ディエゴスアレス

 

 

 私たちは、歴史を生きている。私たちは、過去の歴史とのつながりの中で意識の有無にかかわらずさまざまな影響を受けながら、現在を生き、未来を生きるのである。現在を立派に生き、未来を立派に生きるためには、歴史はしっかり身につけておくべきである。マダガスカルとの友好親善のためには、マダガスカルがわが国の歴史の中にどのような形で登場してくるのか、或いは日本がマダガスカルの歴史の中にどのような形で登場してくるのか、それらを知っておくことはたいへん大事なことであろう。元駐マダガスカル大使の山口洋一の著書「マダガスカル・・・アフリカに一番近いアジアの国」(1991年、サイマル出版会)によれば、わが国の歴史の中にマダガスカルが登場するのは日露戦争の時と第二次世界大戦の時であり、マダガスカルの歴史の中に日本が登場するのは独立運動の時であり、それぞれ概要がよくわかる。ここでは日露戦争の時と第二次世界大戦の時にマダガスカルがどのように登場してくるのか、それらの点に焦点を絞ってお話したい。ディエゴスアレスとの関係が極めて深いからである。ディエゴスアレスとわが国との関係といってもよい。まず、日露戦争から始める。

 

 日露戦争といえば、そのハイライトは、いうまでもなく日本海開戦である。当時世界最強といわれたバルチック艦隊と東郷元帥率いる聯合艦隊との・・・あの日本海開戦である。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス。」

「本日天気晴朗ナレド浪高シ。」

・・・・・。

 この日本海開戦については、司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」に余すところなく書いてある。これほどの名著になれば、下手に歴史を勉強するより、よほど歴史小説の方が身になる。こういう歴史小説は国民誰もが読んで欲しい。この「坂の上の雲」を読んでもらっているという前提で、私がいいたいことが二つある。

 一つは、いうまでもなく秋山真之(さねゆき)という天才がいなければ、あの驚くべき戦法は生まれなかったのだが、実は、瀬戸内海における村上水軍というものがわが国の歴史に登場していなければ、その驚くべき「T字戦法」というものは生まれなかっただろうということである。げに、「伝統の創造力」を地に行く話である。村上水軍の源流を辿ると気が遠くなるほどその歴史は古い。おそらく神武天皇の東征まで遡らなければならないのではないか。私は、おそらく物部氏のルーツまで遡って調べないと村上水軍の歴史を解明できないのではないかと考えているが、まあその辺はこの際どうでもいい。村上水軍の戦法にヒントを得て、秋山真之(さねゆき)があの驚くべき「T字戦法」を構想できたということである。「坂の上の雲」にも紹介してあるが、かって秋山真之(さねゆき)が入院中、友人の小笠原長生の家蔵本である水軍書を借りて読み、そのうちの能島流水軍書からヒントを得た。再度申し上げるが、「伝統の創造力」というものは誠に大事である。私たちは、歴史を生きている。私たちは、過去の歴史とのつながりの中で意識の有無にかかわらずさまざまな影響を受けながら、現在を生き、未来を生きるのである。現在を立派に生き、未来を立派に生きるためには、歴史はしっかり身につけておくべきである。

 

 さて、申し上げたい二つ目は、ディエゴスアレスとも関係があるのだが、当時、ディエゴスアレスに赤崎伝三郎という人がいなければ、ひょっとすれば秋山真之(さねゆき)があの驚くべき「T字戦法」を使えなかったかもしれないということである。

 ここは赤崎伝三郎にとって大事な場面であるので、「坂の上の雲」から関係部分を抜粋することとする。

 

 『・・・・バルチック艦隊がどこを通るか。ということについては、バルチック艦隊そのものにもロジェストウェンスキーの個人的決断以外に定見がなかったように、日本側の主脳たちも敵の考え方に対して確乎(かっこ)とした観測をもてず、持ちようもなかった。「対馬海峡ををくぐって日本海コースをとってくれればもっともよい。しかし、大平洋をまわって対馬海峡や宗谷海峡を経る公算も大である。」・・・という無意味な論議がくりかえされていた。

 もし日本側が艦隊を二セット持っておればその両方に手当てをしえたであろう。ところが一セットしかない以上、敵が大平洋を回るとすればできるだけ早期にその情報を得、南朝鮮の鎮海湾からいそぎ走り出て北方に回らねばならず、対馬コースをとるとすれば鎮海湾での潜伏をつづけていなければならない。この行動にすこしでも食い違いができれば、日露戦争そのものが重大な危機に堕(お)ちこむのである。

