六道の辻あたり

 

<論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>とは、私のいうところの「知のトポス」である。もっとも典型的な「知のトポス」は、 歴史的、文化的な場所であろうが、「知のトポス」としての歴史的、文化的な場所は、先にテーマがあって・・・・、そのテーマを論ずるなかでその場所のもつ 意味が定まってくるのであろうから、人それぞれが自分の「知のトポス」を作ることになる。私は、平和を論ずるために平和を考える旅をし、武家社会の源流を 論ずるために武家社会の源流を訪ねる旅をしてきた。私の皆さん方に問いかける「知のトポス」が多数ある。六道の辻あたりは私にとって欠かすことのできない 「知のトポス」だ。

私は、「劇場国家にっぽん」の旅で、当面、文化の二義性を論ずるために「源氏物語」をとりあげ、地獄の旅をしている。地獄の旅としては、紫式部と並 んで小野篁が欠かせない。小野篁といえば珍皇寺であり、珍皇寺といえば六道の辻である。六道の辻には、空也上人ゆかりの六波羅密寺があるし、湯かけ神事で 有名な恵比須神社も近くにある。六道の辻あたりはまさに典型的な「知のトポス」である。六道の辻には是非是非一度は出掛けてもらいたい。

六道の辻は、加茂川の東にある。松原通りは東山通りを西に下りてきたところにある。河原町通りから歩いても10分ぐらいか。轆轤(ろくろ)町とい う。昔は髑髏(どくろ)町といっていたらしい。この地は、ずっと南にかけて鳥辺野(とりべの)といって、化野(あだしの)、蓮台野(れんだいの)と並ぶ葬 送の地であったから、風葬の習慣がなくなってからも髑髏(どくろ)があちこちに散在していたらしい。加茂川から東はそういう髑髏(どくろ)の地で、六道の 辻はいうなれば冥界への入り口であったのだ。華やかな都の異境の地である。まずこのことをしっかり念頭においてもらいたい。

 

六道の辻はすでにいろんなホームページがある。まずはそれを紹介しておきたい。

「六道の辻(概要)」 [六道の辻 (詳細)]

 [珍皇寺] 

[六 波羅密寺1] [六波羅密寺2] 

 

 

さて、劇場というのは、そこで劇が演じられているから劇場であり、何も演じられていないときに劇場に行っても意味がない。それと同じよう六道の辻も 御盆のときでないと何の変哲もない場所である。ところが、御盆には俄然様子が変わって刺激的な場所と なる。多少なりとも髑髏(どくろ)の地、冥界への入り口らしい雰囲気が醸し出されているかも知れない。

昔撮った写真でありあまりよくないが、御盆の雰囲気を味わっていただくために、いくつかの写真を紹介しておきたい。上のホームページを多少なりとも 補完して御盆の雰囲気が味わえればありがたい。

御盆には、地元では「六道はん」といっているが、六道詣りという精霊迎えの行事が行なわれる。六道 はんとは珍皇寺のことをいうのだが、六波羅密寺でも特別回向が行なわれている。もちろん主役は珍皇寺である。珍皇寺の境内だけでなく松原通りにも若 干の店が出る。 「幽霊飴め」の店があったりして昔の雰囲気がない訳ではないが、地元の商店は「知のトポス」らしくもう少し演出をした方が良い。

門前の花屋で高野槙を買い求めて帰るのが習わしであるが、最近では家に持ち帰らないで観光客など寺に納める 人も少なくないようだ。 まあよかろう。精霊は、その槙の葉に集まって家に帰るとされているので、本来は、御盆のあいだは・・・・家で祖先の精霊とともに過ごすものだろう。 最近は地獄の思想が疎かになっているので、家で御盆の行事をする 家も少なくなった。このことがいままさに問題なのであって、家とはないか、地域とは何か、「場所」とは何か、「場所の論理」とは何か・・・、よくよく考え ねばならないのではなかろうか。六道詣りの活性化を図るべきだと私は思う。

