八幡大菩薩の誕生

 

 先に述べたように、私は、今まで、いろいろな場面で神仏習合について語ってきた。今、それを振り返りながら、まだ語っていないものがあるかどうかを吟味してみたい。そして、まだ語っていないものがるのならそれを語ることとしたいのである。今までいろんなところで言ってきているように、私は、神仏習合という信仰形態に光り当てたい。まだ、語っていない重要な問題に、八幡大菩薩がどういう事情で誕生したか、という問題がある。神仏習合が行なわれるようになった理由を、私は、すでに「大山と徳一」というページで、「トライアッドの原理」ではないかと思い、そういう指摘をさせてもらった。こうである。

 『 しかし、年貢の徴集というものは、貴族と豪族と神社と仏閣、この4つの組織が機能的にバランスする必要がある。4つの組織機能ではもともとバランスがとれない。やはり、バランスがとれる組織形態とは、トライアッドである。グウ・チョキ・パーの組織形態がいちばんいい。すなわち、年貢の徴集制度は、宗教組織をかますのなら、それは神仏習合でないとうまくいかない筈である。日本の場合は・・・・・である。このようなことで、私は、神仏習合というものが徐々に形成されていったのではないかと考えている。 』・・・・と。

 

 ところで、三つ一組のものを英語でtriad(トライアッド)というが、私はすでに、「トライアッド」というページで、そのことに関する河合隼雄の考えを紹介した。河合隼雄は次のように言っている。すなわち、

 『 一、二、三、という数について考えてみるとき、一はまさにはじまりであり、唯一である。それが二となると、分離、対立、協調、均衡などの様相が生じてくる。事実、「二人の創造者」というのも、神話によく生じるテーマである。それが、三になると、二の様相に相当なダイナミズムが加わってくる。「三頭政治」は世界の歴史のなかで、ときに出現している。人間は二項対立的にものごとを考え、処していくのを好むがそこに第三の要素を入れ込むことによって、二項対立的な構造にダイナミズムを与えるのである。そのような意味のみならず、二つの対立的分類より三つの分類のほうが、全体をより立体的に構成できるという考え方もある。二次元より三次元的に考えるほうが、より豊かなイメージをもつことができる、というわけである。』・・・・と。

 そして、そのトライアッドは、河合隼雄のいう「中空均衡構造」であるが、これからのわが国における・・・国家の統治構造を考える際の基本的な原理になるべきである・・・・という私の考えを示した。

 

 国家の統治原理とでもいうべき「トライアッドの原理」、そしてその具体的な表象が八幡大菩薩であるのだが、問題は、その八幡大菩薩がどういう風に誕生したのか、という問題である。このことについて、私は、まだ何も語っていない。

 さて、神道であるが、ひとくちに神道といっても、日本古来の神道と物部氏神道、それに中臣神道などいろいろだし、ひとくちに神社といってもいろいろだ。天皇家と直接結びついた神社はいうまでもなく、伊勢神宮だが、他の・・・・・宇佐神宮だとか鹿島神宮だとか古くて格調の高い神社は、天皇家とももちろん無関係がないではないが、どちらかのいうと中央貴族や地方豪族との関係が深い。まあ、俗っぽい言い方でいえば、そういう神社の運営管理費を誰が出すのか・・・ということである。その辺は複雑で一概に言えないが、大別すれば、天皇家の関係も含んだかたちの貴族と、中央貴族の関係を含んだ豪族に分けることができるように思う。そういう貴族と豪族と神社と寺院とがからみ合って、年貢の取り立てや神社仏閣の維持管理が行なわれていたのである。その複雑な権力関係の中でトライアッドの原理が働いて神仏習合という信仰形態が生まれてきたのではないかというのが、すでに「大山と徳一」というページで述べたことである。では、宇佐神宮の場合はどうであったのか。実は、これが誠にややこしいのである。

