ディエゴスアレスの慰霊碑

 

 

 元駐マダガスカル大使の山口洋一の著書「マダガスカル・・・アフリカに一番近いアジアの国」(1991年、サイマル出版会)によれば、わが国の歴史の中にマダガスカルが登場するのは日露戦争の時と第二次世界大戦の時であり、日露戦争の話はすでにした。ここでは、第2時世界大戦の時の話をしたい。まずは、上記の著書からの引用をお許しいただきたい。

 

■ディエゴ・スアレスに散った特殊潜航艇

 『 やがて第二次世界大戦が勃発するや、マダガスカルの人の間では、日本帝国海軍がやってきて、自分たちを植民地支配から解放してくれるのではないかとの期待が持たれ、そのような噂がひそかに囁かれた。

 そして、実際に帝国海軍の特殊潜航艇二艇がディエゴ・スアレス湾に侵攻した。一九四二年五月三〇日のことであった。

 第二次世界大戦の勃発後、ナチス・ドイツの猛進撃の前にフランスは一九四一年ついに降伏し、親独派のヴィシー政府が誕生していた。他方、ドゴール将軍の自由フランスはロンドンに拠点を構えて、反攻の機をうかがっていた。フランス領であるマダガスカルの植民政府としては、ヴィシー政府につくのか、ドゴール将軍を支持する立場をとるのか旗幟鮮明にする選択を迫られたが、議論の末、結局ヴィシー政府の側に立つこととなった。そうなった最大の理由は、役人たちの給料がヴィシー政府から送られて来るという点にあったと言われている。

 マダガスカルの北端に位置するディエゴ・スアレスにはフランス海軍の軍港があり、アフリカ東岸からインド洋方面への睨(にら)みをきかせていた。マダガスカルがヴィシー政府の側に立つこととなったのにともない、この軍港も当然ドイツの支配を受けねばならなくなる。しかし、当時ドイツ海軍にはアフリカ東岸のインド洋にまで艦隊を派遣して、実効的支配を及ぼす余裕はとてもなかった。

 ただ、連合国側が危惧したのは、日本海軍が同盟国たるドイツの肩代わりをして、この軍港を抑えに乗り出して来ないかということであり、もしもそのようななりゆきになれば、事態は大変に厄介なことになる。そこで、イギリスのチャーチル首相は戦艦ラミリーズ以下の大艦隊を南アフリカのダーバンから発進させ、一九四二年五月五日、ディエゴ・スアレス軍港を制圧した。その際、奇襲を受けたフランス軍との間で交戦が行なわれたが、フランス側には親英ドゴール派の者も少なくなかったため、戦闘は英軍側の一方的勝利に終わった。

 他方、この頃日本海軍は、真珠湾で航空部隊の行動と連繋して行なった特殊潜航艇による第一次特別攻撃のあとを受けて、第二次特別攻撃計画をインド洋・アフリカ東岸海域とオーストラリア・ニュージーランド方面との二方面に対して進めていた。前者の襲撃計画は南アフリカのダーバン港のほか、北方のモンバサ港、ダルエスサラム港などについても検討されたが、結局、右に述べたような状況で、英国艦隊の制圧下にあったディエゴ・スアレスが襲撃目標に選ばれた(オーストラリア・ニュージーランド方面についてはシドニーが襲撃目標となった)。 』

 

■壮絶果敢

 『 この作戦にあてられた甲先遣支隊の第一潜水隊は、イ一六潜、イ一八潜、イ二〇潜の三艦より成っており、一九四二年四月一六日に広島湾柱島泊地で錨をあげ、一路作戦海域に向かうこととなった。しかし、インド洋の荒波との戦いに明け暮れする航海は難行苦行を極め、三艦とも種々の故障を蒙ったが、中でもイ一八潜の故障はひどく、せっかく敵地に乗り込みながら、不眠不休の修理作業にもかかわらず、復旧の見込みが立たず、結局、イ一六潜とイ二〇戦の二艦で攻撃を決行することになったのである。

 こうして、イ一六潜搭載の特殊潜航艇には岩瀬勝輔少尉と高田高三二曹の両名が、イ二〇潜搭載の特殊潜航艇には秋枝三郎大尉と竹本正巳一曹の両名が乗り込み、二艇は五月三〇日午後五時三〇分(現地時間)、ディエゴ・スアレス港口沖の母艦を静かに発進した。二艇は湾内に潜入して計四発の魚雷を放ち、戦艦ラミリーズを大破し、その近くにあったタンカー、ブリティッシュ・ロイヤルティー号を撃沈するという戦果を挙げた。

 この後の二艇の行動については、詳細な情報がほとんど伝えられておらず、戦後長い間不明となっていたが、その後現地での調査が行なわれ、大体の状況が判明してきた。私の在任中にディエゴ・スアレスに駐在していた前記の国際協力事業団・下條道夫専門家も現地の古老からの聞きこみなどによる調査を行ない、判明したところを私に話してくれた。こうして、私が二艇の行動につき、知り得た限りの全容をここで紹介しよう。