 

 

 

 六道の辻は、角に西福寺がある。

 

壇林皇后ゆかりの 古寺である。

嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)、

俗に壇林皇后はこの西福寺にたびたびお詣りになったようである。

篤く帰依しておられたようだ。

 

皇太子が患われたときも西福寺の地蔵尊に病気平癒を祈願し、

無事皇太子は天皇に即位できた。

仁明(にんみょう)天皇である。

 

壇林皇后がこういう髑髏(どくろ)の地にお越しになるということはよほどのことであるが、よほどの思いがお有りになったのだろう。それにしても皇后 がこういう異境の地にたびたび来られたということは、天皇制の両義性を考える上で大変重大な意味を持っている。ところで、仁明(にんみょう)天皇の子が空 也上人だという説もあり、そうだとすれば、この地に六波羅密寺があるのもうなずける。

そのことは別として、空也上人という存在も天皇制の両義性を考える上で大変重大な意味を持っている。空也上人が仁明天皇の子供であったかどうかは別 として、空也上人が 貴種(天皇家の人間)であることは間違いないとされているからだ。

天暦五年(951)、都は悪疫が流行って人々はばたばたと死んでいった。多くの遺骸が埋葬もされず路傍に放置されている京の町中を、空也上人は自ら が刻んだ金色の十一面観音を車に載せて念仏を唱えながら歩き回り、生者にはひとりひとり仏前に供えた茶をふるまった。するとたちまち疫病は鎮まった。空也 上人はおびただしい死者の供養のために西光寺を建て、悪疫をもたらす死霊の祟りを鎮めるために、十一面観音を本尊とし、梵天・帝釈天を納めた。空也上人没 後五年、西光寺は六波羅密寺と名を改めた。

 

さて、仁明(にんみょう)天皇ゆかりの西福寺の地蔵尊はまことに霊験あらたか で、

みやこ人は「子育て地蔵尊」として篤く信仰したといわれている。

  

 なお、西福寺では、

 

毎年御盆には、

絵解きが 行なわれている。

 

 

 

珍皇寺では、御盆に地獄絵が掲げられる。こういうのも全国でも珍しいのではなかろうか。あまり良い絵とは言えないが、行事としては大変面白いもので あるので紹介しておきたい。「地獄の旅」のひとつとして雰囲気を是非味わって欲しい。

 

 

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 西田哲学の真髄は、先に述べたように、「述語的論理」、言い換えれば「場所の論理」ということだが、主語は述語においてあるということだ。述語が <意識の野>に映し出されて自覚というものが生じ、述語が主語を包摂して判断というものが生じるのであるから、述語というものが基本的に大事 であるということだ。主語(主体)より述語(客体)を重視すべきである。中村雄二郎が言うように、「われ思う、故にわれあり」ではなくて、「われ語る、故 にわれあり」である。すべて何ものかとの「響き合い」である。「場所」である。

 「場所の論理」というときの「場所」は、哲学的な意味での「場所」であり、必ずしも空間的な場所を意味していないが、主体より客体を重視すべきだ という西田哲学は、空間的な場所の重要性を考える哲学的根拠を与えていると言って良い。その点で言えば、ホワイトヘッドの「象徴の哲学」もまあ同じような ことかも知れない。

 

 「場所」の哲学的な意味がなんとなく判りかけてきた。「場所の論理」がなんとなく判りかけてきた。いましばらく「劇場国家にっぽん」の旅をつづけ ながら、「場所」について考えていきたい。「場所」をとおして「わが国のあり方」をいろいろと考えていきたい。けだし、六道の辻は誠に重要な「場所」であ る。

 

 すべては因果応報、悪いことをしては地獄に落ちる。この地獄の思想は、古代仏教でいうところの「縁起説」・・・・。すべては因果関係の上で生ずる 故、すべては独自に自足的に存在するのではなく、それをあらしめている原因に依存して無常である。因果応報・・・南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。これ はまさしくホワイトヘッドの世界でもある。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。