 義江彰夫はその著「神仏習合」(1996年、岩波書店)の中では、こう言っている。

 すなわち、『 藤原氏の伝記「家伝」下によれば、古く715年に、国家鎮護神のひとつ越前国気比(けひ)神宮の神がみずからの願いによって神宮寺を建立させているし、746年までに、九州宇佐の地に武力で国家鎮護する宇佐八幡宮が同時に八幡大菩薩と呼ばれるようになっており、云々・・・』・・・と述べている。このとおりであるが、これでは八幡大菩薩が誕生した状況が語られていない。

 このような格式の高い、天皇家とも密接な関係にある神宮と言えども、やはりいろいろと悩みはあったわけで、特に、国分寺など仏教寺院の興隆とともに、経済的な運営管理が大変になっていたのではなかろうか。つまり、国分寺などの仏教寺院の勢力拡大にともなって豪族と神宮ないし神社との結びつきは希薄になっていったのではないか。これは大変だ。何とか仏教寺院側と話をつけないと神宮ないし神社はやっていけなくなる。そういう危機感が満ちてきた。そこで考えられたのが、神宮ないし神社の境内に寺をつくることであった。つまり、神宮寺ないし神社内仏教寺院の誕生である。

 さて、鹿島神宮に神宮寺ができるのが760年ごろである。宇佐神宮より10数年遅いが、徳一が筑波で活躍する頃にはすでに各地の大神社には神宮寺を建立する動きがでていた。そういう地方豪族レベルの神宮寺建立の動きについては、勝道上人の活躍の負うところが大である。このことについては何度も述べた。義江彰夫によれば、中央の貴族レベルでは奈良時代のはじめから、地方豪族レベルでは奈良時代の後期から、そういう神宮寺の建立の動きが出てきて、そういう神宮寺というものの基盤が確立するのは九世紀の半ば頃であるというのだが、実は、この説明は必ずしも正確ではない。地方豪族レベルの神宮寺建立の動きについてはその通りであるが、奈良時代はじめの中央貴族レベルでの動きは神宮寺建立の動きというのでは正確でない。ということで、九州は宇佐の地に八幡大菩薩が誕生した、そのいきさつについて、ごく簡単に説明しておきたい。

 道昭(どうしょう)という人がいる。道昭は、唐に留学し玄奘から唯識を学び、帰国後、わが国に法相宗を興した。法相宗の始祖である。法相宗は、行基や徳一などの優秀な僧侶を数多く輩出したが、その中に法蓮(ほうれん)という人がいる。徳一の先輩にあたる。

 ところで、日本書紀ができるのが720年であるが、まあいうなればそのころ、藤原不比等(ふひと)が律令国家を支える基盤として中臣(なかとみ)神道を完成していく。これに危機感を持ったのが秦(はた)氏ではなかったか。秦(はた)氏は、もともと蘇我氏と同じように仏教派である。京都は太秦(うずまさ)にある弥勒菩薩で有名な・・・・かの広隆寺は秦(はた)氏の創建になる。広隆寺は、聖徳太子創建の四天王寺と並ぶ・・・・わが国ではもっとも早い時期に創建された歴史的寺院である。御承知のように、秦河勝(はたのかわかつ)は聖徳太子の右腕であり、根っからの仏教信奉者である。秦(はた)氏がおそらく法蓮(ほうれん)に働きかけたのであろう。法蓮(ほうれん)は、すでに九州は英彦山で山岳仏教を修得すべく修行中であったようだが、おそらく秦(はた)氏の意向にしたがって、宇佐の地で弥勒寺を創建、のちにその弥勒寺を宇佐八幡宮の境内に移す。

 宇佐の八幡宮というのは、もともと秦(はた)氏の氏神さまである。八は多くを意味する語。幡(はた)は秦(はた)である。もともとは遠賀川の中流にある香春岳(かわらだけ)にあった秦(はた)氏の氏神さまである。遠賀川のその辺(あたり)から宇佐付近までは秦(はた)氏の勢力範囲であって、多くの旗をなびかせながら氏神の領地内巡行が行なわれていたようで、その秦(はた)氏の氏神を「八幡(はちまん)神」と呼んでいたようである。

