PFIの基本理念について(第三弾)
平成10年3月23日
参議院議員 岩井国臣

1、基本理念として何が問題か

 「少子高齢化、高度情報化、国際化の急速な進展に対応して、わが国経済社会の大きな転換が進みつつある中、建設行政もその例外ではあり得ない。」・・・・・参議院・国土環境委員会で建設大臣は所信表明の中でこのように言われた。・・・何をどう改革していくのか・・・・その辺りはなかなか難しい問題だが、建設省も諸般の改革には今後積極的に対応していく必要がある・・・そういうことだろう。建設行政も大きく変わらざるを得ない。しかし、何をどう改革していくのか。

 橋本内閣のいわゆる六大改革は是非進めなければならないが、加藤自民党幹事長が代表質問でいっておられるように、六大改革のイメージは人によって違うようだ。そんなこともあって、六大改革との関連から建設行政の大転換を論ずることは難しい。
 そこで、まずは六大改革について私なりの考えを述べ、PFIの理念として何が問題なのか・・・その点について少し考えてみたい。
 

 橋本総理は今進めている六大改革を明治維新と戦後の改革に次ぐ第三の改革と言っておられ、加藤幹事長は「第三の自由・民主主義改革」だと言っておられる。
 
 ところで、先般、イギリスの首相トニー・ブレアが来日されたが、私は、・・・建設行政という立場からも、トニー・ブレアの政策について強い関心を持っている。トニー・ブレアの政策は、我が国の建設行政においても参考にすべき点が多いのではないか・・・・そんな風に思っている。今後、イギリスに学ぶ点は何か、トニー・ブレアに学ぶ点は何か。

 ケインズ主義というか・・公共事業を主体にした財政運営・・・そういった従前の政策に対し、サッチャーは徹底的な市場原理の導入を図った。今、自民党ではPFIが大きくクローズアップされているが、サッチャーは、徹底的な民営化を図り、刑務所までPFIでやった。
 しかし、トニー・ブレアは違うようだ。ケインズ主義から離脱し、しかもサッチャーの市場原理万能主義でもない・・・そういった新しいものを目指しているようだ。建設行政との関係でも、民間部門と公共部門の役割分担を見直そうとしているようである。
 「ダイナミック経済」といっているようだが、・・・・市場経済は守る、しかしすべてを市場経済でやるわけには行かない・・・これがトニー・ブレアの考えのようである。
 イギリスのPFIについては今後は少し変質するのかもしれないが、我が国の建設行政においても、公共部門と民間部門の役割というものを今後どう考えるべきか・・・これは、PFIとも関連して、現下において誠に重要な問題である。

 すなわち、加藤幹事長の言われる「第3の自由・民主主義改革」という大テーマの中でPFIというものがどう位置づけられるのか・・・今、そういう問題が生じてきているということだ。

 私としては、ケインズ主義というものから離脱しないで、市場経済を発展させるということができないのか・・・そんな思いがしている。

 ところで、自由放任主義の市場経済は、そもそも弱肉強食の無制限な競争社会を意味しているのではない。自由放任という言葉は、もともとA.スミスの「国富論」での主張を表したものと言われているが、特に現代の自由競争市場理論の生みの親であるL.ワルラス(1898年の応用経済学研究)以来、「潜在する自由競争のエネルギーが現実の市場において解放されるような条件を整えよ!」・・・そういう意味に使われるのが専らであろう。
 1930年代の大不況以降、ケインズ理論が普及するにつれて、俗流の自由放任主義は後退したが、意図しないところで政府規制が強くなりすぎて、自由競争市場の機能が阻害されるという状況が出てきた。しかし、規制強化という現象は、ケインズの意図するところでは勿論ないし、そのことによってケインズ理論が間違っているということは言えないと思う。
 
 

2、「第3の自由・民主主義改革」とPFI
    ・・・市場経済における一つの大事な視点(官からの脱却)・・・

 本来、自由主義と民主主義は矛盾する概念かもしれないが、19世紀後半のA.スミス以来の歴史的経験の積み重ねの結果、ご承知のように、今では、自由民主主義という形で一つの概念を形成しているのではないか。現代の自由主義は、普通選挙と大衆政党を当然とする自由民主主義のことであると思う。

