海人(あま)

 

 

 古文献に海人,海部,蜑,白水郎などと記す。海を主なる生業の舞台とし,河川,湖沼で素潜(すもぐ)りする漁民をはじめ,釣漁,網漁,塩焼き,水上輸送・航海にたずさわる人々を,今日いう男あま(海士),女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する。

[系統と分布]  日本民族の形成過程のなかで,かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり,インド・チャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。前者は,古典にみえる阿曇(あずみ)およびその傍系である住吉系漁労民で,中国南部の(びんえつ)地方の漂海民の系統をひき,東シナ海を北上し,山東半島から遼東半島,さらに朝鮮半島西海岸を南下し,多島海,済州島方面を経て玄界に達する経路をたどったと推定される。後者は,宗像(むなかた)系海人と呼ばれ,フィリピン付近海域から黒潮の流れに沿ってバシー海峡,台湾,沖縄,奄美諸島などサンゴ礁の発達した島嶼(とうしよ)を伝って南九州に達したと考えられ,古典にいう隼人(はやと)系に属する。両系の種族が日本へ達した前後関係は明らかでないが,玄界で交差し,混血も行われたであろう。

 阿曇・住吉系はしばらく北九州海域を根拠地とし,のち,瀬戸内海中心にその沿岸と島々,さらに鳴門海峡を出て紀州沿岸を回り,深く伊勢湾に入り込み伊勢海人として一大中心点を構成し,さらに外洋に出て東海道沿岸から伊豆半島ならびに七島の島々に拠点をつくった。それより房総半島から常陸沿岸にかけて分布した。彼らは航海に長じ,漁労をも兼ねる海人集団とみられる。

 これに対し,宗像系海人は,もっぱら手づかみ漁,弓射漁,刺突漁など潜水漁を得意とした。本拠を筑前宗像郡鐘ヶ崎に置き,筑後,肥前,壱岐,対馬,豊後の沿岸に進出,さらに日本海側では向津具半島の大浦,出雲半島と東進,但馬,丹波,丹後から若狭湾に入り,なお能登半島,越中,越後,佐渡に渡り,羽後の男鹿半島に及んだ。両系統とも,なかには河川を上し内陸部へ進み陸化したものもあった。

 彼らの定住地の跡には,その記念碑ともいうべき関連地名が残されている。海部そのままの名や,4〜5世紀のころ,朝廷から海人族を宰領する役割を担った阿曇氏に関係あるものが目立つ。また,その奉斎する祭神から移動,分布が推定される。三島神社の祭神大山(おおやまつみ)は,《古事記》によれば,摩半島笠佐岬付近にまつられたが,早く摂津淀川の中流の三島,伊予の大三島,さらに伊豆の白浜のち三島に移された。宗像系による宗像神社の分布も津々浦々に及び,住吉の神は長門,摂津,播磨などのほか全国的に広く勧請された。

註:大山阿夫利神社

 

 長い歴史過程のなかで,海士と海女の分布にはかなりの変化があったと考えられる。1935年ころの調査では,日本の南西部(沖縄,鹿児島,宮崎,長崎など諸県)と北東部(岩手,福島,城の諸県)にかけては,ほとんど海士が占め,その両地域の中間部に海士・海女が共存している。海女が優位を占める地域は,福岡,山口,福井,石川,三重,静岡,千葉県などであり,これら諸地域では,明治時代以後に海女が現れたところも少なくない。海士の地域に海女が稼業するようになった理由として,遠洋漁業など強い労働力を必要とする,より有利な漁労に海士が進出し,その空白を海女が埋めて潜水漁労に従事するにいたったものと解される。

[捕採物]  男女による性差分業が認められ,海士は主として海底または近くにすむタコ,エビ,ナマコ,ウニ(ガゼ),遊泳する魚類などをもりやかぎなどの漁具で捕採する。一方,海女は,アワビ,トコブシ,サザエ,イガイ,カキ,ヤコウガイなどの貝類や,ウニ,ナマコおよび食用となるテングサ,ワカメ,エゴノリ,コンブ,アラメや,フノリ,ツノマタ,カジメなどの糊やヨード剤の原料となるもの,肥料用のホンダワラなどを対象とする。なかでもアワビは,古代,宮廷の祭儀用に献上する熨斗(のし)鮑として,また近世中期以降中国向け輸出品の俵物として珍重された。テングサは19世紀ころから寒天の材料として需要が増すと,テングサ海女が激増した。

[潜水作業と道具]  古文献に潜水する海女を〈かずきめ〉と記すように,潜水作業をすることを志摩半島や徳島県や伊豆方面ではカズクといい,大分県でスム,その他ではモグルというところが多い。普通,夫婦で舟を漕ぎ出し潜るフナアマ(フナドとか本アマともいう)と,桶やタンポ(浅い桶形の浮きの下にスカリ網をつるしたもの)を持参して泳いでいったり,海岸の岩礁伝いに歩いて漁場までいくカチド(ダキアマともいう)とに大別される。