 中央集権的な律令国家が進みそうだ。もちろん、秦(はた)氏にも八幡(やはた)という氏神がある。それが律令国家と中臣(なかとみ)神道という・・・新しい国家システムに飲み込まれてしまいそうだ。宇佐の神も応神天皇と神皇皇后という母子神に摺り替えられてしまった。藤原不比等(ふひと)の進める中臣(なかとみ)神道に飲み込まれるのではないか。そういう危機感から、弥勒寺の八幡宮への移設が実行されたのである。

 かくして、八幡大菩薩が九州は宇佐の地に誕生するのだが、そののち、八幡大菩薩は和気清麻呂らの力によって山城の国は男山の石清水(いわしみず)寺のあとに勧請される。その前に東大寺の境内に手向山八幡宮が建立されるが、男山すなわち石清水(いわしみず)への勧請はいうなれば八幡大菩薩の本格的な中央進出である。そのあと誉田(こんだ)八幡(現大阪府羽曳野市)などもできる。そして、次第次第に・・・関東武士団の心を掴んでいくのだが、そこがいちばん肝心のところで、徳一が行なった神仏習合の社会的背景である。徳一は、そういう精神的な社会的背景と神宮寺建立という経済的政治的な流れの中で、神宮寺という形態にはとらわれないで、古代信仰をも視野に入れたもっと本質的な神仏習合の信仰形態を模索した。神宮に神宮寺を建立するというのではなくて、仏教の教義の中に日本の神を取り込んでしまおうというのである。実に・・・「壮大な考え」・・である。そういう「壮大な考え」に気がついた徳一は、山のお陰であり、「東北」のお陰であるが、実に偉大である。その「壮大な考え」が空海に引き継がれ、本格的な神仏習合が完成していくのである。もし徳一が存在しなかったとしたら、私たちが知っているあの偉大な巨人・空海は存在しなかったであろう。幸い、徳一がいた。徳一の神仏習合は、古代信仰と唯識との合体である。徳一と空海の思考、それは現実肯定の・・・いうなれば「野生の思考」の復活である。大事なことは、その「野生の思考」が復活する土壌があるということだ。そういう風土が東北にはあるということだ。そういう状況の中、やがて八幡大菩薩は、宇佐神宮や石清水(いわしみず)八幡宮から離れて、次第次第に一人歩きするようになる。そして、関東武士団の心をとらまえて彼等の精神的支柱となっていく。鎌倉の八幡宮ができるずっと前のことである。

 「男山考古録」によると・・・・「日本書紀通証」は、貞観一二年宗像大神告文に神功皇后新羅出兵の折、相ともに力を加えてわが朝を救ったとあるのを引いて「宇佐  男山等の宮三女神合祭神功・応神、乃称弓箭神者」と記し、つとに弓矢の神・戦勝の神として知られるところであった。このため武家の崇敬するところとなり、とくに源頼信が永承元年誉田(こんだ)八幡(現大阪府羽曳野市)に祭文を棒げて家門の繁栄を祈って以来、八幡神は武神にして源氏の氏神でもあると考えられるようにもなった。その子頼義と孫義家の信仰も強く、前九年の役(永承六−康平五年)では戦勝を八幡宮に起請し、戦後報謝して康平六年(1063)石清水八幡を勧請して相模国由比郷に一社を創建したという(「吾妻鏡」治承四年一○月一二日条)。なお、義家の生家は鎌倉だが、実は、その生家のあとに・・・・義家をお祭りした甘縄神社がある。是非、お立ち寄り下さい!現在の鶴岡八幡宮は・・・もっと海に近い相模国由比郷にあったその旧八幡宮を頼朝が今の位置に移したものである。東北遠征の戦勝記念である。

 

 それでは、関東武士団の八幡信仰の例を、「将門記」に見ることにしよう。

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