 さて、一般に個と全体は難かしい。個と全体は一見矛盾するもののようであるが、果たして矛盾するものであろうか。
 お互いに矛盾するものがお互いに微妙な関係を持ちながらお互いに威張って存在している、こういう例は、この現実の世の中に数多くある。
 「両頭切断して一剣天に依ってすさまじ」という禅の言葉がある。白と黒とか、善と悪といった相対的な認識の仕方を排して、ものごとの絶対的認識の重要性を言い表した言葉であるが、経済活動においても、全く同様で、・・・・規制と放任が共存する社会が現実の社会であろうし、またそれが望ましいのではないか。

 「個人主義の前提に立つ限り、諸個人のあいだの同質性を何らかの形で仮定するのでなければ、社会的厚生の判断基準を組み立てることは困難である。しかし、こうした仮定を持ち込むことは、近代経済学の依って立つところの個人主義の原理そのものと抵触するおそれなしとしない。つまり、経済哲学は、個人および社会(全体)に関する認識論において、原理的な難問に逢着していると言える。(平凡社、電子百科事典、経済哲学の項。)」・・・このような意見もあって、個人と全体の問題は、確かに難しい問題ではある。

 しかし、それは、相対的な認識論ではなく、絶対的な認識論としては・・ということだ。絶対的な認識というものは一般的には確かに難しいのだが、経済哲学としては、自由主義と民主主義の矛盾の問題は、既に、一応の解決がついていると考えてよい。

 したがって、現在、自由民主主義における問題は、社会経済システムの未成熟さに起因して、官僚という権力機構が・・・・個人の或いは企業の自由な活動を損なっている・・・そういう官僚の問題であろう。
 自由主義の信条は、「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」というアクトン卿の言葉が示すように、・・・権力へのペシミズムを特徴とするが、その裏には個人としての人間の能力へのオプティミズムが厳として存在する。今日、自由主義を標榜する体制の下においても又、官僚という権力機構の腐敗が進み或いは国民の政治離れというものが進むとき、自由民主主義のあり方があらためて問われるのは当然だ。

 従来は、経済システムも、他の社会システムと同様、戦前における中央集権的というか・・・官僚主導のシステムであった。一般的には、おおよそこういう認識であろう。これからは公権力による規制をできるだけ緩和して、自由経済をもっとイキイキしたものにしたものにしていかなければならない・・・この点も一般的に認められている認識ではないかと思う。

 ところで、規制のルールの中で或いは規制外の世界で自由な経済活動が行われるが、それは必ずしも狭義の意味の市場経済を意味しない。贈与経済(奉仕経済)というものがあるからだ。
 贈与経済(奉仕経済)という・・・・貨幣経済というか狭義の意味での市場経済とは全く相対する経済活動が、今後、活発に行われるようになるだろう。そして、この場合、市場経済は、もはや飛翔をとげて、贈与経済をも包含した新しい意味での市場経済になっているだろう。貨幣経済と言えば貨幣経済かもしれない、贈与経済(奉仕経済)と言えば贈与経済(奉仕経済)かもしれない、又貨幣経済でもないし贈与経済(奉仕経済)でもない。そういう誠に曖昧な領域における経済活動が今後大いに見直されるだろう。

 実は、市場経済論というか市場経済の哲学論としては、この点がもっとも大事な点である。そして、そういう議論にもとづいて「第三の自由・民主主義改革」を論じなければならないのだが、・・・今までが余りにも官僚主導の部分が多かったので、今やらなければならない改革の重点は、やはり市場経済の問題にならざるを得ない。・・・行政をスリム化しながら市場経済の部分をどこまで増やすかという問題だ。

 以下、市場経済というとき、筆者の認識としては、同時に規制経済(ここでは、経済規制をともなった経済活動の部分をいう。その部分に限り官僚主導である点はやむを得ないとする、そういう経済活動の部分のことである。)及び贈与経済の存在の価値を十分認めているのであって、市場万能主義の立場でいっているのではないことをまずご承知いただきたい。

 イギリスは、トニー・ブレアの政策によって、従来の政策を大きく変えようとしている。勿論、我が国とイギリスとはその歴史も違うし、国民性も違う。又、現在おかれている国際的な政治、経済の立場というか状況を異にする。
 したがって、我が国は、やはり、我が国らしい「第三の自由・民主主義改革」というものを進めるということになるのだが、私は、ヨーロッパ、とりわけイギリスの動きに注目している。

