未開社会の思考を支配する「分有の法則」

 

 

 私は、「宇宙との響き合い」とか「帰属意識」ということをよく言う。

 

 自然との触れ合いの中で、「自然との響き合い」とか、「宇宙との響き合い」を体験し、感性というものを育てていかなければならないと考えている。

 21世紀はインターネットの時代であるが、インターネットの時代つまり高度情報化の時代というのは、梅棹忠夫がその情報論の中で言うように、感性の時代でもある。知性もさることながら、感性というものを磨かなければならないのである。

 また、個人のイキイキとした生き方というものはいつの時代においても絶対的に必要だが、注意しなければならないことは、個人の対極にある集団というものについて正しい認識が持てるかどうかである。私が思うに、個人のそういうイキイキとした生き方というものは、むしろ集団というものの存在が大前提にあり、集団への「帰属意識」というものがないとそういう生き方も難しい。特に、21世紀はグローバル化の時代であり、地球規模でものを考えることが重要になってくるのだが、私は、そういう時代であるからこそ、むしろ国とか地域というものがもっとクローズアップされなければならないと思う。

 

 私は、そのように考えて、「宇宙との響き合い」とか「帰属意識」ということを良く言うのだが、「宇宙との響き合い」とは具体的にはどんなことなのか、はたして「宇宙との響き合い」というものが可能であるのかどうか、あるいは個人のイキイキとした生き方のために何故「帰属意識」というものが必要なのか、・・・・今まで私はその辺の説明をすることができなかった。やはりそれらを理解するためにも哲学的な理解が必要でなのである。また、先に述べた「創造的破壊」を進めるためにも、哲学的な裏打ちが必要であろう。

 哲学的な思索を深め「創造的破壊」を進めるためには、どうも田邊哲学にでてくるとことの「分有の法則」というものや「種の論理」というものを知っておく必要があるようだ。以下、中沢新一の著書「フィロソフィア・ヤポニカ(集英社)」にしたがって、「分有の法則」なり「種の論理」なりその辺の哲学について勉強していきたいと思う。

 

 人間には、論理以前の論理(前論理)というのだそうだが、・・・・直感みたいなものであろうか、そういうものの働きによって、他者又はモノと一体感を感じることができる。人間すべてが持っている論理を超えたものの働き、すなわち前論理の働きによって、他者又はモノの持つ性質を自分自身の中に分有することができる。これが「分有の法則」というものであるらしい。

 

 レヴィ・ブリュルという20世紀初頭に活躍した哲学史家がいる。レヴィ・ブリュルは、未開社会に見られる神秘的でおおよそ非合理的なことがらを、「分有の法則」という合理的な論理以前の論理(前論理)の働きとして論理的に捉えなおし、「社会的な絆はいかにして可能であろうか」という時代の要請する社会主義的問題に、新しい光りを投じようとしたのである。彼は有名な「未開社会の思惟(岩波書店)」の中で、次のように書いている。

 

 「カンガルーのトーテム集団に属している各個人は、みなが同じ<カンガルー性>を分有され、そのことが彼らの間に同じ成員同志やトーテムの祖先が住んでいる土地との、深い絆をつくりだしているのである。ここに働いている論理が、分有の論理である。」

 

 レヴィ・ブリュルは実に哲学史家らしいやり方で、社会的な絆の形成の問題を、思考の構造の問題に置き換えてみせている。彼は人類学者たちが報告している、いわゆる「未開社会」の人々の奇妙なものの考え方を観察して、それがプラントンの「イデア」の考えにどことなく似ているということに、気がついたのである。

 プラトンの「イデア」も固体性を超えている。私たちがこの岩が美しいと思い、また別の人もそれを美しいと思うのは、「美のイデア」が各個人に「分有」されているからだと、プラトンは思考している。同じように、カンガルー・トーテムに属するオーストラリア・アポリジニーの一人一人が、自分はカンガルーである、と語ることができるのは、「カンガルーのイデア」がそれらの人々の間に、「分有」されているからではないのか。

 プラトンはそれ以上のことにはあまり関心を持たなかったが、レヴィ・ブリュルはその「カンガルーのイデア」がどうやったら個人の中に分有されるに至るのか、そのプロセスに深い関心を寄せたのである。その結果として、カンガルー=人間のようなハイブリッドな精霊的存在の活動をめぐる、複雑なプロセスが描き出されることとなった。

 さて、このようなアイデアに立って、レヴィ・ブリュルは、未開社会の思考を、「分有の法則」に支配された、いわゆる前論理の思考として分析したのである。田邊元は、レヴィ・ブリュルの語っていることはもっと深く哲学化できると考えた。すなわち、彼はそれを「種の論理」の表現形態の一つとして、捉えなおすことができると考えたのである。「分有の法則」というものについてある程度理解が得られたところで、ぼちぼち田邊元の「種の論理」という本丸に迫っていきたのだが、あわててはいけない。「種の論理」を語る前に、「分有の法則」について田邊元がどのように考えていたのか、そこがもっとも肝心なところであるように思われるので、その点につきまず勉強することとしたい。

 「分有の法則」の哲学的考察!

 

Iwai-Kuniomi