「分有の法則」について・・・私の解釈
「ジキル博士とハイド氏」という小説は、イギリスの小説家・スチーブンソンが1886年に書いた有名な小説である。人格者ジキル博士が薬を飲むと極悪非道なハイド氏に変身するという、・・・言うなれば、二重人格者の悲劇を描いたものだが、人間の善悪の葛藤を取り扱った・・・大変哲学的な課題を秘めた小説である。
いうまでもなく、ジキル博士とハイド氏は同一人物である。したがって、ハイド博士はジキル氏であるとってよい。こういう二重人格者は世の中にそう珍しいことではないが、現在、十六重人格者まで確認されているという。
「群盲象を撫でる」というたとえがあるが、一人の人間にもいろんな人格がある。通常は、それらがバランスよくコントロールされているので、悪い人格はそう表にでてこない。そのコントロールされているさまを、河合隼雄さんは「アイデンティティー・ネットワーク」という概念で説明されておられる(「日本人の心のゆくえ(岩波書店)」)。岡野憲一郎さんの理論(「脳と心の多重理論・・・心のマルチ・ネットワーク(講談社)」)もおおむね同じような概念のものと考えてよい。いろんなアイデンティティー(人格)がネットワークで繋がっている。ある人格が何かの拍子で力を得て巨大化すると、その繋がりが切れる。その繋がりが切れると、その巨大化した人格が表面に飛び出してくる。それがたまたまジキル氏であったりするのである。
人間は誰でも善人といえば善人であるし、悪人といえば悪人である。善人にもなるし、悪人にもなる。確認されているのは十六重人格者であるが、世の中にいろんな人がいることを考えれば、一人の人間の中に存在するアイデンティティー(人格)は、数えきらないぐらいの種類があるのではなかろうか。それらアイデンティティーの中心が「自己」である。
以上の文章は、かって「怨霊普遍」という私のエッセイの一部であるが、このたびの「分有の法則」との関連で、「アイデンティティー・ネットワーク」という考え方を・・・・生物全体に普遍化して考えるとよいのではないかと思う。
現在存在するものは全て宇宙のビッグバンから始まって、極めて複雑な過程を経て生成されてきたものである。そして大事なことは、生命体が細胞分裂を起こして成体が出来上がる間にかっての進化の過程を辿るという事実だ。進化の過程を辿るということは生命体の細胞分裂の原初の段階で生命体のビッグバンが起こっているということだ。生命体のビッグバンから始まって、生命体の細胞分裂がものすごい勢いで進んでいくのだが、それはいままでの生物の進化を目の当たりに見るようだ。
最新の発生学による科学的知見によれば、動物の発生過程はひとことで細胞分裂というだけでは説明し切れない誠に複雑な現象を辿るのであるが、ここでは分裂という現象、つまりものすごい数のアイデンティティーが分裂によって発生するという事実だけに注目して、細胞分裂という言葉を使っている。しかし、動物における成体の発生過程というものは、まるで生物の進化を辿っているような複雑極まる現象であることはいうまでもない。なお、ここでは判りやすくいうために、以上の表現は私流にかなりデフォルメしていることをお断りしておく。
生命体の細胞分裂、すなわち生命体の進化の過程に応じて、それぞれアイデンティティーが無限と言っていいほどの数で出来上がっていくのだが、そこには「葦性」のアイデンティティーもあるし、「鯰性」のアイデンティティーもあるし、「金剛インコ性」のアイデンティティーもあるし、「カンガルー性」のアイデンティティーもある。「種」と「個」というときの「種性」と「個体性」というものは、要するに、そういった無数のアイデンティティーの分類であって、そういう「種性」と「個体性」は、生命体のビッグバンから始まり、細胞分裂の過程を経て出来上がっていく。哲学では、これを原初の絶対否定を媒介にして「種性」と「個体性」というものが発生したという言い方をする。原初の絶対否定なんて言われると何のことか判らなくなってしまうが、要するに、ビッグバンが始まる前の絶対的な無の状態を言うのだろう。それが生物の誕生の過程で生じている。
アイデンティティーはある波長で震えている運動体である。「種性」というものはアイデンティティーに関するグループとしての性質であり、「個体性」というのは個体としての性質をいうが、いうまでもなく「種性」に分類されたアイデンティティーは「個体性」に分類されたアイデンティティーとは波長があわないので互いに反発しあっている。哲学的には「否定」という言葉を使うが要するに波長があわないのである。「種性」としてのアイデンティティーは、お互い波長があうが、「種性」のアイデンティティーと「個体性」のアイデンティティーとは波長があわない。波長があえば互いに引き合うし、波長があわなければ互いに反発しあう。これは「共振の原則」である。
「分有」とは同じようなアイデンティティーあるいは同じ波長のアイデンティティーを共有しているということである。原初の絶対否定から総てのアイデンティティーが発生し、それは自ずと「種性」と「個体性」に分かれるのだが、各アイデンティティー単位で見ると、引き合うのもあるし反発するのもある。「種性」、「個体性」の分類別で見れば・・・・引き合うか反発するかどちらかである。
人間が有する数多くのアイデンティティーの中に「葦性」を持ったアイデンティティーもある。したがって、人間は、総体的には人間であるが、「葦性」に着目すれば「葦」である。人間が有する数多くのアイデンティティーは「種性」か「個体性」のどちらかに属するが、「葦性」や「鯰性」や「金剛インコ性」や「カンガルー性」など・・・他の生物と「分有」するアイデンティティーはおそらく「種性」に属するのであろう。「他者」との違いを特徴付けるアイデンティティーはおそらく「個体性」に属するのであろう。
いずれにしろ無限と言っていいほどのいろんなアイデンティティーがあって、それらは固有の波長を持ってピクピクと自己振動している。ものすごい速さで震えているのだ。相手によって引き合うか反発するかの鋭敏な運動体である。
響きあいというのは、外からの波(リズム)に自己のアイデンティティーのどれかが共振することであるが、共振は必ずしも外からの波(リズム)だけではない。自ら発する波(リズム)によって共振することもある。
以上が「分有の法則」に関する私の説明である。如何であろうか。
中沢新一いわく。原初の絶対否定を媒介にして、「種性」と「個体性」というものが、発生したのである。この「個」と「個体性」が互いに媒介し、否定しあいながら、宇宙の中における人間の世界がつくられていく。そして、これらすべての過程を突き動かしているのが、「分有の法則」にほかならないのだ・・・・。
何故ビッグバンが起こるのかは問うまい。これはそのまま真実として受け入れればいい。同様に、なぜ細胞分裂が起こったり、なぜそういう原初の絶対否定(ビッグバン)を媒介にして「種性」と「個体性」というものが発生するのかは問うまい。これらもそのまま真実として受け入れて、そういう現象を生ぜしめている法則が「分有の法則」であることをそのまま率直に認めればいいのだ。