モノ的技術の復権

 

 

 私は先に、次のように述べた。

 

 今わが国は資本主義の真っ只中にある。キリスト教という「不変の同一性」という神のもとで発達した資本主義の真っ只中にあり、贈与の空間が消滅しつつある。真の豊かさと真の幸福が消滅しつつある。中沢新一が言うように、今大事なことは、モノとの同盟である。わが国だけの問題ではない。資本主義が猛威を振るうところでは、モノとの同盟が必要である。モノとの新しい同盟関係の創造が、今こそ求められているのである。贈与空間の復活である。

 

 新しい同盟は、モノとの間に結ばれなければならない。中沢新一が言うように、「非人格的な力能であり、結氷寸前の海水のように、物体性のモノや昔の人たちが霊力とも聖霊とも呼んだ非感覚的な内包力などが、混成系をなしながら、複雑な全体運動をおこなっている、そういうモノとの間に、人間は真実の同盟関係をつくりあげることが必要なのである。」

 まあ、同盟関係とはうまくいったものだ。そうなのだ。モノは、理性とか合理性とか近代性の敵ではない。かといって、理性や合理性や近代性にへりくだるものでもない。あくまでも同盟なのである。そして、その同盟関係の創造において、「技術」の果たす役割が極めて大きいと中沢新一は言う。ここが一番大事なところであるので、彼の言うところをじっくり咀嚼して欲しい。

 

  中沢新一いわく。

 

 この同盟関係の樹立にさいしては、「技術」というものが大きな意味を持つであろう。私たちがここで見てきたように、タマとモノとの間に存在する微妙な差異には、内包空間の強度とそれに働く技術との繊細な関係が反映されている。モノはそれ自体が、すでにして道具であり、技術なのであり、そのモノを上手に利用して、人間は長いこと、瞑い光の充てる内在性の空間の冒険をおこない、伝統をつうじて、個人の内的体験を大きな公共的知識の集大成へと成長させてきたのである。

 

 いやあ、すごい!・・・・続けよう。

 

 たとえば数万年におよぶシャーマニズムの探求は、より高度に洗練された瞑想の体系へと受けつがれて、今日におよんでいる。それは大脳と神経組織の内部でおこる量子論的な過程に踏み込んでいけるような、いくつもの特別な技術を開発してきたが、そのおかげで、人間は瞑い光というものがどのような力能を持ち、内在空間でどのような運動をくりひろげているのかを、つぶさに観察することができるようになった。その探求の結果は、意外なことに、ニーチェの結論と同じものだった。神は存在しない(エックハルトはこの体験から「無の神」という表現を得ている)、超越としての神は存在せず、ただ永遠回帰するモノだけがある。

 

 すごい!すごいの一語に尽きる。中沢新一は神は存在せずと言い切った。ただモノだけがあるのだと・・・・。彼が新しい唯物論と呼ぶ所以である。すごい!すごいのだが・・・・、では、宗教はどうなるのか?ここが一番大事なところである。

 

 中沢新一いわく。

 

 宗教は、モノとの新しい同盟をつくりあげるさまざまな実践へと、解体吸収されていくのである。さまざまな実践、それは個人の探求であったり、協同の実践であったり、伝承文化運動の形をとったり、市民運動と呼ばれることもある。あらわれる形はさまざまだ。しかし、それらすべてがひとつの共通点を持つことになるだろう。それは非人間的なモノへの愛である。人間主義 (ヒューマニズム)の狭量さを超えて、資本のメカニズムをも凌駕して、広々としたモノへの領域へとふみこんでいくのである。そのとき、宗教は死んでよみがえるだろう。宗教がみずからの死復活をおそれてはいけない。だいいち、そのことを説いてきたのは、宗教自身だったのだから。

 

 いやあ、すごい!すごい・・・です。さあ、これでやっと「劇場国家にっぽん」の骨組みができそうだ。うれしい。

 

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Iwai-Kuniomi