 二艇による奇襲攻撃が午後八時三五分頃行なわれるや、湾内は大混乱に陥り、翌日の昼頃までイギリス軍による盲滅法の爆雷攻撃が繰り返され、防潜網が展張された。しかし、二艇中の一艇はこれを潜り抜けて湾外に脱出し、進路を北にとって母艦との会合点に向かった。会合点はマダガスカル島北端のアンブル岬を回った西側、ディエゴ・スアレスとの関係では半島の反対側に当たる場所ときめられていた。

 しかし、湾口の外は名だたる荒海であり、点在する大小の島々の間には岩礁が無数に連なっている。しかも航続距離の限られた特殊潜航艇は、あまり沖合いの航路をとるわけにはいかない。こうして、湾外への脱出をようやく果たした一艇は、小さな艇体を波浪のもてあそぶにまかせつつ、難渋に満ちた航行を続けたが、ついに湾口外北方、陸岸から四キロほどのところにあるノシ・アレス島の岩礁に座礁してしまった。その残骸は現在でも残っていて、干潮時には見ることができる。下條専門家は潜水してこれを確認している。

 やむを得ず艇を捨てた二人の乗組員は、折よく付近に居合わせた猟師の舟に助けられて対岸に渡り、アンタラブイという村の近くに上陸した。ディエゴ・スアレスの北方はほとんど未開発の地域で道らしい道もなく、小集落がわずかに点在する程度である。

 二人は半島の反対側の海岸をめざして北西に向かって山路を辿ったが、道なきジャングルを横切っての行軍は難渋をきわめた。しかも、会合点における母艦の待機期限は刻々と迫ってくる。母艦は一定期日待機して潜航艇が戻らない場合には、潜航艇が撃沈されたものとみなして出発してしまう。こうした状況に置かれた二人は昼夜を分かたず、無我夢中の行進を続けた。こうして、およそ三昼夜余りの行進の末、二人はアンドラナボンドラニナという小集落に到着した。

 二人はここで村人から食糧を分けてもらい、腹ごしらえをする。ここまで来れば海はもう近い。うまくいけば、日が暮れてから沖合に浮上してくるはずになっている母潜水艦と会合できる。二人は集落を出て西海岸をめざし、やがてなだらかな起伏の続く丘の斜面に出た。火山岩系の大小の岩石がごろごろとした歩きにくい地形で、ところどころに名も知れぬ潅木が、まばらに生えているだけの裸に近い斜面であった。潮の濃い香りが鼻をつき、会合点の真青な海がついに二人の眼前に開けた。

 だが、それと同時に二人の目に映ったのは、銃口を擬してこちらに向かってくる英軍パトロール部隊の姿であった。二人が所持する武器はわずかに拳銃のみであり、十数名の英軍を相手にとても応戦できる状態ではない。しかし、もはや勝敗は論ずるところではない。

 英軍は大声で降伏を求めてきたが、二人はもとよりこれに応じず、艇長の号令とともに拳銃が火を噴き、戦闘が開始された。数名の英兵がのけぞって斃れたが、同時に英軍も一斉に射撃を始めた。隠れるもの一つない二人は全身に弾丸を浴び、ついにこの地で壮絶果敢な最期をとげたのであった。

 英軍はアンドラナボンドラニナの住民に命じて、丘の斜面に穴を掘らせ、二人を埋葬した。墓標などの目印もなく、埋葬箇所の判別は困難であったが、その後二人に食糧を分け与えたと自称する牧童が現われ、埋葬箇所は土が盛り上がっているので識別可能と述べているとの話も伝えられた。 』

 

■慰霊碑を建立

 『 一九七六年九月、在マダガスカル日本大使館の坂巻一等書記官は中村輝彦大使の命を受け、大使館の大型ジープに建碑資材を積んで、陸路アンタナナリヴからディエゴ・スアレスに向けて出発した。厚生省から外務省に対してなされた依頼にもとづき、遺骨の発掘と慰霊碑建立の任を帯びての出張であった。

 水と泥に侵された悪路と悪戦苦闘のドライブであり、往復二千六百キロに八日間を要した難行であった。前記の牧童の証言などをもとに行なった発掘作業では、結局、遺骨を得るにはいたらなかったが、慰霊碑は戦死地点と覚しきベエタエタという集落近くの放牧地帯の一隅に建てられた。

 この慰霊碑には、

   日本海軍特殊潜航艇二勇士

   一九四二年六月三日コノ地で戦死ス

   一九七六年一一月一一日

   日本国大使館建立

と、日仏両文で記されている。慰霊碑の建てられたこの場所は、今でも近づく道のない奥深い辺鄙な所であり、ここに散った二勇士の苦難のほどがしのばれ、その最期の無念はいかばかりであったかと想像される。

 ディエゴ・スアレス湾内に潜入した二艇のうち一艇の動静は、以上の通りほぼ明らかとなっているが、他の一艇の方の命運は残念ながらほとんど知るすべがない。

 特殊潜航艇二艇による攻撃を受けた後、英軍側は二隻のコルベット(開戦後急造された駆潜艇)を動員して、夜を徹して港中を捜索し、疑わしい触接に対し爆雷の雨を降らせた。他の一艇はこの爆雷を受けて、撃沈させられたのではないかとの憶測もなしうるが、ここで注目すべきニュースが伝えられているのである。

