「モノ概念」の重要性
私は先に、「古池や 蛙飛び込む 水の音」という松尾芭蕉のかの有名な俳句にもとづいて・・・・・、「劇場国家にっぽん」の構造を明らかにした。
「古池」になぞらえられる「場所」の世界と「蛙飛び込む」になぞらえられるは行為の世界と「水の音」になぞらえられるインスピレーションの世界の3つの世界がある。「劇場国家にっぽん」は、この3つの世界からなっている。
そして・・・・、歴史と伝統を大事にし、とどうじに進歩を大事にする。そのためには何よりも「モノ」づくりが大事にされなければならない。それによってはじめて人々の間に・・・響き合いによる感動が生れてくるのである・・・・と述べた。
「場所」との響き合い、「モノ」との響き合いということを私は言いたいのだが、「場所」との響き合いについては、すでに西田哲学の「場所の論理」でいろいろと述べてきた。今後それなりの補強は必要であるとしても、すでに「場所」との響き合いということについては十分ご理解がいただけているものと思う。問題は「モノ」との響き合いということである。以下、中沢新一の近著「緑の資本論(2002年5月、集英社)」にしたがって、「モノ」との響き合いということについて述べていきたいと思う。
「モノ概念」とは何か。まずは中沢新一の説明を聞こう。
モノは、感覚的対象である「外延」から非感覚的な「内包」にいたる、じつに深々とした意味領域を包摂したことばなのだ。外延的モノは、いわゆる物体のことを指している。しかし、内包の軸のほうに目を移すと、そこには「鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象」として畏怖をさそう「モノノケ」や「モノに憑かれる」というときのモノが出現する。たしかに、物体としてのモノもモノノケのモノも、ともにその非人格性、非人間性によって、共通したものをもっている。しかし、それらをひとつの統一性をもった対象としてとらえることはできるだろうか。つまり、ヒトの外にあって活動・存在していて、たまさかはヒトに憑くこともするモノ・・・・・・と、科学技術によって操作や計量の対象になる物体としてのモノとを、ひとつの巨大な統一性の、外延から内包にわたる多様な表現展開として、理解することができるだろうか、という問題である。
これは大きな現代的な問題を提出している。なぜなら、こんにちバイオ技術は、生命をモノとして扱うことができ、またそれは未来の資本主義にとって、莫大な利潤をもたらす商品体として取り扱うことも可能にすると主張しようとしているが、私たちの中には、そのような技術が幸福とともに災禍をももたらしかねないという不安な予感があり、それは生命をたとえ非人格的なモノとして取り扱うことが可能であるとしても、生命は単に物体として操作可能な外延的対象としてのモノであるにとどまらず、昔の人たちが「鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象」などと言っていた、内包的なモノにも深くかかわっていることを、直感的に理解しているからである。
「モノとしての生命」という表現には、いまだ科学によっても明らかにされていない、別の意味が隠されている。モノを単なる物体である状態から解放していかなければならない。クルミの殻のように固いモノ概念の内部に、複雑な構造と運動を発見していかなければならない。こんにちもっとも必要とされているもの、それはモノをめぐる新しい思考を創造することだ。これを新しい唯物論の創造と呼んでも、的ははずれていない。
以上である。
すごい!中沢新一はすごい!
すでに前に、私は、中沢新一が21世紀の新しい哲学を創り出してくれるのではないかと、その期待を表明しておいた。中沢新一の著書「フィロソフィア・ヤポニカ(集英社、2001年3月 )」にもとづき田邊元の「種の論理」の解説をしたときのことである。私の期待にたがわず、中沢新一は、「緑の資本論」として新しい唯物論を展開しようとしているのである。その鍵を握るのが「モノ概念」である。私は、中沢新一の「モノ概念」にもとづき技術のあり方を考え、地域のあるべき姿を提唱したいと思う。「劇場国家にっぽん」の一つの側面を明らかにするつもりである。