 潜水沈下速度をはやめ,能率をあげるために分銅を用いるようになったのは比較的新しく,志摩の国崎(くざき)では石に穴をあけて綱を通した素朴な事例が知られている。一操作をヒトカズキとかヒトクラといい,季節や土地により異なるが,その時間は30分から1時間余,1日2〜3回繰り返す。潜水深度は20ひろ(約36m)に達するものもある。沖縄・糸満の海士による潜水漁はとくに優れ,ボタンの原料として商品価値の高いヤコウガイやギンタカハマガイなどの貝類を素潜りにより大量に捕採する。また,サンゴ礁の外縁域に群棲する魚類を,大規模な追網に潜水して追い込んで捕獲するのをアギャーという。〈魚カケキ〉というかぎ状漁具やもりを持って泳ぎながら魚を突く方法は,南方から黒潮に沿って北上した海士がひろめたものらしい。台湾の東沖合にある蘭嶼(らんしよ)(紅頭嶼)に住むヤミ族は,農耕とともに,島をとりまくサンゴ礁の好漁場で,日本でいう〈魚カケキ〉に酷似するラランと呼ぶかぎ状の漁具(全長約60cm)を使用して,潜水漁労にいそしむ。

 日本でアワビを採取する際に使用する鉄製の梃子形のへらを,イソガネと呼ぶ地方は多く,カイガネ,フグセ,ノミなどともいい,ナサシ(魚刺し)という地方もあり,形態には地方差がみられる。潜水眼鏡の普及は明治20年代からで,今日多用されている鼻を取り込んだハナメガネという一眼式のものは,便利で能率の著しい向上をもたらした。⇒行商

[河川・湖沼のあま]  河川で水中に潜り魚を捕る例が,《利根川図志》(1858)に〈鯉の抱きとり〉として図入りで紹介されており,その他の地域の河川でも名物として知られている。琵琶湖西岸の高島郡安曇(あど)川尻,堅田小番城(こばんぎ)の漁師を俗にチャリンコとかチョリンともよび,ハリブネという名の2,3人乗り小舟を常の住居として湖面を周遊,〈漁儀一辺は草分已来之儀〉といい伝え,近年までほとんど変わることがなかった。五島列島や瀬戸内海の家船(えぶね)漁民と同系統に属する海人の残留らしい。

[海人と民俗芸能・文芸]  大和朝廷が稲作農耕を主軸とする生業を基盤に成立し,律令国家が整備されていくなかで,海部(あまべ)は一種のはみ出しものの立場に置かれ,漂泊民となり諸国遍歴の旅に出るものも多かった。中には,早くから漁労よりも卜占や芸能を身につけ,家々を回って門付を業とする集団もあった。彼らは遊行の宗教者として,また海の信仰を背景にもつ歌謡,物語,人形劇を持ち回る芸能人傀儡(くぐつ)師でもあった。彼らが日本芸能史上に果たした役割はきわめて大きい。古代神話のなかに,海人たちの間に発生,伝承されてきたと思われるものがいくつかあり,それらには周辺諸民族のものとの類似が認められる。まず,《丹後国風土記》逸文所載の〈水江の浦嶼の子〉は,中世後期に御伽草子が盛行するなかで,〈浦島太郎〉の話となって今日に伝承されている。主要モティーフは,海神宮訪問―異郷淹留(えんりゆう)―それにまつわる禁止となっている。そもそもこの浦嶼子説話は,宗像系潜水漁労民の間に伝承され,のちに阿曇系や住吉系漁労民にも受容されて,広域に分布するにいたったと考えられている。中国内陸湖沼地帯での民話〈洞庭湖の竜女〉は,浦嶼子説話ときわめて似ている。また,記紀の神代巻にある有名な〈海幸・山幸〉の交換説話の主要モティーフは,いわゆる〈失われた釣針〉型の話で,この類話はインドネシアから西部ミクロネシアにかけて濃厚な分布を示し,その変型は中国内陸水界民の間にもみられる。これらの類似は,中国内陸部の民族移動と関係があるかもしれない。マレーシアからインドネシア方面のオラン・ラウト Orang Laut(海の人)とよばれる水上生活者と,日本の家船の人々との相関関係の有無は,まだ残された課題である。

