贈与経済
私は先に、次のように述べた。
この中沢新一の「光と陰の哲学」によってつくり出さなければならない経済システムは、贈与経済である。そして、この中沢新一の「光と陰の哲学」によってつくり出さなければならない政党は、「光と陰の党」であり、伝統の力を重んじかつグローバルな力とも共存を図っていこうとする、矛盾に満ちながらも共生にまい進する政党、ハイブリッド思想を身上とする政党である。自由民主党がそういう政党に変身できるかどうかはまだわからない。わからないが私の直感としては伝統を重んじる保守本流であるが故に十分それが可能でないかと思う。私は、とりあえずそういう新しい哲学を持った「光と陰の党」とでもいうべき新自民党への変革を目指して「劇場国家にっぽん」の構想をまとめていきたいと思う。
皆さん驚いてはいけない。なんと私の目指す「光と陰の党」とでもいうべき新自民党は、いっけん合理的というより不合理な面が多いし、まあいうなれば矛盾だらけの党である。「ヒューマニズムなんてクソ食らえ!」なんていうとちょっと言い過ぎかもしれないけれどまあそうである。「真理の追究なんでばかばかしい!」というとちょっと言い過ぎかもしれないがまあそうである。「自由競争なんてクソ食らえ!」なんていうとちょっと言い過ぎかもしれないがまあそうである。合理性とか真理とかヒューマニズムとか自由競争とかについては、それとの共生を図り、あえて反対との闘争はしないがもっともっと大事なものを追及していく覚悟である。私の目指すもの・・・・、それは「信」ということかもしれないが、「信」といえば「信」、そうでないといえばそうでないのである。私の目指すもの・・・・、それは「贈与経済」ということかもしれないが、「贈与経済」といえば「贈与経済」、そうでなといえばそうでない。しかし、少なくとも当面は、わが国の経済システムとして、グローバルな市場経済のなかに、「贈与経済」をつくり出していかなければならないのである。
モノ的技術はけっして市場経済いってんばりでは発達しない。「信」を前提に成り立つ贈与経済によって発展する。マオリ族の「ハウ」ト「マウリ」はわが国のタマとモノによく似ている。やはりここでもまずは中沢新一の説明を聞こう。
ハウは内包空間から物質的な実体性をもった世界にまでまたがるきわめて複雑で混成系的な概念で、「霊的なもの」と「物質的なもの」とを包摂した、豊かさと幸福にかかわることばなのである。
まさしくマオリの人びとにとって「恩寵の力」こそ、ハウにほかならない。人々はハウによって生き、ハウによって豊かであり、ハウによって幸福なのだ。そして、そのようにして「ある」がままのこの世界に恩寵の力の働きを感じ、それに報恩の気持ちをいだくことができる人々によって、マオリの「宗教的」な世界はできあがっている。そこでは「霊的なもの」と「物質的なもの」は区別されていない。霊と経済とはそこでは一体であり、存在論と幸福論も、そこでは一体をなしている。
タマとモノの場合にもハウとマウリの場合にも、大いなる同一性の内部から増殖ということがおこっている。狩猟社会における「はじまり」の思想家たちは、この同一性をひとつの概念のうちに固定しようとはしなかった。成長や変態や質変化などすべての過程を含みこんだ全体としての、タマでありハウであったのだが、その内部には「変化しないもの」「いつまでも同一性を保っているもの」についての、ゆるやかな観念があり、それはきわめて曖昧なかたちで「すべての土台にあるもの」とか「全体を包み込んでいるもの」などのように、表現されていた。それでも、そういう揺るがない、変化しない土台から、増殖という現実がおこっていることは、たしかなのである。だから、この社会の人々は、同一性の土台を破っておこなわれる増殖の事実を、「賜物」とも「贈与」とも表現して、等価的な交換とははっきり区別してたのである。
不変の同一性という神の概念は、人と人、共同体と共同体との間に成立する「交換」の諸形態や、ものごとの意味を明確にする法による「正義」やさまざまな「ことわり」を、ささえる能力をもっている。しかし、この神の概念それだけからでは、幸福と豊かさの源である増殖という現実は、つくりだすことができない。資本の神、贈与の神が、同一性をささえる神と同時に、人間には必要なのである。タマやハウのようなゆるやかな「“ある”の哲学」では、ごく自然にそのことが実現されていた。
中沢新一は、タマとモノとは、分離されないままひとつの価値として認識されていたその価値あるものを「大いなる同一性」と呼んでいる。このタマがのちに「神」と呼ばれるようになったときに、そういう概念化がおこった。概念化とは概念の固定である。概念の明確化である。つまり、神という概念は、タマとモノとのはっきりした分離のない「大いなる同一性」というものではなく、タマとモノが分離され、タマの概念をはっきりさせ固定化させたものである。もう概念としてははっきりしており固定化しているが故に、中沢新一は「不変の同一性」と呼んで、「大いなる同一性」とは区別している。
ユダヤ教やキリスト教のように「不変の同一性」という神、ただひとつの神が大きくクローズアップされてくる宗教では、現実の生活の中でしめされている恩寵や贈与や増殖の問題を、その神の概念のうちに包摂していくことが、思想家たちに大きな課題を突きつけていると中沢新一は言う。
今ここでこの問題に立ち入ることはあえてしない。今わが国は資本主義の真っ只中にある。キリスト教という「不変の同一性」という神のもとで発達した資本主義の真っ只中にあり、贈与の空間が消滅しつつある。真の豊かさと真の幸福が消滅しつつある。中沢新一が言うように、今大事なことは、モノとの同盟である。わが国だけの問題ではない。資本主義が猛威を振るうところでは、モノとの同盟が必要である。モノとの新しい同盟関係の創造が、今こそ求められているのである。贈与空間の復活である。