 秋山真之(さねゆき)も、

 「敵はおそらく対馬海峡からやってくる」

 という公算を八分どおりまでもっていたが、しかし、

 「北海迂回ヲ絶無ト為スベカラザルコト勿論ニシテ・・・・」

と、小笠原長生(当時大本営幕僚)の後年の文章にもあるように、ここですべての持ち金を丁半(ちょうはん)いずれか一方に賭けてしまうことがいいかどうかについては、かれ(秋山)はその張り手の立案者だけに決断しかねるものがあり、この思案のために人相が変わるほどに憔悴(しょうすい)してしまった。

「秋山君はすこぶる迷っているようで、心配そうな顔をしていたので・・・」

と、当時の秋山真之(さねゆき)の印象を、第四駆逐隊司令官だった鈴木貫太郎中佐(のち大将)が語り残している。』

(中略)

 『5月14日に仏領安南の湾を出たバルチック艦隊が、いまだに日本近海にあらわれないということが、いちぶ艦長たちの「大平洋迂回説」の有力な根拠になっているのである。

「対馬を通るとすれば、もう現れてもよさそうなものだが、一向に姿を見せない」

と秋山真之(さねゆき)はいった。憔悴は憶測を生んだ。すでにロジェストウェンスキーとその一行は東郷らの知らぬまに大平洋迂回コースをだどりつつあるのではないか、ということであった。もしそうであるとすれば、維新以来30余年にわたってこの貧乏国が大海軍を築き上げた甲斐はまったくなくなってしまうのである。

「私はそうは思わないね」

と、鈴木貫太郎中佐は、西日本出身の多いこの当時の海軍士官としてはめずらしく歯切れのいい関東弁でいった。

(中略)

「対馬コースならもうやってくるはずだのに来ない、と考えている人たちは、バルチック艦隊が10ノットの速さでやってくると思っているのだろう」

と、鈴木貫太郎中佐はいう。

「なるほど10ノットの速力だという情報がさきに入っているからむりもないが、しかしマダガスカル島から走ってきた速力をずっとみていると、どうも7ノットらしい。たとえ目撃者が見たある時間内での速力が10ノットであっても、かれらは途中、洋上で艦隊を停めて石炭搭載などをしなければならない。だから平均7ノットをもって計算の基礎とするのが穏当ではないか」

「はあ?」

と、と秋山真之(さねゆき)は意外なことを聞くように鈴木貫太郎中佐の顔を覗き込み、いそいで酒を飲み込むと、暗算をはじめた。もし敵が平均7ノットでやってくるとすれば、あせる必要は少しもなかった。彼等が日本近海にあらわれるまでにあと5日を要するか、それとも6日を要する。

当方としては、それを待つだけでいい。』

 

 バルチック艦隊が、シンガポール沖で目撃されたのは4月8日の昼である。マダガスカルを出向した日にちがわかれば、鈴木貫太郎中佐がいうような計算が成り立つのである。バルチック艦隊のマダガスカルでの動きに関する情報は結果として誠に貴重であったのである。私は、そのことをいいたいわけで、その情報を知らせてきた赤崎伝三郎の存在を忘れるわけには行かないのではないか。赤崎伝三郎がディエゴスアレスに当時居住していなかったら、今の日本はないのかもしれない。歴史に「たら」はないのだが、そこが歴史の必然性というのか何というべきなのか、面白いところである。

 それでは、元駐マダガスカル大使の山口洋一の著書「マダガスカル・・・アフリカに一番近いアジアの国」(1991年、サイマル出版会)から関係部分を抜粋しておこう。文中、ディエゴ・スアレスに住んでいた一人の日本人雑貨商というのが赤崎伝三郎のことである。なお、付言しておくと、バルチック艦隊がノシベに寄港したのかディエゴスアレス湾に寄港したのかはどうでもいい。そのどちらであっても・・・赤崎伝三郎にはバルチック艦隊の動きは判ったはずであると思われるからである。赤崎伝三郎という人がディエゴスアレスにいたということが面白いのである。赤崎伝三郎は天草の人である。

 


日露戦争の話は終わった。

次は、第2時世界大戦の話である。

特殊潜航艇の話をさせていただきたい。

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