 われわれ自由民主党のおおむね平均的な考えからすると・・・というより私の考えと言うべきかもしれないが、大体、われわれの考えを中心に考えて、「官僚の強さ」という点では、アメリカ型の経済社会システムは右寄りであるし、従来の我が国を含むアジア型の経済社会システムは左寄りである。
 イギリス、ドイツ、フランスなどがどの辺に位置するか、難しいところだが、現在の日本よりは左より、アメリカより右寄りであることは間違いあるまい。
 今後、我が国らしい「第三の自由・民主主義改革」は、左右の良いところは大いに取り入れながら、終局的には多分、イギリス型か、ドイツ型か、フランス型かわからないが、かなりその辺に近いものになるのではないか。

 今後ビッグバンにより進むであろう証券市場も、アメリカ型になるのかドイツ型になるのか、その辺は今後の課題だが、両者の良いところは緊急に取り入れていく必要がある。(「不動産は金融ビジネスだ」、井出保夫著、フォレスト出版及び「ドイツの不動産」、R.フォルハード、D.ウェーバー、W.ウージンガー編集、ドイツ.リアルエステイト.コンサルタントLtd訳、平野純子監訳を参照)

 確かに今は官の力が強すぎるし、戦後50年、永年の間に多くの湯垢がたまっている。そういう点に目を瞑っていくわけにはいかない。しかし、今なお立派に機能している官僚機構も多いのであり、素晴らしい官僚を私は数多く知っている。この点は軽視してはならない。

 その点を十分認めながら如何に行政改革を進めていくか。正にこれからの課題であるが、私は、やはり、「共生、コミュニケーション、連携をキーワード」に、・・・・「市場経済に委ねるべきは委ねる、地域に委ねるべきは委ねる」ということをやっていかないと本当の行政改革はできないと思っている。
 例えば、私は、この度の行政改革に当たっては、イギリスの「グランドワーク」のような組織を作るのでなければ本当の意味での地方分権はできないし、本当の意味での市場経済はできていかないと思っている。

 以上述べたように、「第三の自由・民主主義改革」の流れの中で形成されるこれからの「市場経済システム」は、・・・・「官からの脱却」が一つの大事な課題であるし、・・・・PFIについては、そのような課題を乗り越えながらその制度化と育成を図っていかなければならないのである。
 
 
 

3、市場経済の哲学
  ・・・市場経済におけるいま一つ大事な視点(生活者の視点)・・・
 

 「第三の現在、自由・民主主義改革」を進めていく上で今一番の問題は、国民の政治離れではないか。これを解消していくためにはコミュニケーションが必要である。さまざまなレベルでのコミュニケーションが必要だ。そして・・・国民に一番密着するところの経済については、特に幅広い議論の展開が必要だ。PFIについてはその必要性を痛感する。

 先の建設工業新聞で紹介されているように、PFI先進国であるイギリスでは、PFIを効率的かつ合理的に運用するため、「シティズン・チャーター(市民憲章)」をメージャー首相時代の1990年7月に制定している。シティズン・チャーターとは、「官から民へ」というPFIの理念を実現するために必要な基本的な考え方を示したもので、これにより行財政改革が徹底的に推進されたと言われている。
 公共サービスの受益・決定を国民の具体的な権利として認め、納税者にとってもっとも価値あるサービスを提供することが公共サービスであると考え、(バリュー・フォー・マネー=VFM)を鮮明にさせた。こうした基本理念に裏打ちされ、イギリスのPFIは成功したと言われている。

 アメリカで近年発達してきている「金銭化法」とかオランダで広く一般的に使われている分析法などを参考にして、我が国でも、公共サービスの対費用効果分析を一般化させる必要があるし、情報公開はもとよりインターネット時代におけるコミュニケーションシステム(私は、それをハイコミュニケーションシステムと称しており、川づくり例に具体的な提案をしている。是非、それを参照されたい。)を構築するなどして、生活者と政府及び企業とのコミュニケーションをもっと深めていくことが肝要だ。

 そういったことがPFIの大前提にあることを指摘しておきここではそれ以上深入りしないが、PFIの理念との関連で、これからの市場経済における大事な視点の一つに「生活者の視点」という問題があり、以下、その点について少し述べておきたい。

 先にも述べたが、自由競争市場が民間企業の活力を引き出し、一部の大企業の独走による非効率を抑えながら、限りある資源をもっとも効率的に利用していくためには、俗流の自由放任主義ではなく、本来のA.スミスやL.ワルラスなど主流の言う自由放任主義が、これからも主流である続けるだろう。

