三乗とは

 

 

 乗とは乗り物のことだが、修行方法を乗り物に喩えて、乗と言っている。三乗とは三通りの修行方法という意味である。徳一と最澄との間で争われた宗教論争・三一権実論争というのは、実は、その基本問題として人間そのものに対する認識問題があるのだが、まあ平たく言ってしまえば、修行僧の修行方法は三通りのものを考えるべきか一通りのものでいいかということである。

ところで、涅槃(ねはん)とは、一切の迷いや苦しみから解放された、仏教が目指す理想的な境地をいう。本来は、不生不滅の悟りの境地であるが、唯識では、それ以外にも、それに準ずるものとそれを超えるものを考えている。それに準ずるものというのは、有余涅槃(うよねはん)と無余涅槃(むよねはん)であり、それらは生きるとか死ぬとかにまだこだわっている状態である。前者は生きることにこだわって死ぬことを怖がっている。世間を捨てて山で静かに暮らす世捨て人のような人であろう。後者は死ぬことにこだわって生きる道を捨ててしまっている。即身成仏として生きたままミイラになったような人であろう。修行僧の多くはなかなか生死を超越できないようで、私はそれらを一般修行僧と呼ぶことにしよう。

生死を超越した境地、それが修行僧の理想であるのだが、そういう理想的な境地を、唯識では、無住処涅槃(むじゅうしょねはん)と呼んでいる。こういう境地になれた人が菩薩である。しかし、ものには上があるといえば上があるもので、この境地の上に本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)という境地があるという。無住処涅槃(むじゅうしょねはん)というのは、私の理解では、慈悲とか無慈悲とかにまだこだわっているのだが、本来清浄涅槃(ほんらいしょうじょうねはん)というのは、もうそういう慈悲とか無慈悲とかを超越している。すなわち、慈悲でなければいけないとか無慈悲ではいけないとかそんなことは考えないで、「すべて存在はありのままでいい」という絶対的な境地である。これが仏の境地である。菩薩といえどもこういう境地にはなかなかなれない。通常、修行の方法を考える場合、仏のことは考える必要はない。

 

したがって、一般修行僧の修行方法と、菩薩になるための修行方法が問題になるが、唯識では、人間は、マナ識の違いによって生まれながらにして自ずと違いがあるし、教育環境などの環境の違いによってアーラヤ識の薫習(くんじゅう)に差がついてくるので、後天的な能力にも差がついてくる。こういった人の違いというものを考えて修行方法を考えるべきだというのが法相宗の考えである。

一般修行僧の修行方法には、「声聞(しょうもん)」といって仏の声すなわち仏の教えを聞いて悟るという修行方法、それから、「縁覚(えんがく)」とか「独覚(どつがく)」といって縁起という真理を自分独りで覚る(さとる)、つまりひとり静かに座禅を組みながら飛花落葉を観じて悟るというような修行方法、この二つの修行方法がある。修行方法を道というとしたら、「声聞(しょうもん)道」と「独覚(どつがく)道」と「菩薩(ぼさつ)道」である。これを「声聞(しょうもん)乗」と「独覚(どつがく)乗」と「菩薩(ぼさつ)乗、又は大乗」と呼んでいる。

なお、ちなみに、「声聞(しょうもん)」と「独覚(どつがく)」という言い方で修行僧の種類をいう場合がある。「声聞(しょうもん)」とは仏の教えを忠実に受けて実践する普通の修行僧のことである。「独覚(どつがく)」又は「縁覚(えんがく)」とは一人で修行する人のことであり、これを辟支仏(びゃくしぶつ)ということもある。

 

次は、岡野守也の「唯識のすすめ」(NHKライブラリー)における説明である。

 

『 確かに声聞・独覚と菩薩はどちらもニルヴァーナ=煩悩がなくなることを真理(滅諦)としている。それはいちおう同じですが、二乗の場合、すべての迷いがなくなるというのは、それはひたすら生死輪廻の世界から去って、もう生死輪廻しなくなることです。それに対し、菩薩が迷い・悩み・煩悩をすべて滅ぼした状態は、だからもう輪廻しないとか、生死しないとか、生死を越えてしまうとか、生きるのをやめるとか、死んだら死にっきりになってしまうとか、そういうものではない。かといって、生死輪廻の世界にいつまでもさ迷っているのかというと、もちろんそうではない。そんどちらでもない、というわけです。 』