 一九四二年六月六日のロンドンBBC放送は、次のようなおどろくべき放送を行なった。

「六月一日午前、ディエゴ・スアレスのわが基地に、突如日本軍が攻撃をしかけてきた。一瞬、敵の上陸かとあやまり、混乱に陥ったが、日本軍は二名の海軍士官であった。我が軍はこれを包囲し、『武器を捨てよ』と呼びかけて、抵抗の空しいことを示したが、日本の海軍軍人はこれを肯んじなかった。彼らは怒り狂ったように抜刀して斬り込んできたので、やむなく二人を射殺したが、この間わが軍の死傷は六名であった」

 時間といい、場所といい、行動の様子といい、この報道は座礁した艇を捨てて、北西に向かって山路を辿った前記の二人とは明らかに別の事実を述べており、これこそ他の一艇の乗員二名の最期を伝えるニュースであったものと思われる。この二名は魚雷攻撃を終えた後、艇を捨てて上陸し、敵陣地に斬りこみをかけ、日本軍人の意気を示して、見事な最期をとげたのであろう。

 

 ここで残る問題は、以上のような命運をたどった二艇の乗員各二名のいずれが岩瀬・高田組で、いずれが秋枝・竹本組であったのかという点であるが、これについても確証は残っていない。しかし、北西方面への山路を辿った末に英軍パトロール部隊と交戦した二名の最後の場面に居合わせた現地住民が「二人の日本兵のうち、上官とみられる士官は小柄であり、もう一人の下士官の方は大きくて、がっしりした体格だった」と証言している点からすると、こちらが岩瀬少尉と高田兵曹のペアーだったのではないかとの憶測が成り立つ。しかし、今となってはこれを確かめる手だてはない。 』

 

 

 元駐マダガスカル大使の山口洋一の著書「マダガスカル・・・アフリカに一番近いアジアの国」(1991年、サイマル出版会)に紹介されている「日本海軍特殊潜航艇二勇士」の慰霊碑の話は以上である。しかし、これには後日談がある。山口洋一も書いているように、ディエゴスアレス湾内に潜入して、計四発の魚雷を放ち、戦艦ラミリーズを大破し、その近くにあったタンカー、ブリティッシュ・ロイヤルティー号を撃沈するという戦果を挙げたのは、二艇の特殊潜航艇であり、乗り組み員は全員で4名である。上記に記載のベタヘタの慰霊碑は2勇士に対するものである。また、ベタヘタは交通事情が極端に悪くそう簡単には行けない。ディエゴスアレス湾に面したどこかいいところに4勇士の慰霊碑が欲しい。吹田先生、田名部先生、近藤先生、この3名の衆議院議員が平成2年9月にマダガスカルを訪問、慰霊碑を建立する運動が起こった。吹田先生を中心としたその熱心な運動と地元の並々ならぬ協力のお陰で、4勇士の慰霊碑が・・・・ディエゴスアレス湾を見はらせるこの地に・・・建立され、平成9年5月、多くの参列者のもと、除幕式がりっぱに執り行われた。関係者の御努力に今さらながら頭の下がる思いがする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心より御冥福を祈り、慎んで、4勇士のお名前を掲げさしていただく。

 

 秋枝三郎(25歳)  海軍中佐   山口県豊北町出身

 岩瀬勝輔(21歳)  海軍大尉   香川県山田村出身

 竹本正己(29歳) 海軍特務少尉  広島県竹原町出身

  高田高三(25歳)  海軍兵曹長  福井県坪江村出身 

 

 

さて、ディエゴスアレスという街はそういう街です。

わが国にとって忘れえぬ街・・・。

 

今回のマダガスカル友好親善訪問の第7日目の夕刻、

やっとそのディエゴスアレスという街にやってきました!

さすがに港町です。裕福そう。

マダガスカルはわが国と同じように島国です。

やはり舟運を中心に国の発展を考えるべきかも知れませんね。

空港からホテルまでの景色です。

 

 

夜は慣例にしたがい晩餐会がありました。

 

 

私の挨拶と・・・吉原大使の挨拶・・・。

 

そして、そのあとの団欒は、

やはり言葉の問題から・・・ちょっと・・ね。

今度行ったときは少し言葉を覚えて何とかうまくやりたいと思います。

 

でも、その際、上院議員と親しく話ができ、

彼から、

ディエゴスアレスとどこか日本の都市と姉妹都市関係が結べないか

という要請があったことは有意義であったと思います。

吉原大使も

それが実現すればたいへん意義深いことである

とおっしゃっておりました。

私としては、

ディエゴスアレスと呉市と・・・

何とか姉妹都市関係が結べないか骨を折る積もりです。

 

何んとか無事夕食会を終えることができました。

吉原大使はじめ関係の皆さんに心からお礼を申し上げます。

 

 

 

 

明日はいよいよ慰霊碑への参拝です。

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Iwai-Kuniomi