 しかし、「第三の自由・民主主義改革」の目指す自由競争市場というものは、それに留まらないで、もっと民主的なものでなければならない。コミュニケーションである。生活者と企業とのコミュニケーションである。われわれが目指す自由競争市場というものは、生活者と企業との「心の響き合い」と言うものがなければならない。
 現在は、生活者としての私たち納税者は、多くの人が税の使い道に疑問を持っている。行政不信ということもあるかもしれないが、もっと基本的に問題なのは、予算執行の部分が全くのブラックボックスになっているという点だ。予算がどのように決まりどのように使われているのか、その効用はどうか、生活者はほとんど知ることができないし、したがって・・・予算の使い方に自分の意志を反映するなどということは全く絶望的である。これでは、生活者が政治離れになっても不思議はない。
 ビッグバンの一貫としてSPC法とPFI法ができれば、生活者は個々の公共事業を選択し投資という形で参画できる。これも生活者と企業とのコミュニケーションであり、その意義は誠に大きいものがある。しかし、私が先ほど生活者と企業とのコミュニケーションと言った意味はもっと深い。

 さて、ここに、生活者とは、桂木隆夫の定義によれば(「市場経済の哲学」、桂木隆夫著、創文社現代自由学芸叢書)、一定の生活関係(家族、地域社会、政治的・経済的・宗教的・文化的共同体などの生活体)を自由の基盤として背負いながら、それぞれの自由を実現しようとして他の異質な生活者達と競い合っている人間を意味する。
 したがって、生活者の概念は、明確に市民の概念と区別されている。この点は重要である。勿論、市民の中にも生活者はいるが、企業者の中にも生活者はいるし、政治家の中にも生活者はいる。桂木隆夫によれば、生活者は、何か具体的な生活の場に足を置きながら自らの道徳的人格を形成しながら、かつ、他の異質な生活者との交流とある種の競い合いを通じて「寛容の精神」を身につけていく人たちのことであり、市場経済における「自由のルール化」の主役となる人たちのことである。ボランティア活動をやっている人たちは勿論立派な生活者であるが、生活者の範囲はそれに留まらない。

 桂木隆夫の著書「市場経済の哲学」では、市民の立場、企業者の立場、政治家の立場、それぞれの立場の違いというものが浮き彫りにされているが、これら立場の違う者ををつなぎ合わせ、市場経済をより高度に発展させるものが生活者である。これから、私たちが目指すべき市場経済において、生活者の視点というものは誠に重要である。

 ここでは、要点のみ述べ、詳しくは既存の文書をご覧いただきたいが、私の考えとしても、「第三の自由・民主主義改革」においては、この生活者としての視点というものが極めて重要で、「リージョナルコンプレックス」というものを提唱しているのはかかる哲学によるものである。
 「リージョナルコンプレックス」の形成や市場経済の高度化にあたっては、コミュニケーションの場(知のポトス)が何よりも必要である。イギリスの「グランドワーク」のような生活環境整備と取り組む組織がどうしても必要だが、私は、高度情報社会、インターネット社会、ウエブの世界における「プラットホーム」が何よりも急いで整備されないといけないと考えており、川づくりにおいて既に具体的な提案もした。さらに具体的には、全国的なネットワークとして・・・JUUU−NETというプラットホームづくりを進めている。

 しかし、それらは、言うなれば、贈与経済(奉仕経済)の世界というかNPOの世界だ。勿論、これからの市場経済の発展にそれらは欠かせないものであるが、・・・先にも述べたように、市場経済というものはそれらを包含しつつももっとダイナミックに発展していかなければならない。
 かかる観点・・・つまり、生活者としての立場ということになるが、そういう立場から、私は、PFIの持つ社会的な意義というものを重視しているのである。ただ単に、公共事業の計画的な推進、内需振興、緊急経済対策という・・・先に述べた3つの立場だけでPFIの問題と取り組んでいる訳ではない。
 
 

 以上述べてきたように、公共部門においても、民間主導型の部分を増やしていきながら、官僚主導から官民共働の形に持っていかなければならない。
 全国建設業協会は、PFIを言い換えてPPPと言っておられるが、まさしく官民の良好なパートナーシップを「第3の自由・民主主義改革」の一貫として作り上げていかなければならない。勿論、公共事業の最終責任は、国が負う。このことは言わずもがなのことであり、そのことを十分認識した上で、公共部門においても、PFIを通じて、民間の自主独立性というものを育てていかなければならないのである。

Iwai-Kuniomi