが望ましい政党政治のあり方だ、と考えている政治家やジャーナリストが現在でも多いようだ。こうした「二大政党制待望論」の背景にも、争点の本質を二元論的に捉える思考的枠組みが見え隠れする。

二元論的思考には、争点を明確化するなど利点も存在する。反面、その両者の中間的領域、あるいはその両者と異なる座標空間の存在を見過ごしてしまう恐れがある。また、お互いに牽連性や補完性を持つ争点(座標軸)を、対立的あるいは独立的なものと捉え、二者間の選択を迫るような議論の重大な誤りを引き起こす可能性がある。

 

 二元的な考え方を排す、・・・私は「両頭截断」と言っているのだが、あくまでもハイブリッドな考え方が重要なのである。ハイブリッドな考え方に関する哲学としては田邊元(はじめ)の「種の論理」がある。「種の論理」がこれからの思想の地平を切り拓く・・・その可能性について、中沢新一の近著「フィロソフィア・ヤポニカ(集英社)」に詳しく書かれているし、また私も私のホームページに小論文を書いているので、それらを御覧いただくとして、ここでは省略する。

 

 

3、国土づくりのビジョン

 ペーパーをまとめるにあたっての最終段階で行なった「21世紀の建設産業はどう変わるか」という座談会では、司会の富永真生さんが、創造的破壊の先にあるもの・・・、それをさかんに聞かれたのだけれどどうもみんなの共通認識というものは出てこなかった。有岡正樹君をはじめ数人の人からPFIに対する期待が示されたけれど、全般的には創造的破壊の・・・・その先の夢を描ききれなかったと言ってよい。黒田勝彦君(京大教授)から国民に夢を与えきれていない政治家の責任を指摘され、私もいささか責任を感ぜざるを得ない。

 国土政策で今何が問題か。今通常国会で新産工特法が廃止になったが、今後21世紀において新産工特に代わる産業立地政策は何か。かって梅棹忠夫の情報産業論というのがあって一世を風靡したが、ポストモダンが感性の時代であるという彼の指摘は今なお新鮮さを失っていない。私は、彼の指摘に従って、今後の産業立地政策は、IT産業とビジター産業を中心に展開するのがいいと考えている。どちらも感性がもっとも大事な産業だからだ。これからの我が国は感性というものを大事にして生きていかなければならない。そのための地域づくりを進める必要があるが、そのためには、まずはソフトな対策として、太田秀樹君(東工大教授)も指摘するように、風土工学を育てていかなければならないし、私がかねてより主張していることだが、KJ法を活用した風土に関する地域のデータベースを整備しなければならない。ハードな社会資本整備としては、・・・高速交通・通信体系の整備が大前提であることはいうまでもない。

 御承知のように、わが国は情報技術(IT)の最先端国家を目指すこととなっている。今後いろんな取り組みが行われるのだが、それによって情報技術(IT)革命が進展するであろうし、それによって人々のライフスタイルも大きく変革されていくものと思われる。

 しかし、ライフスタイルの変革をもたらすものは必ずしも情報技術(IT)革命だけではない。21世紀という新しい時代は、平和の時代であり、コミュニケーションの時代であり、旅の時代である。そして何よりも感性の時代であると思う。それら新しい時代の動きは自ずと人々のライフスタイルを変革せざるをえない。

 情報技術(IT)革命とライフスタイルの変革に対応した新しい国土政策が必要であり、コンテンツ産業及びビジター産業を意識した新しい地域振興策が必要である。コンテンツ産業及びビジター産業を意識した地域振興策というのは、コンテンツ産業及びビジター産業を育てるための地域振興策であると同時に、コンテンツ産業及びビジター産業による利益を積極的に活用する地域振興策である。そのためには各機関においていろんな試みが行われる必要があると思う。

新しい時代の二大潮流を意識しているところにこの事業の新鮮味があるし、育成と活用という両義性を有しているところにこの事業の国家政策上の意義がある。かかる観点から、当面、情報技術(IT)革命とライフスタイルの変革に対応した地域振興策をモデル的に実施するのがいいと私は考えている。それによって21世紀における国土づくりのニューフロンティア・多自然居住地域(過疎地域)の整備のあり方を指し示すことになるだろう。

 しかし、こういった国土政策を立方措置を講じて本格的に展開するには、やはりもっと基本的な国民的合意というものが必要ではないかとも思う。首都機能移転の問題に見られるように、国土政策において国民的合意がなかなか得られないのは、やはり基本的に「この国のかたち」が必ずしも定まっているといいがたいからではないか。つまり、国と地方との関係、それは煎じ詰めて言えば官と民との関係となるのだが、そういったことについて国民的合意が必ずしも得られているとはいいがたい。官と民との関係は、権力と権威との関係でもある。権力と権威との関係を明らかにすることは、結果として、天皇の権威に触れることでもあり、象徴天皇の問題に触れることである。象徴天皇の議論は、議論として誠に深遠なものがある。「この国のかたち」を明らかにするということは、このように、結局、「憲法問題」に帰する。私が座談会の中で憲法論議に触れたのは、実は、そういう権力と権威の問題があるからである。

