感動のシステム

 

 

 私は先に、新しい唯物論についての中沢新一の結語を紹介し、「いやあ、すごい!すごい・・・です。さあ、これでやっと<劇場国家にっぽん>の骨組みができそうだ。うれしい。」・・・・と述べた。

 

 中沢新一いわく。すなわち、「宗教は、モノとの新しい同盟をつくりあげるさまざまな実践へと、解体吸収されていくのである。さまざまな実践、それは個人の探求であったり、協同の実践であったり、伝承文化運動の形をとったり、市民運動と呼ばれることもある。あらわれる形はさまざまだ。しかし、それらすべてがひとつの共通点を持つことになるだろう。それは非人間的なモノへの愛である。人間主義(ヒューマニズム)の狭量さを超えて、資本のメカニズムをも凌駕して、広々としたモノへの領域へとふみこんでいくのである。そのとき、宗教は死んでよみがえるだろう。宗教がみずからの死復活をおそれてはいけない。だいいち、そのことを説いてきたのは、宗教自身だったのだから。」・・・・と。

 

 まちがいはない。たしかに中沢新一の新しい唯物論はすごい。これでやっと「劇場国家にっぽん」の骨組みができると私の身体ごとよろこんでいるのも事実である。しかし、残念ながら中沢新一も・・・、最後のちょっとした油断によって・・・・画龍点晴を欠いてはいないか。私は、中沢新一のタマとモノに関する哲学はまったく正しいと思う。「光と陰の哲学」はまったく正しいと思うのであるが、私の考えでは、宗教は死なないと思う。

 

 中沢新一は・・・、「大脳と神経組織の内部でおこる量子論的な過程に踏み込んでいけるような、いくつもの特別な技術を開発してきたが、そのおかげで、人間は瞑い光というものがどのような力能を持ち、内在空間でどのような運動をくりひろげているのかを、つぶさに観察することができるようになった。その探求の結果は、意外なことに、ニーチェの結論と同じものだった。神は存在しない(エックハルトはこの体験から「無の神」という表現を得ている)、超越としての神は存在せず、ただ永遠回帰するモノだけがある。」・・・といい、神は存在せずと言い切るのであるが、ちょっと待って欲しい。たしかに量子論の発達は目覚しい。しかし、量子論的な探求によって何がわかったというのか。物質の最小単位であるクオークが突然エネルギーに変わるということはわかった。クオークのレベルになると・・・たしかに・・・モノとタマの場合と同様に・・・物質とエネルギーの違いはない。すべては宇宙のビッグバンから始まった。そしてその宇宙の力がすべてのものを創り出している。宇宙の力は変化の力である。物質がエネルギーに変ったり、エネルギーが物質に変ったりするのも宇宙の力である。しからば、その宇宙の力は、宇宙のビッグバンとともに作用しはじめたとしても、そのもとは何なのか。やはり宇宙創造の主、すべてのものの創造の主、つまり創造主というものを考えねばならないのではないか。

 

 先に述べたように、西田幾多郎は、その認識論において、主語面と述語面というものを考え、次のように言っている。つまり、「われわれ人間の知識の体系そのものが、このように具体的一般者の無限の層の重なり合いから成っている。それは二つの方向を持ち、一方では、判断の主語的方向の極限に無限に深い直感的なものが見られる。と同時に他方では、述語的方向の極限に、そこにあるすべてを含む無限に大きい一般者が見られる。」・・・と。西田幾多郎の言う「そこにあるすべてを含む無限に大きい一般者」とは、創造主、つまり神のことである。西田哲学では神は存在するのである。

 西田哲学にしたがって、この世界は述語の世界と主語の世界にわけて考えるとよい。述語の世界は述語的述語の世界と主語的述語の世界にこれまたわかれる。これらのことはすでに述べた。同じように、主語の世界は述語的主語の世界と主語的主語の世界にわかれるのではなかろうか。前に述べたこととかなりの部分が重複するが、ここは大事な場面であるので、再度これらの概念の説明をしておきたい。「古池や 蛙飛び込む 水の音」と同じ年にやはり松尾芭蕉がつくった「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」というふたつの俳句を使っての説明である。神は存在するのである。

 