[済州島のあま]  日本の海女のように,女性が潜水漁労に従事する例は,世界でも,隣接する韓国済州島の海女以外にはみられないといわれる。朝鮮史書では《済州風土記》(1629)に〈潜女〉の記載がみられるが,古くは南朝鮮にひろく分布していたらしい。現在は済州島に限られ,約9000人の潜女が操業している。この潜女と日本の海女とは,泳ぎ方,潜水作業の方法や道具など多くの共通点が認められる。違う点は,日本の海女は潜水に際し,サイジとかイソヘコとよぶふんどし様の腰布をつけるが,済州島の潜女は藍色の木綿製水泳着をつける。また,捕採物は畑の肥料にする馬尾草が主であり,食用の海藻類,貝類は副次的で,農耕生活の一環として行われる。このような農耕文化の反映を示す点は,海藻類の採れないとき行う潜水賽神に際し,神房(巫人)が粟を海中に撒布し,それが種となって海藻の芽が出るという信仰にあらわれている。済州島の潜女が日本の海女より優れている点は,冷水温に強く,妊娠・月経中もいとわず,四季にわたって操業し,賃金の安いわりに能率がよい点である。潜女の優れた能力が島外に発揮されたのは,1900年ころからで,北は遼東半島,沿海州方面から,南は対馬をはじめ日本列島各地沿岸に進出した。

                        北見 俊夫

 

 

註:「海人の陸上がり説への疑問」・・・という疑問を呈している人もいるが、私は、宮本常一や北見俊夫などが言っている・・・海人(あま)の陸上がり説とでもいうような説を支持している。特に、海辺であろうとな陸上であろうと、どこでも自由に遊動できる旧石器時代においては、海人(あま)の多くは川を中心に陸の奥深く誘導するようになったと思う。もちろんそういう人たちの子孫の多くは川べりに住むようになったであろう。北見俊夫は、上述のように、「阿曇・住吉系はしばらく北九州海域を根拠地とし,のち,瀬戸内海中心にその沿岸と島々,さらに鳴門海峡を出て紀州沿岸を回り,深く伊勢湾に入り込み伊勢海人として一大中心点を構成し,さらに外洋に出て東海道沿岸から伊豆半島ならびに七島の島々に拠点をつくった。」といっているが、私は、歴史は連続しており、旧石器時代にこういったことの下地ができたと考えているのである。旧石器時代は、阿曇などという氏族はもちろんなかったが、海人(あま)の先祖の一部に伊豆半島、とりわけ熱海に定住した人たちもいた。私はそう考えている。そして、月見野遺跡に住んでいた人たちは熱海の海人(あま)と盛んに交易していたと考えている。そして、そういう人たちの信仰の山が、相模湾を航海する際に格好の目印となる山、すなわち「大山」でなかろうか。なお、念のために申しておけば、鎌倉は、古来、海上交通の一大拠点であるので、「大山」は鎌倉にとって聖なる山であった。私はそう考えている。そして、信仰上、大山阿夫利神社と熱海の伊豆山神社は一体不可分のものであったと考えているのである。伊豆山神社については、私のホームページ「初島」から一連のものを見て下さい!

 なお、前にも申し上げたが、神津島の黒曜石は、伊豆に住んでいた「海の民」が、神奈川台地の「野の民」に伝授された技術でまずは伊豆・箱根の黒曜石を採取・加工し始めたのであろう。

 

 

[日本の海士と海女]  記紀以降の古文献に散見される〈あま〉という呼称は,《和名抄》に〈白水郎,和名,阿万〉とあり,《万葉集》などに〈海人〉とも表現され,海とかかわりをもって暮しをたてている漁労者や製塩に従事する人々一般を含んでいた。しかし,しだいに〈あま〉という言葉が裸潜水漁労者だけに限定して使われるとともに,その中でも男女を区別した言葉や文字が用いられるようになった。鎌倉時代のはじめ,西行の《山家集》の歌中に,〈年経たる浦の海士人言問はん波を潜(かず)きて幾世過にき〉とみえ,このころすでに男の裸潜水漁労者と〈海女〉を区別して表現していたことがわかる。男女〈あま〉の使い分けは,江戸時代になるとさらに明瞭で,《和漢三才図会》は,裸潜水漁労者すべてを蜑人(あま)または白水郎(あま)とし,男を海士(あま),女を潜女(かずきめ)というが,〈海士〉は日本だけの呼称だとしている。さらに,《肥前州産物図考》(1784)中に,海士の項があり,〈鮑を取る事大概図のごとし。浦によりて男海士有,女蜑有,もっこ褌をして腰に越鉄という物を指す也〉とみえる。こうして,裸潜水漁労者の男女の区別は言葉や文字によりしだいに定着し,現代では〈あま〉のうち,男を海士,女を海女と表示するのが普通になっている。海士の特性は,もりやかぎを持って潜り,魚類やエビ,亀などを捕獲する伝統を今日に伝えていることで,この点が海女の貝や藻などの採取にとどまることと異なる。《魏志倭人伝》に〈今倭水人,好沈没捕魚蛤〉とあることは,倭の水人が〈海士〉であることを裏書きする。                      田辺 悟

 

(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

Iwai-Kuniomi