 ちなみに言っておけば、もともと象徴(シンボル)は、ギリシャ語のsymballeinという「いっしょにする」という動詞の名詞形シュンボロン(symbolon)に由来するという。何かあるものを二つに割っておき、それぞれの所有者がそれをつきあわせて、相互に身元を確認し合うもの=割り符を意味した。すでに新石器時代、神話と結び付けられて、象徴概念が発生したそうであるが、こんにちでは、哲学、論理学、心理学、宗教学、美学、政治学にいたる寛い分野で研究対象とされている。政治的には、同一化、正当性、統合化といった機能を果たすものとされている。以上は、駒沢大学教授の西修の著書「日本国憲法を考える(文芸春秋)」からの引用であるが、今後、建設産業のあるべき姿を考える場合もそうであるが、すべての場面でハイブリッドな議論が必要であることを是非とも御理解いただきたい。

 黒田勝彦君の指摘もあり、私としては、当面、モデル事業でもいいから、IT産業とビジター産業を中心にした国土政策を展開できるよう努力する傍ら、「両頭截断(せつだん)」の立場すなわちハイブリッド思想の立場から、土木技術者の権威、そして民の権威ないしNPOの権威というものを如何に高めるかという課題に取り組みたいと考えている。

 

 

4、PFIについて

 私は、国と地方との関係において、現在の地方分権論は中途半端であると考えている。本来、国と地方との関係を考えるにも、二元論は排さなければならないのであって、ハイブリッドな議論が必要である。従来の機関委任論は、言うまでもなく中央集権的な考え方であって、原則として、行政の仕事は一義的には国、国のできなものは県、県でできないものは市町村でやるべきという考え方である。それに対し、政府信託論は、地域住民でやれるものは地域住民でやる、地域住民でやれないものは市町村でやる、市町村でやれないものは県でやる、県でやれないものは国でやるという、・・・機関委任論とはまったく対極にある考え方である。現在の地方分権論は、必ずしも政府信託論に立ったものではもちろんなく、ただ単に国の権限を県に委譲するというだけである。機関委任事務か自治事務かという二元論に落ち入っているからである。二元論でやるのなら、政府信託論に立つべきだ。もっとも、本来は、機関委任論と政府信託論を対極において、それらのハイブリッドを考えるべきである。

 私が専門とする河川管理の場合を考えてみよう。判りやすいので、琵琶湖を例に取る。琵琶湖の場合、実際がそうなっているのだが、治水や利水は当然国の管理になっているが、環境関係は県の管理になっている。知事が管理権を手放さないからだが、私は、それでいいと思っている。むしろ、環境に関する管理権の一部を市町村に委譲していいのではないかと考えているぐらいだ。河川や湖沼というものは、国の財産であると同時に地域の財産である。したがって、その管理者というものは、管理行為の内容によって、それぞれ、国であったり、県であったり、市町村であるべきである。ハイブリッドな考え方が正しいのだ。

 私は、そのように考えているので、イギリスのグランドワークやフランスのエコミュージアムを参考にして、私は、地域住民の地域づくりへの参加を主張している。「21世紀・建設産業はどう変わるか」という我々の本において、太田秀樹君、「地域の人々の生活を支えるもの、つまり生活の基盤が、社会基盤、インフラストラクチャーである。それは地域に住んでいる人たち、地域で働いている人たち、地域を訪れるひとたち、みんなの共通の宝物といえる。地域の将来や発展は、インフラの適、不適で決まってしまうものである。したがって、計画作成段階で地域のひとたちが参加する事が必要不可欠である。このような哲学をもった建設エンジニアがいなければ、積極的な経済成長のための先行投資としての重要性を・・・・インフラ整備に持たせることができなくなる。」・・・・こう言っており、私の考えと同じであるので、彼と対談をした。そうしたところ、彼は、イギリスのグランドワークやフランスのエコミュージアムなどを考えてそう書いたのではなく、PFIをイメージしながらそう書いたのだと言う。ちょっと当て外れの感がないではないが、よくよく考えれば彼の直感の方が正しいのかもしれない。

 私は、町づくり型のPFIというものを考えており、その考えは公表もしている。しかし、実のところを言うと、最近は住民参加型というか地域と一体になった事業主体を前提とする・・・私の考えは、さらに進化して、グランドワークやエコミュージアムなども、PFIでやったらどうかと考えるようになっている。公表はしていないが密かに思っているということだ。今、「彼の直感の方が正しいのかもしれない」といったのはそういう意味である。