 延原時行が言うように、「蛙飛び込む」は行為の世界、倶現である。そして、「水の音」、これはホワイトヘッドの言う満足、倶現の完了である。ところで、この水の音は、古池の音なのか、蛙の音なのか? 無論、延原時行が言うように、古池(宇宙そのもの、超越者)と蛙(個己)との一体化した「ドボン!」であった。そういうものとして水の音は、芭蕉にとって大音響に響いていたにちがいないと・・・・、延原時行は言っている。

 

 そうなんだ。大音響に響かなければならないのだ。感動とはそういうものである。そこは全く延原時行と私と考えが一致している。ただ違うのは、彼は、「古池」を宇宙の象徴として捉え、「蛙飛び込む」を宗教的行為の象徴として捉えているのに対し、私は、それらを象徴としてではなくて、そのまま現実の姿として捉えている点である。「古池」はそういう「場所」であり、「蛙飛び込む」はそういう「行為」である。

 

 「古池」とか「名月」は「場所」の世界である。純粋の述語というか述語的述語の世界である。静的な世界である。場所的な舞台装置が大事である。「場所の論理」の働く西田哲学の世界である。自然はもちろんのこと歴史と伝統というものが大事にされなければならない。

 

 「蛙飛び込む」は行為の世界である。変化を生じせしめる主体の存する主語的述語の世界である。動的な世界である。そこで役者としての人びとは何を演じるか、人びとの生き様が大事である。他者の行なっている行為によって感動が呼び起こされる。私たちは役者の演じる演技を見て感動するのである。

 しかし、私たちは他者の行為によって感動を与えられるだけではない。自ら役者となって演ずることだってあるのだ。自ら行なう行為によって宇宙と響き合い、感動を覚えることもあるということである。「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」の「池をめぐりて」は自ら行なう行為の世界である。「夜もすがら」という心境はまさに宇宙と一体になった心境であるが、これは名月のかもし出すリズムとおのれとの共鳴によるものなのか。池をめぐることによりその行為が宇宙のリズムと共鳴しているのか。両方だろう。だとすれば・・・・・、この場合も、「夜もすがら」で象徴されているリズムは、名月の発するものでもあり、池をめぐる自分の発するものでもある。それらが一体になっている。すなわち、池をめぐっている自己は、自己的自己ではなく、名月的自己なのである。そういう意味で、私は、「池をめぐりて」の世界を述語的主語の世界と呼ぶ。

 

 主語的述語と述語的主語の世界は、他者か自己かは別にして、いずれにしろ行為の世界である。この行為の世界は、「光と陰の哲学」の働く中沢新一の世界である。それが「劇場国家にっぽん」のあるべき世界観であるということだ。ピュシス的技術ではなくて・・・・モノ的技術によるところの・・・・「モノ」づくりが大事にされなければならない。

 

 「水の音」とか「夜もすがら」はインスピレーションの世界である。意味の世界である。判断主体の存する主語の世界である。我は何を感じるか、感じ方が大事である。リズム論の働く中村雄二郎の世界である。「自覚の二重性」つまり宇宙そのものの自覚というもの(宇宙論)と人間的自己の自覚というもの(宗教)が重なり合っている・・・・延原時行の世界である。延原時行がいうように、たしかに神は存在するのである。「場所」との響き合い、「モノ」との響き合い、人々との響き合い、宇宙や神との響き合い・・・、響き合いというものが大事にされなければならない。中沢新一は「神は存在せず」と言い切るが、それでも・・・・私は神は存在すると思う。

 

  「劇場国家にっぽん」は、この4つの世界からなっている。歴史と伝統を大事にし、とどうじにタマを大事にする。そのためには、市場経済ではなくて、贈与経済によって、「モノ」づくりを進めなければならない。それによってはじめて人々の間に・・・響き合いによる感動が生れてくるのである。「水の音」や「夜もすがら」という宇宙との響き合い、タマとの響き合いによる心の深層部分を震わすような感動というものがなければ、各種のニヒリズムから逃れることは難しい。「劇場国家にっぽん」は、そういう感動を得るための・・・「場所」づくりと「モノ」づくり、そしてそのためのコミュニティーづくりないしネットワークづくりを目指している。それは、贈与経済としての・・・・感動のシステムづくり・・・・といってもよい。

 

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