 町づくり、地域づくりそのものを丸ごと・・・建設業者を中心とするシンジケートがPFIで請け負ったらどうか。これからの町づくり、地域づくりは、風土工学を前提にしないといけない。これも太田君の言うとおりだ。そうだとすれば、川喜多二郎さんの言うように、KJ法とコンピュータと結び合わせて、「情報の創造活動」を強力に押し進めなければならない。

 過疎問題の根本的解決には、まずはコミュニティーの復権だが、次の問題としては、先に述べた地域の伝統・文化に根ざした「草の根国際交流」とともに、「知的産業の育成」ということが重要である。そして、その基本になるのが「情報の創造活動」だと川喜多二郎さんは仰有っている!・・・「情報の創造活動」・・・・聞き慣れない言葉だが、「情報の創造活動」とは、単独ではほとんど活用のしようのない・・・生のいろんな情報を、ある問題意識に応じ、整理・加工し、付加価値のある情報としたものである。今は、情報の電子的処理技術だけが猛烈に発達して、それについていくのが大変な状況だが、受け手がその情報にどのような価値を見出すことができるのかが大問題で、情報を整理・加工して然るべき付加価値をつけなければおおよそ利用価値はない。つまり情報の創造に繋がっていかなければ、おおよそ意味がないということである。

 川喜多二郎さんによれば、郷土愛などというときの愛とか愛着というものは、創造の共通体験から生じる。そしてその愛(川喜多二郎さんのいうところの創造愛)が累積していくと、そこに伝統的な組織体(川喜多二郎さんのいうところの伝統体)ができる。なかなか理解しにくいところもあるが、川喜多二郎さんは、その創造愛と伝統体の間で、情報の循環と累積がおこっていればその伝統体は持続可能・・・・そう言いたいらしい。要するに、「伝統体」というものの重要性と、それを前提とした「情報の循環と累積」の重要性には着目しなければならないだろう。今、地域においてはその「情報の循環と累積」が断ち切られてしまっている。いいかえれば、「情報の創造活動」がなくなってしまったということであり、これを現代風に復活させないともはや地域の伝統体、つまり地域コミュニティーは死に絶えるほかはない。「情報の創造活動」は喫緊の課題である。ここに建設業の生きる道がある。建設業は、地元建設業はもちろんのこと関連産業とシンジケートを組んで、「情報の創造活動」を展開の上、町づくり、地域づくりそのものを丸ごと請け負ったらどうか。そして終局的には「ビジター産業」をも経営すべきであろう。

 

 さて、ぼちぼち終わりに近付いた。最初の「創造的破壊」に戻るが、「創造的破壊」を進めるには、私たちはどうすればいいのだろうか。結局のところは、やはり各個人の意識が変わらなければ根本的には何も変わらないようにも思われるのだが、果たしてそういうことなのか。最後に、・・・・他に発表した私の小論文から、関係部分を引用しておく。

 白と言う人、黒と言う人、そしてその中間にいろんな意見を言う人がいなければシステムというものは変わらない。それは確かだろう。いろんな人が、自由に自分の意見を言い、自由に行動をする。それらはまことに小さいベクトルであっても、同じような環境におかれている人々の自由な行動があるのであれば、それらのベクトルは、全体として、大きなベクトルとなって、次第次第に今のシステムを変えていくだろう。変革とエネルギーは、個人のベクトルの集合だから・・・・。

 今ここで私は、各個人の意識の重要さを言うためにベクトルを例に使って説明した。しかし、実は、こういう例のあげ方は必ずしも適切とはいいがたい。今ベクトルで例示された各個人の発揮する力というものは静的なものでなく、動的なものである。私は今ネットワーク・アイデンティティーというものを念頭においているが、アイデンティティー自身が発する振動に別の振動が加われば増幅が起こったり減幅が起こったりする。アイデンティティーというものがそういう運動体であるので、ベクトルと呼ぶのは適切ではない。振動ベクトルとか動的ベクトルとか呼ぶのがいいのかもしれない。言い換えよう。変革のエネルギーは各個人の動的ベクトルの集合である。帰属意識の裏打ちされた各個人の動的ベクトルは互いに共振を起こしやすい環境にある。共振現象というものは、最初のゆれは誠に小さくても、次第に大きく揺れはじめ、遂には大きな破壊力を発揮する。

 実践活動こそが「創造的破壊」の原動力である。しかし、「我語る故に我あり」・・・これは、中村雄二郎の哲学だが、コミュニケーションこそ大事である。そのことは間違いない。

 


これからの建設業は如何にあるべきか(平成12年3月21日島根にて)

 


 

PFI第1弾 欧米及び東南アジアにおける民活について

PFI第2弾 日本版PFIの要点

PFI第3弾 PFIの理念について 

 

 

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